第2話

 12月23日 - 日本政府、国際連合およびPKOで国際連合南スーダン派遣団に参加している大韓民国国軍からの要請を受け、同軍に陸上自衛隊の小銃弾1万発を譲渡。自衛隊の弾薬を国連や他国に供給するのは初めて。


 呂宋と残間は、長宗我部を殺した真犯人を突き止めるべく白河にやって来た。

 駅周辺は城下町として栄えた白河市の中心部であり、古い建物が多く残っている。新白河駅周辺と並んで白河ラーメンの店舗が多く立地している。

 昼前に到着したのだが、ピリピリした冷たい空気が痛かった。

「こりゃあ雪になるぜ」と、呂宋。

「ラーメン食べましょうよ」

 残間の腹がグーグー鳴った。

「ラーメンか、いいんじゃん?」

 残間は研ナオコの『あばよ』をMDプレイヤーで聴いていた。スマホが壊れてしまってYou Tubeが見れないから押入れのダンボールから、久々に引っ張り出した。ほこりまみれだったが使えた。

「長宗我部を殺したのは山内かも知れないぞ」と、呂宋。

「キョンキョンに似た専務?『潮騒のメモリー』は今年流行りましたよね?」

「うん、古田新太がなかなか面白いな」

 白河ラーメンは豚骨や鶏ガラを主体とした醤油ベースの澄んだスープと、スープが絡みやすい多加水の幅が広い縮れ麺が大きな特徴ではあるが、店舗によっては細縮れ麺を出す店もある。木の棒で麺を打つ手打ち麺が伝統的なスタイルだが、最近は減少傾向にある。具はネギ、チャーシュー、メンマ、鳴門巻き、ホウレンソウなど。縁を食紅で塗り、炭火で焼いてから煮るチャーシューを使う店も多い。

 

 2人が入った店の具はネギ、チャーシュー、メンマだ。チャーシューは普通だった。

「チャーシュー力」

 残間が親父ギャグを言うと、呂宋はナイフみたいに鋭い視線で睨んでいる。

「ギャグが言えるようになってよかったな」

 呂宋はずっと残間のことを気にしていた。愛する恋人を失ってから暗い日々が続いていた。

「暗い顔してたら彼女も悲しむだろうから」

「明日はクリスマスだ。ナンパにでも繰り出すか?」

「犯人探さないと」

「真面目だな? 人生楽しむのは今でしょ?」

 林先生の『今でしょ』は2013年の流行語にもなった。呂宋は林を意識して、たらこ唇になった。

 店を出たが物凄い寒波だったので、宿に向かうことにした。宿は阿武隈川あぶくまがわの近くにあった。阿武隈川は、福島県および宮城県を流れる阿武隈川水系の本流で、一級河川である。水系としての流路延長239kmは、東北地方で北上川に次ぐ長さの川である。

 『延喜式』には「安福麻」、『吾妻鏡』には「遇隅」とあるため、古くは「あふくま」と呼ばれていたが、中世以降になると逢隈川、青熊川、大熊川、合曲川などの用字が見え、「おおくま」と呼ばれるようになっていた。「阿武隈」や「大隈」の語源は定かではないが、今の福島県西白河郡の西甲子岳の山中に住んでいた大熊(青熊)に由来するという説や、阿武隈川の下流部が阿武隈山脈の突端に阻まれて「大きな隈(曲がり)」をなして流れることに由来するという説がある。

 宿は伝統的な和風建築に新しいアレンジを加えつつ、木の格子や屋根の形などからモダンな和の家らしさを感じられる日本家屋外観となっている。

 呂宋は妙な気配を感じた。

 黒い頭巾をかぶった侍が背後に立っていた。

「かなりの手練とお見受け致す」

 どことなく、戸愚呂弟の声に似てる。声優は玄田哲章だ。呂宋は相手が沖田総司だとは夢にも思っていない。

 総司は白河出身だ。

 総司が鞘から刀を抜く寸前、残間はアパッチ・リボルバーで攻撃をした。アパッチ・リボルバーは他の武器を複数一体化した拳銃である。これはダガーで突き、ナックルで殴り、更に発砲する愚連隊の絶好の喧嘩道具となり、アパッシュとして知られる1900年代初期のフランス犯罪社会の一党により悪名を轟かせた。  

