Part1-3


                    ◇


 実のところを言ってしまうと、慧雅ケイガでも先生の顔ぐらいは知っていた。

 病院に連れて行ってと頼む夕凪ユウナギに付き添うことはよくあるので、彼女の主治医の先生とも話す機会は何度かあった。

 けれど名前を気にしたことはなかったので、付き合いも結構あるというのになんだか申し訳ない気分になる。


「……どうしたかね。私の顔におかしなところでも?」


 おかしな部分があるかと言えば、そうだと答えるしかないような顔だった。

 不健康さを極めたように落ち窪んだ頬。睡眠を取っているのかも怪しむ目の周りの隈の濃さ。

 オールバックの髪は白髪の割合の方が圧倒的に勝っており、実際は初老程度の年齢のはずがもう二十歳ぐらいは老けて見える。

 医者の不養生という言葉を体現したような人間。それが夕凪儚那ユウナギ・ハカナの主治医であって、仰木星途アオギ・ホシミチと言う名らしい。


「いえ。先生のこと探していたので」


 仰木医師の背後にかかった壁掛け時計の示す時間は十二時半。

 病院に連れてきた夕凪ユウナギを診察室へと送り出して、先生が出てくるのを待っていたらこんな時間だ。


夕凪ユウナギの具合はどうでしたか?」

「変わらないよ。今回の検査でも前と同じく、完全無欠に健康体だ」


 慧雅ケイガを和ませるように出した笑みは、すぐに硬い表情へ変わって。


「そしてそれは、未だに原因不明のままだということでもある」


「…………」


「集団感覚喪失事件から一年、それに関わる患者を数多く見てきたが、全員そうだよ。

 脳を含めた全臓器に一切の異常がなく、しかし特定の感覚や行為だけが不全を起こす。

 物理的な問題でないのならば精神と認知の問題だろうと、当科に回ってきたのだが──」


 進展は何一つ無く、健康を確認するだけの検査を繰り返す一方になっていると。

 仰木医師は無言のままに、その現状を再認させた。


「情報と物質の相互変換理論が確立され技術化した現代文明において、技術面での不可能と呼べるものは数えるほどにまで減少した。それが物理的な問題であるのなら、脳内腫瘍であろうと臓器の欠損であろうと人類は解決可能なものとした。しかし────」

