剣姫(けんき)

桐生 慎

第1話 鳴神あさぎと彩宮鈴香

「腕のギプスが取れたら連絡しろ」

 それが剣道部顧問・鳴神あさぎ先生の命令だった。

 何の迷いもなく僕は先生の携帯に連絡を入れた。

「おう。神崎! ギプスが取れたか?」

 鳴神先生は明るい声で電話に出た。同世代の女の子のようなハイテンションな声に、僕は少し驚いた。そりゃ、鳴神先生は響子姉と同世代の若い女性だ。だから、そんな声を出しても当たり前なのだが、道場での厳しい張りつめた声と裂帛の気合いしか知らない僕には意外だった。

「はい。おかげさまでギプスは取れました。ご迷惑おかけしてすいませんでした」

 携帯電話を持ったまま僕は頭をさげる。

「……迷惑?」

 そう言って鳴神先生は笑った。無邪気な笑い声だった。

「相変わらず疲れる生き方をしているな。神崎。まぁ、いい。明日六時半に彩宮と一緒に道場に来い」

「――はい?」

 早朝の呼び出しはともかく、鈴ちゃんを連れて来いと言う理由が分からない。

「僕は良いですよ。でも、彩宮さんの都合は分かりません」

 鳴神先生は高笑いした。

「鈴ちゃんだろ? 浩ちゃん? しっかり聞いたぞ」

 その呼び方は二人きりの時しかしていない。僕は真っ赤になって言葉を失った。

「神崎。わたしは試合おうと言っているんだよ。審判には彩宮がうってつけだろう? なに、お前が私が試合うと言えば彩宮は必ず来る。そういう女だ。違うか?」

「――――」

 確かに鈴ちゃんは来る。夏休みの部活は九時半からだ。早朝に鳴神先生と試合うと言うのは穏やかではない。

 こうして僕は鳴神先生と剣を交わすことになった。


 七月の終わり。

 夏とは言え、早朝の空気は引き締まって冴え冴えとしている。彩宮さんは和服で駅の側で立っていた。萌葱色の下地に紅梅をあしらった振り袖姿でたたずんでいる様は近づきがたい空気を醸し出している。

「おはよう。鈴ちゃん。無理に呼び出してごめんね」

 そう声をかけるとガラス玉のような瞳で僕を見つめてから、「おはようございます」ときちんと礼をされた。『絶対零度の魔女』モードだった。帯の後ろに村正を隠している。

「なんだか穏やかじゃないね」

「――まぁね。杉浦さんだけでも油断出来ないのに、鳴神先生にまで目をつけられたら困るもの」

 そう言って彩宮さんは拗ねたような顔をする。最近、分かったけど、これが鈴ちゃんなりの甘え方なんだ。僕はそっと鈴ちゃんの髪を撫でた。「にゃん」鈴ちゃんが身をすくめる。可愛いなぁ~ 本当に。


 学校の剣道場の門は開いていた。

 玄関には揃えた白いパンプスがある。鳴神先生はすでに来ているらしい。

「神崎です。失礼します」

 大声で道場へ声をかけたが、返事はない。

「――どうしたのかな?」

 そう言って彩宮さんの顔を見ると白い陶磁器の人形のような表情になっていて、こちらも返事がない。仕方が無く靴を脱いで揃えると道場へ入る。 

 稽古着姿の鳴神先生は道場の神前で正座して瞑想していた。側に居合いの模造刀がある。その姿は見惚れる程に凜として美しかった。道場の気は、早朝の空気を含んだ静謐な冷気に張りつめていた。

 僕は鳴神先生の邪魔にならないように、そっと後ろに正座する。鈴ちゃんも音を立てずに僕の横に正座する。

 鳴神先生は微かに息を吐くと、正座のまま、くるりと回って僕等と向かい合った。

「おはよう。呼び出して悪かった」

 鳴神先生はそう言って手をついて礼をする。

「おはようございます」

 僕と鈴ちゃんは同じタイミングで手をついて礼を返す。

 そして僕たちは顔を上げた。

 瞬間、チンと鍔鳴りの音がした。鈴ちゃんがちょっと頭を後ろに下げるのと同時だった。彩宮さんの髪がふさりとたなびく。

「お戯れを……」

 絶対零度の表情で鈴ちゃんは言う。鳴神先生は笑いを押し殺した。どうやら居合いで斬りつけたらしい。

「やはりな。見切ったか……古武道をしているな。流派はなんだ? 彩宮?」

 嬉しそうに鳴神先生は訊いた。

「富田流です。小太刀をたしなんでいます。でも、このように試されるのは不愉快です」

「そうか? そうか!」

 鳴神先生は喜色に輝く。

「お前等、人を殺したろう?」

 舐めるように僕たちの顔を見ながら、頬を上気させ、舌なめずりしながら、鳴神先生はとんでもないことを言った。

「――恐いこと言わないでください」

「分かるんだよ。神崎。人を斬った奴は目が違うんだ。私には分かる。同類だからな」

 さらりと恐ろしいことを言うな。このひと女は……

「それで手合わせと言う訳ですか?」

 冷徹な眼差しで鈴ちゃんは鳴神先生を見つめた。まるで人を斬ったのを認めたみたいだ。

 ああ……鈴ちゃんは斬ったんだ……僕は斬ったことになるのだろうか?

「察しが良いな。彩宮。お前なら止め所が分かるだろう。試合はこれでやるからな」

 鳴神先生は模造刀を叩いた。思わず血の気が引いた。文字通り真剣勝負ではないか? 一つ間違えば命を失う。

「……防具もつけずに? 正気ですか?」

 流石に怯えて僕は訊ねた。

「ああ、わたしは冗談は言ったことがないよ」

 鳴神先生は極上の笑みを浮かべた。僕は生唾を飲み込んだ。

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