 残間は総司の腹をダガーで突いた。

 が、総司は表情を変えなかった。

 呂宋が仕込み刀で総司を背後から斬りつけた。ザシュッ!様々な理由により刀剣を剥き出しで携行できない場合に護身用や暗殺用途に用いるために製作される武具であり、「仕込」と呼ばれるだけあり、外見からは刀と分からないように偽装されている。その多くは扇子や煙管、杖などの日用品に偽装してある場合が多い。特に、日用品に偽装したものは、大っぴらに武器を持つ事ができないが武装の必要性のある町人が護身用として持っていたようである。

 呂宋の刀『北斗ほくと』は傘に偽装してある。呂宋は『北斗の拳』の大ファンだ。特にジャギが好きだ。チャンスだ!と、ばかりに残間はタイムベルトを17870502と押した。

 残間は天明へとタイムスリップした。

 総司は呂宋を殺すことなく煙とともにドロンした。

 


 天明の打ちこわしが起きているとも知らずに、残間は江戸時代ならあまりデカい戦争もないと高を括っていた。

 天明の打ちこわしとは、江戸時代の天明7年(1787年)5月、ほぼ同時期に江戸、大阪など当時の主要都市を中心に30か所あまりで発生し、翌6月には石巻、小田原、宇和島などへと波及した打ちこわしの総称である。天明7年5月の打ちこわし発生数は江戸時代を通じて最多であり、特に5月末の江戸打ちこわしは極めて激しかった。全国各地で同時多発的に発生した打ちこわし、とりわけ幕府のお膝元の江戸打ちこわしによって当時幕府内で激しい政争を繰り広げていた田沼意次政権派と、松平定信を押し立てようとする譜代派との争いに決着がつき、田沼派が没落して松平定信が老中首座となり寛政の改革が始まることになった。

 

 宝暦8年12月27日(単純な換算で宝暦8年は1758年になるが、グレゴリオ暦では既に新年を迎えており、1759年である)、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれる。実際の生まれは12月26日の亥の半刻(午後10時ころ)であったが、田安徳川家の系譜では27日とされ、また「田藩事実」では12月28日とされている。宝暦9年(1759年)1月9日に幼名・賢丸まさまると命名された。生母は香詮院殿(山村氏・とや)で、生母の実家は尾張藩の家臣として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かってきた。とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、子の山村三演は采女と称して本家の厄介となった。とやは三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。宗武の正室は近衛家の出身であるため、とやも田安徳川家に仕えて宗武の寵愛を受けた。定信は側室の子(庶子)であったが、宗武の男子は長男から四男までが早世し、正室の五男である徳川治察が嫡子になっていたため、同母兄の六男・松平定国と1歳年下の定信は後に正室である御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となった。


 宝暦12年(1762年)2月12日、田安屋敷が焼失したため、江戸城本丸に一時居住する事を許された。宝暦13年(1763年)、6歳のときに病にかかり危篤状態となったが、治療により一命を取り留めた。しかし定信は幼少期は多病だった。


 幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたとされる。


 17歳の頃、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となることが決まった。兄の治察は自身にまだ子がなかったので、これを望まなかったが将軍家治の命により決定される。これは、寛政2年(1790年)に一橋治済が尾張家、水戸家の当主に語ったところによると、松平定邦が溜詰への家格の上昇を目論み、田沼意次の助力により田安家の反対を押し切って定信を白河松平家の養子に迎えたという。


 白河藩の養子になった後もしばらくは田安屋敷で居住しており、同年9月8日(実際は8月28日)の治察の死去により田安家の後継が不在となったおりに養子の解消を願い出たが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。定信の自伝「宇下人言」によると治察臨終の際、父徳川宗武の正室宝蓮院は御側御用取次の稲葉正明から定信が田安家を相続する話を取り付けていたが、後に田沼意次らが約束を破ったと書いている。