「これは原理すら分かっていない、ってことですか」

「ああ。他の患者の例なのだが、右腕が動かなくなった人がいた。

 彼がどうしてもと希望したので、切り落として機械義肢に付け替えてみたのだが」

「うわっ」


 切断の光景を想像してしまい、思わず失礼な言葉が漏れた。

 イメージするだけで痛みを錯覚するような行為。

 それに挑むにあたって抱いた覚悟を思い描き、そして予想した答えに心が痛む。


「脳波式、イメージ伝達式、とにかく意思によって動かすものは全滅だったよ。

 義肢そのものにAIを搭載したものであるなら動いたのだが、流石に違和感が激しいとね」

「……そうですか」


 夕凪儚那ユウナギ・ハカナの性格を、喜嶋慧雅キジマ・ケイガはよく知っている。

 彼女が何よりも尊ぶのは、自分を世界に魅せていくことだ。

 自分の動きに自分の意思以外が介在するような現象を、彼女は認めはしないだろう。

 なので。


「医者であり元科学者でもある身が言うことではないが──

 人知の及ぶ範囲では解明できぬ問題であるやも知れん」


 夕凪ユウナギの足は治らない。これは科学さえも匙を投げた絶対前提。

 彼女は二度と踊れない。

 銀盤の上を巡れない。

 華麗なステップを踏めはしない。


「……何か、俺に出来ることはないんでしょうか」

「医者でも目指せばどうかね。現代科学では未知だとしても、将来的には何か光明が見えるかもしれないぞ」


 教科書を朗読するかのような口調で仰木医師は言う。

 本人も恐らく信じてはいないのだろう。だからそんなありがちな希望の話になる。


「………」


 何も出来ない状況を、喜嶋慧雅キジマ・ケイガはもどかしく思う。

 けれど、自分が何をすればいいか、そもそも何が出来るかも解らない。

 世界は開かれているはずなのに、迷子になったかのような困惑と閉塞。

 ただ時間だけが過ぎていく焦燥感。

 カチリコチリと物理時計の時針の音が響く中、慧雅ケイガは先生を待っていた理由を思い出す。

 灰色の街。閉ざされた世界。今の自分の心象を反映したような世界と、裏腹な鮮やかに輝く少女。


「ところで先生、尋ねたいことがあるのですが……」


                    ◇


「特殊な夢か。成る程。幾つか話せることはある」


 慧雅ケイガの話を聞いた仰木医師は、唸ることすらせずに淀みなく答えた。


「君は幻思論エアリアリズムという科学分野を知っているだろうか」

「エアリ……飛行機に関する奴か何かです?」

「確かにそのAERIALだが、『航空機の』ではないな。

 この場合は『空想の』と訳す方だ」

「空想科学技術理論……?」


 思いついた訳語を口にする。

 仰木星途アオギ・ホシミチはそれに頷き、


「物理法則を解き明かしていった人類は、その過程でどうしてもそれでは解明不能な領域があると気づいてしまった。

 認知の領域──意識、精神、魂といったもの。物体として観測不能な自由意志。

 現実とは一体なにであるのか。人が蝶の夢を見ているのか蝶が人の夢を見ているのか。そこにある現実を己が認識しているのか。己が認識しているから現実が存在しているのか。

 人間の思考認知の根源を探しに、コギト・エルゴ・スムの問いに踏み込んだ学者たちがかつていた」


「この現実が黄粱の一炊でないかどうかを確かめようとした訳ですか」


「枕中記か。話が通じるようで何よりだ。最近の学生にしては博学だな」


「中学時代、そういうの結構読んでましたから」


「成程。物を知っているというのは良いことだ。私も説明がやりやすい。

 話を戻そう。学者たちは研究と探究を続け、一つの結論を導き出した。

 それはつまり、『現実』は存在率というパラメータの高低で定義される状態の一つだと言うものだ」


 仰木医師は情報窓インフォメーションを開き、そこに書かれているものを慧雅ケイガに見せた。

 英語主体かつ見知らぬ単語が多かったため慧雅ケイガには理解できなかったが、辛うじて何かの数値を提示しているのは読めた。


「現在我々が当たり前のように使用している情報窓インフォメーションや情報の物質化も、その存在率パラメータの制御理論が基礎となっている。

 火薬文明、蒸気文明、電気文明に続く最新の文明として、現代を幻思文明時代と呼ぶ者もいるな」


「幻思文明時代……」


「ところで、博識な君に一つ問おう。

 現実と夢の──いや、夢に限らず、空想・架空・神話・幻覚・パラノイア、それら数多くの非現実と称されるものたちが、現実とは決定的に違っている部分とはどこであるか」

「現実と夢の、違い……?」


 問われてみれば、言葉に詰まる。


 慧雅ケイガが先ほど引き合いに出した黄粱の一炊とは故事の一つだ。

 昔々、邯鄲という都で、盧生という田舎から出て来た青年が仙人から枕を借りて眠ったところ、飯を炊き上げるまでの僅かな間に栄華を極めた一生をひとときの夢としてみたと言う。

