第2話 夏の終わり

 剣は気位だと新撰組の近藤勇は言ったという。気で押して押して相手を怯ませ、そして斬る。実戦剣術・天然流心流の極意である。竹刀剣術の速い小手先の技では人は斬れない。

 僕は心胆を練りながら、更衣室で稽古着に着替えると道場へ戻った。

 鳴神先生は上座に瞑目して正座している。側には赤い鞘の日本刀が置かれている。そして僕が座る場所には黒鞘の日本刀が置かれていた。僕は正座して鳴神先生に礼をした。先生は静かに目を開けると礼を返す。

 道場の奥に正座していた鈴ちゃんが、凜とした声で静かに言った。

「――始め」

 僕は日本刀を腰に差し、静かに立ち上がり、鳴神先生の挙動を見据える。鳴神先生も剣を腰に差し立ち上がる。剣を抜いていないからと言って安心は出来ない。鳴神先生が居合いもたしなむのは、鈴ちゃんの一件で見ている。

 僕は左足をすっと前に出し、大きく左上段に構えた。

 鳴神先生は正眼の構えから、切っ先を極端に右に下ろした下段の構えに出る。

 試合では決して取ることのない隙だらけの構え。

 その構えを前にして、改めてこれは真剣勝負なのだと知る。迂闊に飛び込めない。面を打てば、即座にいなして突きを放つ構えだ。

「でぇええええい!!」

 自分の弱気を払い、相手を威圧する気合いを出した。

「きぃええええぃーー!!」

 対して鳴神先生は甲高い凄まじい気合いで応じる。学校中に鳴り響くと称された化鳥のごとき気合いである。本当にこの先生は人を斬ったことがあるのではないかと思わせた。

 真剣の間合いは、当然、竹刀剣道とは違う。間合いは短い。顔が見て取れる。鳴神先生はすっと目を細めた。瞳の色が青く輝く。

(――来る!)

 そう思った瞬間、僕は先の先を取った。

「どりゃぁぁぁぁ!!」

 怒濤の勢いで鳴神先生の頭に向けて刀を振り下ろした。鳴神先生は右足を半歩踏みだし、僕の剣線を交わしたと同時に「きしゃーー!!」と言う気合いと共に突きを繰り出した。

 寸止めにしていたのが幸いした。切り倒すつもりなら剣を振り切った僕に勝機はなかった。僕の切っ先は、鳴神先生ののど元にある。

(――勝った!)

 そう思った。刀のみねで鳴神先生の切っ先を跳ね返し、突きに出る。

 あろうことか! 鳴神先生は剣から左手を外し、僕に対してほぼ真横の体勢に入ると、右手一本で僕の首を薙ぎに来た。

 全身を怖気が覆った。首が切られる。正式な剣道にはない技だ。一度外された剣先を無理矢理、左手に寄せて思い切って突進した。それしか術はなかった。

 左の首筋に火箸を当てられるような痛みを覚えるのと、文字通り、鳴神先生を突き飛ばしたのは同時だった。僕の剣の切っ先は三センチほど、鳴神先生の左肩付け根に埋まった。鳴神先生の体は勢いよくドウッと後ろに倒れ込んだ。僕は無意識に、大の字になった鳴神先生の胸に剣を刺そうとした。

 その瞬間――

「止め! 勝負あった!」

 鈴ちゃんのきりりとした声が道場に鳴り響いた。僕は人殺しにならずに済んだ。そう。僕は殺す気で反射的に動いていたのだ。

 大の字になって倒れていた先生は、感情のない目で僕を見据えていたが、瞑目したと思った瞬間、「かかかかか!」と大声で笑い始めた。道着の左肩がみるみるうちに朱に染まっていく。