 家督相続後、定信は養父の意思に従い、田沼に賄賂を贈るなど幕閣に家格上昇を積極的に働きかける。ただし、実現したのは老中を解任された後であった。


 城下町で残間は定信を見かけた。どことなく具志堅用高に似ている。

『ちょっちゅねー』

 

 天明3年(1783年)から天明7年にかけて大飢饉がおこり、特に天明3年は東北地方の被害が甚大であった。これは前年の天明2年に西国の凶作によって江戸の米価が急騰したため、江戸に米を売れば大きな儲けになったために備蓄まで売り払ったためであった。東北地方一帯は平年作であり、東北諸藩や商人達は、米を次々と江戸に向けて売り出してしまっていた。翌、天明3年は東北は春先から天候不順であり、さらに夏になると冷害の被害による凶作が予想される状況だった。しかし、凶作が予想されたにも関わらず東北諸藩は江戸への廻米を行ない続け、庶民は江戸への廻米に反対し米の買占めを図った御用商人への打ちこわしを起こす事態となった。津軽藩では「江戸への廻米の中止」と「米の安売」を要求して、同3年7月各所で打ちこわしが起こったが、民衆の反抗を押え込んで江戸廻米は強行され飢饉の被害を増大させた。同様に弘前藩などの多くの藩が江戸や大坂への回米を強行し民衆による打ちこわしを起こしている。


 さらに幕府からの援助もほとんど受けることができず被害は拡大した。幕府領での不作によって年貢収納は激減している為として、非常時の援助金である拝借金をほとんど認めなかった。天明3,4年の飢饉における拝借金は、6大名1万9000両余りに過ぎず、吉宗時代、享保の大飢饉の際の総計33万9140両の金額と大きな差があった。また、享保の大飢饉の際は、凶作となった西国を救うべく幕府は27万5525石もの米を輸送したが、天明の大飢饉の際、幕府は東北に対しまったく米を送ることはなかった。その理由は、当時、飢饉に対し蓄えておくはずの城米・郷倉米が「役に立たない」という理由で備蓄の規模が大きく縮小するなどと飢饉に対する備えを放棄していたからだった。江戸浅草の御蔵の米備蓄も既に廃止されていた。


 そのため、東北諸藩からの飢餓輸出を受けていたにもかかわらず江戸の米価急騰は止まらなかったために、東北へ救援を送るどころか、むしろ江戸に米を搔き集める政策を行った。幕府は全国の城に蓄えた城米を江戸に廻送させた。天明3年に江戸に廻送された城米は37城11万3864石余りに及ぶ。また、時限立法として短期限定で江戸への自由な米の持込と販売を許可するなどして江戸への米の流入を促そうとした。


 白河藩でも天明3年の東北の大飢饉の際には、裕福な家臣や町人が米を他所に売り払ったことで米不足が起こっており家臣への俸禄の支給が遅延する事態が発生していた。東北諸藩は既に穀留を発しており周辺からの買米は不可能であった。当時の藩主であり定信の養父である松平定邦は山間部を除いて被害が少なかった分領の越後から米を輸送させると共に、江戸へ赴き会津藩に対して白河藩の江戸扶持米を与える代わりに会津の藩米の入手を願い入れ、同年12月までに会津藩米6000俵を白河へ移送させた。また、他藩や上方からの米購入も図っている。定邦のこれらの飢餓対策は定信の助言によるものである。同年10月、定信は家督を相続し、藩主として藩政の建て直しを始めることとなる。近領の藩主でかねてから親交の厚かった本多忠籌から定信に宛てた当時の書状には白河藩の飢餓対策が奥羽において類を見ないほど適切であったと評判になっていること、飢餓民救済の政策に感銘したのでやり方を学びたいなどといった内容を書いて送っている。


 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となり、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして天明の打ちこわしを機に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。