 人生の栄枯盛衰の儚さを例えたものといわれるが、教訓とは別のわかることがある。


 夢とは、目覚めてみるまで現実と区別がつかない。


 また、仰木医師が持ち出した胡蝶の夢の話も故事だ。

 蝶になり舞っていた夢を見た男が、目覚めてから実は今の己は蝶が夢を見ているだけではないかと疑い、人と蝶とどちらが本当かわからないと言うことに気づいた逸話。

 この説話自体は、どちらが真の世界か論じるよりも目の前のことを受け入れ生きよと続くらしいが、今の問いにはそれでは困る。


「……なんかはっきりとしてるかどうか?」


 苦し紛れに、曖昧な答えを口にする。

 しかし仰木医師は、それで十分と言わんばかりに頷いて。


「そう、現実とは安定して存在しているものだ」

「……かなり当たり前のことを言ってますね?」

「理論とは単純明快なのが美しいものだ。混み入ったもの、理解不能なもの、そのようなノイズがないものこそが真理として有るにふさわしい」

「はあ……」


 かっちりとした人なのだろうかと思いながら、慧雅ケイガは口から生返事。

 よくよく観察してみれば、仰木医師の髪型も服装も気を抜いた部分は一切無く。

 自分がそこそこ無精な自覚はあるので(なんせ夏休みの宿題も放置中だ)、なんだか気後れをしてしまう。


「話を戻そう。

 現実の現実性とは、安定した一貫性を持っていると言う点にある。

 安定しているとは、物理法則と因果律が十分以上に機能していることだ。

 例えば、クッキーで作ったお菓子の城が飴細工のプロペラで空を飛び、それを巨大化した織田信長がジャンプして蹴り落とすような光景が今から三分後にこの廊下から見られるなどは、現実的にあり得る光景だと思うかな」

「流石に……無理がありますね?」

「そう、現実の世界において、そのようなことは起こりえない。

 物理法則が働いていれば、現象は力学の計算式によって説明できる。

 因果律が機能していれば、未来は過去の積み重ねによって形成される。

 確固たる現実の中においては、理屈の通らない現象は存在しない。

 だが、夢の世界、空想の世界、フィクションの中では、度々それが起こりうる」


 逆に、


「非現実の非現実性とはそれだけだ。

 物理法則と因果律を共有しないためこの現実から連続しえない状態なだけだ。

 なら、別の物理法則によって駆動する異界においてなら?

 もしくは、別の歴史を積み重ねてきた世界であるならば?

 連続性を無視すれば、継続性を度外視すれば、別の物理法則の下でなら、この世界の外でなら、あらゆる条件を想定超越した空想と現実が等価の領域の中で沸騰する無限の可能性の中に発生するごくわずかな領域の中でいいのであれば──人が想像できるあらゆる瞬間は、どこかに存在しうる閃光だ」


 つまり、


「人間が思考想像しているものは、即ち『可能性』と等価なのだ。

 現実と繋がりうる可能性。現実と繋がらない可能性。現実になれなかった可能性。

 それらを思考演算し、そこへ接続するのが人間の知性であり脳の機能であり魂の権能だと」


 故に、


「現在の考え方では、一部の夢は『現実のなり損ない』と考えられている。

 物理法則が不安定で、極めて狭い領域しか成立しない。

 因果律が中途半端で、極めて短い時間しか存在しない。

 不安定な存在であるため、恒常的な意識の器として機能しない世界領域。

 睡眠状態の脳がそこへアクセスして観測する行為を、夢という現象として捉えてるのだと」


「つまり、先生はこう言いたいわけですか?

 あの灰色の街と知らない少女は、どこかの異界に実在する、と」


 夢とは本来安定しない世界であるならば。

 逆説、安定している夢とは一つの現実と同じことだと。


「あくまで可能性の話、だがな」


 大真面目な顔で言う仰木医師の前で、慧雅ケイガは顔を引きつらせていた。

 自分が異世界を覗いている? 