「負けた! 負けた! 三年ぶりに負けたぞ!」

 そう笑って言いながら、鳴神先生は右手で僕の道着を掴むと、ぐいと引き寄せた。勢い、押し倒した形になる。

「ちょ、ちょっと――先生大丈夫ですか?」

「黙って汗の臭いをかがせろ」

 そう言って鳴神先生は、くんくんと鼻を鳴らす。道場上座から血相を変えた鈴ちゃんが駆け寄って来る。

 鈴ちゃんが駆け寄る前に、鳴神先生はぞわりとする笑みを浮かべ唇を舐めた。

「神崎。おまえ最高にセクシーだぞ。わたしの男にならないか?」

「ダメーーー!!」

 鈴ちゃんは叫びをあげる。無理矢理に僕を鳴神先生から引き離す。

「――冗談だ。彩宮。狼狽えるな」

 滅多に見れない、鈴ちゃんの乱れ振りに鳴神先生はいつもの先生の顔に戻った。つうか、呆れていた。

「とは言え、止血はしないとな。彩宮。神棚の横に救急箱がある持って来てくれないか?」

「はい」

 と答えて、彩宮さんは救急箱を持って来た。そして僕を睨む。

「何してるの? 更衣室にでも行って来なさい」

「――いや、確認したいことがある」 

 僕の言葉に鈴ちゃんは無表情になる。怒ってる。無茶苦茶怒ってる。でも、引けない。

「――傷が見たいか? 神崎?」

「はい」

 僕は真摯に頷いた。

「――彩宮。私はかまわん。悋気を起こさず見せてやれ」

 鳴神先生はそう言って上体を起こした。腹筋だけで。左手は今は使い物にならないようだ。鈴ちゃんは嘆息した。そんな鈴ちゃんに先生が言う。

「彩宮。すまんが手を貸してくれ。道着が脱げない」

 彩宮さんは道着の左側を外して硬直した。そこには形の良いBカップの胸が露わになっていた。色が白くて乳首はピンク色で立っている。

 思わず目を奪われた。だが、動揺すると能面のように表情が無くなるのが、僕の性癖だ。『哲学者』などと揶揄される癖だが、これで結構助かっている。

 色を成して慌てふためいたのは鈴ちゃんだ。

「か、神崎君! 目を瞑る! すぐ、出て行って!」

「いや、その。わたしは構わない。神崎ここに居て良いよ」

「なんでスポーツブラかさらしを巻かないんですか!」

「揺れもしない胸にそんな暑苦しいことが出来るか!」

 ――あ、鳴神先生逆ギレ。気に病んでいるんだろうな……

 絆創膏をニプレス代わりにすることで話は落ち着いた。

 オキシドールで彩宮さんが傷口を拭くと、微かに鳴神先生は顔をしかめた。

「神崎、見ろ。これがお前が付けた傷だ」

 細長い鋭利な傷口は丁度脇の下にあり、軽傷と言えた。

 僕の剣は左胸を狙っていたと言うのに……

「避けたんですね。あの状況で――。なら、この勝負僕の負けです」

 僕は首筋のみみず腫れを見せた。

「真剣なら僕は絶命しています」

「それは違うわ」

 鈴ちゃんと鳴神先生がはもる。

「例え重傷だろうとも、お前は私にとどめを刺しただろう。最後に立っているのが勝者だよ」

「そうね。それにこれは真剣勝負じゃない。貴方はみみず腫れで済んでいるけど、鳴神先生は病院送りよ。貴方が勝者が故の結果よ」

 僕は納得がいかないまま、耳の後ろを掻く。

「彩宮、済まないが病院まで送ってくれ。左手が動かない」

「ええ、心得ています。TAXI呼びますね」

 そして鳴神先生は優しげな女性の顔で僕を見た。

「神崎、卒業前にお前の『男』を見れて嬉しかった。礼を言う」

 なんと答えて良いのか分からず僕は無表情に先生を見つめ返す。

「今度、又、立ち会って貰えるか?」

「――二度と御免です!」

 きっぱりと僕は答えた。その答えに鳴神先生は声を上げて笑った。

「今日の朝練の仕切りはまかせたぞ」

「はい」

 鳴神先生は鈴ちゃんの肩を借りながら更衣室へ消えた。

「――ふぅ~」

 僕は大きく吐息を漏らし、道場に寝転がった。

 ああ言うのを剣鬼と言うのだろう。

 人としての一線を踏み越えてしまった人。

 僕はまだ『人』として在る。

 夏休み初めの怒濤のような一件がようやく片付いた気がした。


(了)

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剣姫(けんき) 桐生 慎 @hakubi7

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