 老中職には譜代大名が就任するのが江戸幕府の不文律である。確かに白河藩主・久松松平家は譜代大名であり、定信はそこに養子に入ったのでこの原則には反しない。家康の直系子孫で大名に取り立てられた者以外は親藩には列せられず、家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、原則として譜代大名とされる。しかし、定信は吉宗の孫だったため、譜代大名でありながら親藩(御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だったので、混乱を招きやすい。


 改革直前の状況を見てみると、田沼意次の政治により武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していた。手余地・荒地が広がり、天明年間に続出した飢饉にて離村した農民は都市に大量に流入し社会秩序を崩壊させた。寛政の改革はこのような諸問題の解決に向け綱紀粛正、財政再建、農村復興、民衆蜂起の再発防止などといった問題に立ち向かっていった。田沼が発布した天明三年からの七年間の倹約令を継続し、財政の緊縮を徹底し、諸役人の統制を行った。


 12月24日 - 内閣衛星情報センター、情報収集衛星「光学2号機」について、11月8日に通信が途絶えて以降、復旧を試みてきたが回復の見込みがないと判断し、運用を終了することを発表。


 呂宋は菜奈からLINEをもらった。彼女は密かに長宗我部殺しを調べてくれていた。菜奈は栃木の黒河駅(黒磯駅がモチーフ)にいるそうだ。

 呂宋は黒河に向かうために、白河駅から黒河に向かう東北本線の後部に座っていた11人の乗客の一人だった。他の乗客は、推理作家の猫神則夫ねこがみのりお(財津一郎似、『タケモトピアノ』のおっさん。電話してちょ〜だい♪)、美唄弁護士とその上司の我孫子、Mr.ビーンに似たピーン、山内専務、岡本医師、鯏、硴塚桜、令嬢の蓮見宏美はすみひろみ(剛力彩芽似)、そして沖田総司など。総司は呂宋たちを襲ったときの頭巾の姿ではなくスーツスタイルだった。🕴

「主人は私を籠の鳥にしたいのよ。料理の味付けが濃い、洗濯が乾いてない、掃除が雑……いつも文句ばっかり」

 桜は旦那の龍臣の文句を言っていた。

 列車が次の新白河駅間近になると、後部区画をスズメバチが飛び回り、桜が岡本医師が死んでいるのを発見する。車内でほとんど眠っていた龍臣は、彼がスズメバチに刺されて死んだという説を否定する。「真冬に蜂なんて場違いすぎる。何者かが仕込んだんだ」

 床に落ちていた矢の先端には毒が塗られており、岡本はその矢で首を刺されていたことが判明する。問題は、彼が誰にも気づかれずに殺された方法である。

 ボックス席で岡本医師の隣に座っていた桜は死体をうっかり触ってしまい、死体を触るとその者のスキルを得ることが出来るので、桜は女医になった。


 警察は呂宋の座席の脇から小さな吹き矢の筒を発見する。検死審問で容疑者とされたことに腹を立てた呂宋は、汚名を返上して事件を解決することを誓う。乗客の所持品リストを要求すると、彼は興味をそそられるものを書き留めるが、それが何であるか、どの乗客のものであるかは明言しない。総司の協力を得て、呂宋は栃木県警の深町警部、福島県警の逸見へんみ警部と協力して捜査を進める。深町は陣内孝則、逸見は頭師佳孝ずしよしたかに似ている。1970年には『どですかでん』で主役に抜擢(ばってき)。大きな重圧と戦いながらも、社会の底辺に生きる小市民の悲哀を哀愁たっぷりに演じたことで知られる(このほか、黒澤映画には『夢』などに出演している)。


 1972年には『飛び出せ!青春』に太陽学園高校サッカー部の柴田良吉役としてレギュラー出演し、同じく子役出身である保積ぺぺ演じる山本大作との悪戯好きの軽妙洒脱なコンビぶりでお茶の間の人気を得た。

 

