小説家にご用心

愛野ニナ

第1話




 小説など誰でも書ける。

 誤解や批判を覚悟で言い切ろう。

 出来の良し悪しはともかくそれらしき文章を書いて、これは小説なのだと断言し、自分は小説家だと自称することは誰でもできる。

 誰でもできるが、それをしようとするかどうかはまた別。

 それなのに、なぜそのような痛い自称小説家という人種ができあがるのか。

 今日はそれについて語ろうと思う。

 苦情は受け付けません笑

 私もまたそんな痛い自称小説家のひとりであると自覚しているのだ。

 あしからず。


 


 職業小説家にはリスペクトすべき素晴らしい人がたくさんいることはもちろん疑うべくもない。

 そして兼業作家やインディーズ作家の作品の中にも素晴らしいものは多々ある。

 サラリーマンで小説家だとか医者で小説家というような高い社会性と常識をもっているタイプもいれば、ミュージシャンにして小説家だとかイラストレーターにして小説家というようなアーティスティックな才能を複数持ち合わせたタイプもいる。   

 これらの人々がいる一方で、小説ひとすじ、という人もいる。

 そして今日私が話題にするのはこの、小説ひとすじ、というタイプについてだ。



 

 小説ひとすじの自称小説家というのはヤバい。

 例外はもちろんあるが、往々にして社会性に乏しかったりコミュ力が低かったり、これといった才能も特技も無く取り柄さえも特に無かったりする。にもかかわらず、自分が凡庸であると認めることが耐えられずに屈折する。小説を書きはじめる原動力がこの屈折した感情だったりするからやっかいなのだ。

 本当は何の取り柄もないのに、どうしても「自分は特別」だと思いたい。だって自分は「小説が書けるのだから」と。

 だいたい他に何かの才能や特技があれば、別のことをするだろう。スポーツやダンスをしたり作曲や楽器の演奏や絵を描いたり工作をしたり。

 でも、小説はそのような特技が何もなくても書ける。仲間もいらないからコミュ力も必要ない。材料や道具などもいらないし、お金もかからないので、仮にニートであれひきこもりであれ何かの文章を書いて小説家を自称すれば、何の取り柄もなくてもアーティスト気分を味わえる。

 才能や取り柄が特になくても、社会性やコミュ力が人並みであれば、あるいは自意識過剰でなければ、仲間と過ごしたりアウトドアをしたり趣味を楽しんだり恋愛をしたりすることで大満足ではなくともそれなりに充実した日常と折り合いをつけて生きていける。彼らは他にやることがあるのだから自称小説家にはならないだろう。なろうとも思わない。

 そして、他にやることがあるのなら、むしろ自称小説家になどならないほうがいい。

 小説家になるのは最後の最後、すべてを失ってからでも遅くない。

 何もかも無くなった時に、小説を書いたらいいのだ。例えば刑務所の中にいても、小説くらいは書けるのだから。

 小説は本当に誰でも書ける。

 重ねて言うが、才能も材料も道具もお金も仲間も何もいらない。

 そう、小説は誰でも書けるのだ。

 誰でも書けるが、しかし、良い小説を書けるのはひと握りの素晴らしい作家だけだ。

 それが現実。



 

 その中身を知らなくて悪いが、「書を捨てよ町へ出よう」という言葉のとおりだと思いながらも、書を求め探しに町へ出かけるような私だ。

 良い小説にはたくさん出会ってきた。

 もちろん良書をたくさん読んだからといって、良い小説を書けるわけではない。

 私もまた独りよがりの妄想を書き連ねるだけの痛い自称小説家だ。

 私が誰の心にも刺さらないであろう小説をなぜ書いているのかといえば自己満足のためである。それを自分で認めている。



 

 これを読んでくれているかもしれない小説家さん、貴方はそうではないかもしれない。

 ちゃんと読者に楽しんでもらう小説を書いている、日常に不満はないしむしろ自分はリア充である、という人もいるだろう。それは実に素晴らしい。

 しかし。

 自分には小説だけしかない小説ひとすじ小説がすべて、というような人は相当ヤバい。正直あまり関わり合いたくもないというか。私がたまたまなのかもしれないが小説ひとすじタイプでまともな人と出会ったことがない。自意識過剰でインテリぶってプライドが異様に高く、何より社会性やコミュ力に著しく欠けた人ばかりだった。

 そしてそれはもしかしたら自分を映す鏡かもしれないということを私は常々忘れないようにしている。小説ひとすじのヤバい自称小説家にならないようにという自分への戒めだ。

 



 自己分析をすると、私は自称小説家だが小説ひとすじというタイプでは無い。実に多趣味であり興味の対象は様々に分散している。集団は苦手な方でコミュ力も高くないが一応ふつうの会社員であり恋愛体質なので常に恋愛中でもある。どちらかといえばインドア派だが、メイクやファッションは好きだし、飲みに行ったりライブに行ったり旅行をするのも好きだ。創作系ではイラスト、アクセ作り、作曲、お菓子作り等に次々とハマる…すぐ飽きるのが難点だが。

 このように小説ひとすじのタイプからわりと遠くありながら、なぜ私が自称小説家であるかといえばそれは自意識過剰だからに他ならない。

 人より抜きん出た能力は何も無いが、もしかすると執筆能力だけはわりと高いのではないかという妄想がかろうじて自分のアイデンティティを支えている。

 こう書いているだけでも痛い。自分でもよくわかっている。痛いが、それでもあぶない奴にはなりたくないと思っている。




 これでまた私は小説家の皆さんから嫌われてしまうのだろうな。

 でもそんな自称小説家さん達の作品の中から真に素晴らしい小説が生まれることを切に願ってもいる。

 私もまた読書が大好きだからである。

 小説家がいるから小説が読めるのだ。

 最後に。矛盾しているかもだけど。

 すべての小説家さんを応援しています。



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