 随分とスケールが大きい話だし、真顔で受け止めるにもどうしていいか。

 夢の中で出会った少女にロマンチシズムを覚えるにも、彼女は歌以外喋らなくて。

 どんな人間であるのかすら、喜嶋慧雅キジマ・ケイガには想像もつかない。


「大学の機器を使用すれば詳しい調査なども可能だが、私から申請を出しておこうか」

「………オネガイシマス」


 とりあえず、言葉を絞り出したタイミングで、廊下の奥の扉が開いた。

 診療室の文字が書かれたそこから出てきたのは、看護師に車椅子を押される夕凪ユウナギ


「さて。私はそろそろ仕事に戻らせてもらおう。君は君の大事な人の相手をしてやるといい」


 言って、仰木医師は白衣を翻し去っていく。


                    ◇


 大学病院の敷地を出ると、時刻は三時を回っていた。

 夕凪ユウナギの車椅子を押しながら、慧雅ケイガは帰り道を歩いて行く。

「………」

 なんとはなしに、空を見る。

 夏の空は青く、そしてもくもくとした白い雲が浮かんでいる。

 モノクロームではないカラーリング。これが俺の生きる現実だよなと再確認して。

 空はこんなに青いのに。

 天はこんなに高いのに。

 なぜだか気持ちは、あの灰色の街の中にいるように晴れ晴れしない。


「曲は『飴玉王国キャンディキングダム』、『裸足の旅のゲルダ』でした……」

 街頭のモニタービジョンでは、音楽番組が流れている。

 新鋭気鋭のアーティストが、司会者からインタビューを受けている。

『新曲のテーマは運命探しの旅ですね。辛くったって苦しくったって、自分が求める運命を追いかけていれば走れるのだと言う気持ちを歌詞に込めて──』


「………」

 一瞬だけ足を止めて、羨ましいな、と慧雅ケイガは思う。

 情報窓インフォメーションの向こうにいるのは、夢を叶えた人間だ。

 運命を掴み取れるだけの力があった人間だ。

 運命を取りこぼさずにそこまで走ってこれた人間だ。


「……ねえ、」

「なんでもねえよ」


 ぶっきらぼうに夕凪ユウナギの声を遮って、そして目線も彼女から逸らす。

 夕凪儚那ユウナギ・ハカナ。車椅子の少女。現実に敗れたコッペリアンドール。

 昔はそう、彼女のことを神様かなにかかと思っていた。

 天才少女夕凪儚那ユウナギ・ハカナ

 なんでもできる少女夕凪儚那ユウナギ・ハカナ

 ありとあらゆる現実を踏破していく少女夕凪儚那ユウナギ・ハカナ

 運命そのものを背に受けている世界の主役だった少女夕凪儚那ユウナギ・ハカナ

 彼女が特別な存在であることはあの頃の自分でも流石に理解は出来ていた。

 けれど、だけど勘違いをするには十分だったのだ。

 こんな凄いことをできる人間が近くにいるのだから、自分も何かを成せるんじゃないかと。

 だから自分はギターを取った。

 人には何かを成せるのだという希望のウタを、世界の果てまで響かせるために。


 ……けれどもそれも一年前までのお話だ。

 集団感覚喪失事件。前触れもなく突然起こったカタストロフィ。

 それで夕凪儚那ユウナギ・ハカナは全てを失って。

 それを目にした喜嶋慧雅キジマ・ケイガは、なんというか……冷めてしまった。

 運命に恵まれていたかのような少女が、その運命に見捨てられたのを見て。

 運命なんてものは、自分の錯覚だったのだと解ってしまった。

 彼女のような天才でも夢が絶たれるのは一瞬だと言う諦観。

 彼女のような天才でも運命に見放されるのに、自分なんか成功できる訳ないという劣等感。

 彼女のような天才でもない自分には、夕凪儚那ユウナギ・ハカナをどうすることもできない無力感。


 それらを抱いた頃から見るようになった無彩色の夢。

 仰木医師は、あれは実在する異界だと言っていたが。

 喜嶋慧雅キジマ・ケイガには、やはり自分の内心反映のような気がしている。

 色彩のない街。

 閉ざされた空。

 それはきっと閉塞感のメタファーだ。

 輝きなんてないのだと。

 全ては唐突に終わるのだと。

 終わってしまったところで続き続けてしまうのだと。

 世界に対する失望と諦観。それをあの街は象徴している。


 ……だとしても、少女が何かはわからないのだが。


 とにかくだ、と、喜嶋慧雅キジマ・ケイガは頬を叩く。

 たとえ運命から見放されようと、たとえ異界を垣間見ようと、自分の現実はここにある。

 嫌でもなんでも諦めながらでも夢も希望もなかろうと、生きていく世界はここなのだ。

 思索の時間はここまでだ。目の前のものを見るべきなのだ。


 だから、目の前の光景は嘘なのだ。


「……ねえ、」

 夕凪ユウナギの声が聞こえる。どこか遠くの幻聴などではなくすぐそばから。

 夏の暑さは失せていた。

 人混みの声も消えていた。

 現実味を感じさせるものは、夕凪ユウナギの声以外何もなく、しかし慧雅ケイガにはそれだけで十分。

 けれどもしかし、それを認めるわけにはいかなかった。


 彼ら二人の視線の先。

 無人の世界、灰色の街が広がっていた。


【NeXT】

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