 被害者、岡本の席のカップ&ソーサーにはコーヒースプーンが2本あったこと、吹き矢はパリ伊豆で八百屋から買ったものであること、桜は岡本から借金をしていたが夫からは支払いを断られていたこと、岡本は貸した相手が返済を遅れないように脅迫していたこと、車内で岡本のそばを通ったのは桜と猫神だけだったこと、桜のメイドが直前に頼み込んで搭乗していたこと、などの手がかりが次第に明らかになる。

「しかし、メチャクチャ頭いいわね? 東大でも出てるの?」と、山内。

 マジでキョンキョンに似てると思った。『あなたに会えてよかった』は名曲だ。どことなく長澤まさみに似ている。

「高卒です」

 呂宋は人を攻撃することでIQが急上昇する。総司の背中を斬りつけたときにIQが190になった。

 

 呂宋は福島と栃木の両方で調査を進める。黒河行きの列車で呂宋は、車内で吹き矢などを使えば他の乗客に気づかれてしまうことを実験で確認する。その後、ピーンには別居中の娘、ほたるがおり、彼女の財産を相続する立場にあることが判明する。蛍は『北の国から』の中嶋朋子には似ておらず、膳場貴子に似ていた。呂宋は蛍に会い、彼女が1カ月前に結婚したことを知る。その後、呂宋は蛍に会ったことがあるような気がするとコメントする。総司が爪をやすりで削る必要があると発言したとき、呂宋は蛍が桜のメイド、真那まなであることに気づく。呂宋はすぐに逸見に蛍を探すように指示する。逸見たちは南湖公園の池で彼女の遺体を発見、遺体のそばには瓶が置かれており、彼女は自分で毒を飲んだようだった。南湖公園は日本最古の公園といわれており、1924年(大正13年)12月9日、国の史跡および名勝に指定されている。

 日本の公園制度は、公園の項にもあるとおり1873年(明治6年)の太政官布告からであるが、「南湖」が「日本最古の公園」とよばれるゆえんは、1801年(享和元年)、楽翁こと白河藩主松平定信が造成したこの湖の地を身分の差を越え庶民が憩える「士民共楽」という思想を掲げ、レクリエーション地として開放した場所とし、それが今日まで現存しているためである。


 南湖の名は李白の詩句「南湖秋水夜無煙」からとも、白河小峰城の南に位置していたことから名付けられたともいわれている。現在の南湖公園のあたりは元々大沼と呼ばれた湿地帯で、松平家が藩主になるまえの本多家のころから多目的に利用するための湖沼を施工してはいた。丘には松の木が密に分布し、花々もその間に点在して観葉植物の種類に富み、池のなかには島嶼があって遊覧の地となっている。


 遺体だと思ったが実は死んでおらず、桜の心肺蘇生法により蛍は助かった。

 呂宋は深町、ピーン、猫神の立ち会いのもと、事件の真相を明らかにする。

 猫神は深町を見て、陣内孝則がやっていたムヒのCMを思い出した。『ココニアルファーック』

 岡本を殺したのは、彼女の財産を狙ったピーンだった。深町は『志村けんのだいじょうぶだぁ』を思い出した。第4話「ミスター・ビーン、町へ行く」の第1エピソードをTVでそっくりそのまま演じていた。教会で睡魔に襲われる「教会ではお静かに」もそっくりなコントが加藤茶と共演で演じられたことがある。更に設定を入社試験に変更して「カンニングはダメよ」にもそっくりなコントがある。

「殺人は周到に計画されていました。ピーンは車内にドレスを持ち込み、しばらくしてそれに着替えて桜のふりをした。岡本に手作り弁当を届けるふりをして彼を毒矢で刺し、死体が発見される前にドレスを脱いで自分の席に戻ったのである。蛍の殺害は計画の一部だったのです。ピーンは彼女が岡本の娘であることを知って結婚し、後日、彼女が母親の遺産を受け取った後、今度は自分が彼女から遺産を相続することを確実にした上で殺害しようと考えていたのだ。しかし、呂宋が会ったその日に彼女が遺産を要求してきたため、予定より早く殺さなければならなくなった。


 車内にいたスズメバチは、ピーンが持参したマッチ箱から放たれたもので、これと彼のドレスが持ち物リストにあったことが呂宋の疑惑を引き起こしたのだった。ピーンが車内に仕掛けたスズメバチと吹き矢の筒は、いずれも捜査を撹乱することを意図したものであった。ピーンは呂宋の推理を否定するが、警察が毒薬の入った瓶から自分の指紋を見つけたと呂宋に嘘をつかれ、うっかり蛍殺害の際に手袋をしたことを漏らしてしまい、逮捕される。

 ピーンの正体は嵐山だった。

 パトカーに乗り込み、警察署に搬送されてる途中、嵐山はスズメバチに変装すると窓の隙間から逃げ出してしまった。

 

 12月30日 - 大瀧詠一急逝。

 菜奈は数日前に長宗我部の家に忍び込んだ。遺跡の近くにある古い家だ。白河舟田・本沼遺跡群は、下総塚古墳、谷地久保古墳、舟田中道遺跡で構成されている遺跡群で、福島県白河市北部に位置する。

 基壇を有する前方後円墳で、墳長は71メートルである。安山岩で構築された横穴式石室は奥壁から入口まで長さ約7メートルを測る。円筒埴輪や形象埴輪が出土しているが、配置位置までは不明である。6世紀後半の築造と推定され、「白河国造」の墓の可能性も考えられる。


 菜奈はどんな鍵でも開けられるメロリンキューを所持していた。長宗我部は白河市出身で、突如社長を辞めて実家に戻ってきた。母親の介護が必要になったからだ。彼女の後釜は弟が継いだ。

 長宗我部の母親は菜奈をヘルパーだと思い込んでいた。長宗我部のパソコンを調べたら、ミッチェルって外国人から『おまえを必ず殺す』と脅迫メールを受け取っていたのだった。

 呂宋は岡本殺しのせいで菜奈と会うのが随分遅れた。

 黒河駅近くのビジネスホテルのロビーに2人はいた。NHKの7時のニュースを見ていた。

「大瀧詠一っていい歌手だったな。『恋するカレン』とか『君は天然色』とかいい歌歌うんだ。リンゴを喉につまらせて死ぬなんておっかないな〜」

「呂宋さんって大瀧詠一が好きなんですね?私は山下達郎が好きです」と、菜奈。

「ミッチェルってのは何者でしょうかね?」

「長宗我部が切り捨てた社員かも知れないな」

「今後はどうします?」

「正月はどうするつもりだ?」

「嵐山さんから和歌山に招待されてるんです」

 

 12月31日 - 第64回NHK紅白歌合戦が開催。

 菜奈と呂宋は昼前に白河市に戻ってきた。

 山道の途中に安珍堂というお堂を見つけた。

 巨大な蛇が襲いかかってきた。

 菜奈は鞘から銀色に輝く刀を抜いた。菜奈は刀に『ニノ』と名付けた。菜奈は『嵐』のニノの大ファンだ。

 菜奈は『安珍・清姫伝説』を思い出した。

 伝説のあらましは、おおむね次のようなものである。


 奥州白河(現福島県白河市)より安珍という僧(山伏)が熊野に参詣に来た。この僧は大変な美形であった。紀伊国牟婁郡(現在の和歌山県田辺市中辺路、熊野街道沿い)真砂まなごの庄司清治/清次の娘、清姫は宿を借りた安珍を見て一目惚れし、女だてらに夜這いをかけて迫る。安珍は僧の身ゆえに当惑し、必ず帰りには立ち寄ると口約束だけをしてそのまま去っていった。


 欺かれたと知った清姫は怒って追跡をはじめるが、安珍は神仏(熊野権現・観音)を念じて逃げのびる。安珍は日高川を渡るが、清姫も河川に身を投じて追いかける大場面となる。蛇体となりかわり日高川を泳ぎ渡った清姫は、日高郡の道成寺に逃げ込んだ安珍に迫る。梵鐘を下ろしてもらいその中に逃げ込む安珍。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。因果応報、哀れ安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった。安珍を滅ぼした後、本望を遂げた清姫はもとの方へ帰っていき、道成寺と八幡山の間の入江のあるあたりで入水自殺したといわれる。


 畜生道に落ち蛇に転生した二人はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。住持の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである、と法華経の有り難さを讃えて終わる。


 菜奈は長宗我部邸に侵入したことで魔力を得た。

『ニノ』で大蛇を真っ二つに斬り裂いた。

「どっちが怪物かわからねーな」

 呂宋は腰を抜かしていた。

 夜は『きつねうち温泉』に泊まった。白河市街地から少し離れた山あいの公園「東風の台公園」の敷地内に、日帰り温泉施設と宿泊施設を兼ねた一軒宿が存在する。温泉で汗を流し、コタツで年越しそばを食べた。紅白にはmiwaとかクリス・ハート、Sexy Zoneが初出場した。

 大友良英作曲のアヴァンBGM「地元スカ」が流れる中、プロジェクションマッピングにより生きているように映し出されたNHKホールの外観を背景にした両組司会の綾瀬はるか・嵐によるオープニングトークに続いて、あまちゃんスペシャルビッグバンドによる「64回だョ!紅白歌合戦!」の生演奏からスタート。天野アキ(能年玲奈)が銅鑼を鳴らし開会を宣言した。


 伍代夏子は、夫の杉良太郎と20回目にして「初共演」。AKBメンバーをバックに着物姿でしっとり歌い上げ、審査員席の杉が「きょうは特に良かったです」とのろける場面も見られた。


 伍代の歌唱後、岩手県北三陸市からの“生中継”して『あまちゃん』メンバーによる寸劇を披露。「スナック梨明日」での忘年会に集う北三陸の面々と、NHKホールの天野アキ(能年玲奈)とのやりとりを展開した。


 藤あや子のステージには同郷の壇蜜が登場した。花魁姿で得意(坂東流師範の腕前)の日本舞踊をテレビ初披露した。


 サカナクションは歌唱前に、NHKサッカー中継のテーマ曲「Aoi」をBGMにサッカーのVTRが流れる紹介があった。


 天童よしみの歌唱前に、ステージ脇の通路でくまモンとふなっしーが乱闘状態になった。


 Linked Horizonは、合唱団64人、ダンサー12人ら100人超の楽団を引き連れてのパフォーマンス。アニメ『進撃の巨人』(MBS制作、後にNHK でも放送)の映像も紹介され、和田アキ子が作中の「和田アキ子似の巨人」に苦笑する場面もあった。また、歌詞中に出てくる主人公「(エレン・)イェーガー」に合わせて、ファンやNHK紅白歌合戦の公式Twitterが「イェーガー」と一斉にツイート、これが17万ツイートを超え、同日のツイート数で1位となる現象が生じた。


 水樹奈々とT.M.Revolutionは、2曲のメドレーの間奏部分で早着替えを披露した。「Preserved Roses」では白を基調とした衣装、「革命デュアリズム」では赤を基調とした衣装で歌唱した。


 坂本冬美の歌唱の際には、鼓童と共に、テレビ朝日系列『関ジャニの仕分け∞』の太鼓の達人仕分けで圧倒した大倉忠義(関ジャニ∞)も和太鼓演奏に参加した。


 前半終了前の特別企画「花は咲く」の歌唱前、曲紹介をしていた綾瀬が涙を流してしまい、言葉を詰まらせる場面があった。その後、中間審査の間に鉄拳がフリップを用いた漫談「こんな紅白はイヤだ!」を披露する予定になっていたが、時間の都合でネタが全編カットになってしまい、そのままニュース(武田真一担当)に繋がった。ニュースの最中に菜奈はうたた寝してしまい、目を覚ましたら『ゆく年くる年』がやっていた。

 除夜の鐘の音が静寂に聞こえる。

「来年こそは彼女がほしいな」と、呂宋は呟いた。

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闇に叫べ! 17 白河殺人事件 鷹山トシキ @1982

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