第1章  奇跡的絶望

第1話 足利駆

 5月1日


 「待ちなさい!」


 待てと言われて待つやつがどこにいる。


 見たところ30~40代くらいの、中年の警察のくせに、この俺と同じくらい足が

速いせいでなかなか距離を開くことができない。高校でも陸上を続けてたら、もう少

し足が速くなっていただろうか。


 目の前の通行人たちが、追いかけっこをする俺たちに衝突しないよう距離を取る。


 後ろを振り返ると、警察が通信機のようなものを口に当て、応援を要請している。

まずいことになってきた。早く障害物の多い路地に逃げ込もう。


 左手に細い道のりが見えた。よし、このまま入り込んで、肺が痛むだろうがトップ

スピードであいつの視界から消えてしまおう。


 頭の中で瞬時に計画を立てると、俺はそのまま、弾くように地面を蹴り、左の道へ

入り込んだ。


 はずだった。


 「きゃっ!」


 奇跡的な絶望。


 目的の細い道から出てきた女に阻まれた。


 ブレーキが間に合わず、俺と衝突した女は、その場に尻をつき前を塞ぐ障害物とな

ってしまった。


 「おい! 早く立て!! 邪魔なんだよ!!」


 俺は慌てて女に罵声を浴びせる。


 「あ、ええと、ああ」


 おどおどした様子で、女は腰を抜かしていた。怒りで全身の血液が沸騰しそうだ。


 大人の、力強い感触が手首に伝わる。


 「来てもらうよ」


 息の上がった野太い壮年が、凄みのある目つきで俺を睨んだ。


 俺は、未だに立ち上がれない女を睨みつけながら交番へと同行した。






 その夜は最悪だった。


 「うちの子がご迷惑をおかけしました」


 父が申し訳なさそうに謝る。


 「ほら、お前も」


 後頭部にのしかかる圧力。


 目の前にいる男が笑った。


 昼間、クラスの人間と思しき少年を脅し、財布からお金を抜き取った男。俺はそい

つを背後から襲い、お金を奪い返したところに、運悪く警察に遭遇。周りを隈なく確

認して襲い掛かったのに、俺のことをマークしているかのごとく警察は俺を捕まえ

た。


 裁かれるべきは、目の前の男だし、翌日に何をされるか分からないからだろう、最

初にお金を脅し取られた少年もこの男の味方をした。


 「もう勘弁してほしいっすね。俺、カツアゲなんかしてないのに」


 目を三日月のように細めて、神経を逆撫でするような態度で笑う男。


 「てめえ」


 「行くぞ」


 ぐい、と襟元を掴まれて、半ば連行されるように家に連れて行かれる。


 帰宅後は、兄と弟に鼻で笑われ、蔑まれながら、父と母の怒号を浴びた。


 父は、この土地ではよく名の知れた県会議員。俺が住む吹上市の活性化に一役買っ

たとして一目浴びている。


 「バカだなぁ~。駆くんは」


 俺のことを兄と思っていない弟、優は、親バカな母が芸能事務所に写真を送り、ト

ントン拍子で全国的に名を広めた天才子役。歌が上手いので、ゴールデンなどもたま

に出演する。


 「ふん」


 と鼻で笑って同調するのは兄。足利学は、勉学に秀でて、全国模試では常に上位1

0位の成績を残す。もちろん全国で、だ。


 そんなやつらが、俺を見下し、叱る。


 屈辱だけど、何も言えないのは事実だ。


 俺の特技は、物を盗むこと。ちょっとだけ足が速いこと。


 将来なんて、約束されていない。


 「お前は、本当にクズだな!」


 頬を張られた。


 高校に入ってからは初めてで、生まれてからはもう何回目か分からない。


 今まで堪えてきた。こいつらに俺の凄さを証明してやるんだと努力してきた。それ

なのに、運は俺に味方をしてくれない。変なタイミングで警察に見つかるし、これま

た妙なタイミングでしょぼそうな女にぶつかるし、俺はツイてない。そう、ツイてい

ないのだ。実力はあるはずなのに。


 「お前にはもう、期待しないからな」


 その言葉は、切りはなした。俺がこの家族にほんの少しだけ感じていた、一縷の期

待のようなものを、断たれた感覚。


 「…かったよ」


 どうでもよくなった。


 「分かったよ! 消えてやるよ!!」


 怒りが爆発した。


 「次にこの玄関をくぐる時は、お前らが俺から見れば大したことない人間だって証

明できる時だ!!」


 「なんだと?」


 父の静かな怒りをいなすように背中を向けて、ドアを閉めた。


 「どれだけ意地を張れるか楽しみだな」


 「駆くんって、友達いたっけ? もしかして野宿するの?」


 兄弟も、みんな揃って俺の敵だ。


 「学校はちゃんと行くのよ」


 溜息を吐いて、俺を止めもしない母親。


 クソだ。


 こんなゴミどもに、俺は負けたくない。


 俺の方が、才能があるんだ。


 夜9時の静けさの中、目から滲み出る水滴を拭い去る。


 俺は、目的地へ歩いた。


 「あ、警察にパクられた小僧じゃん」


 「うるせえ、しばらくここに泊めろ」


 俺を一流の盗人として教育し雇用した神原陸斗の事務所に、不本意だがしばらく泊

めさせてもらうことにした。


 「『令和の怪盗』もこれじゃあ商売あがったりね」


 背が高く、全体的に整った顔立ちの男が他人の不幸を娯楽のように笑う。


 「大丈夫だよ、バレてねえし」


 この男の底意地の悪さは今に始まったことではないので、俺は淡々と答えるが、依

然として笑みは消えない。


 「それより駆さ、歯ブラシとかあんの? 手ぶらで来ちゃって」


 「あ」


 図星を指された。


 「い、今から買って来るんだよ」


 「財布は?」


 「あ」


 今の今まで制服のポケットに入っていると思い込んでいた自分を呪いたい。


 「動揺しちゃってんな。どうした? そんなにショックキングなことでもあったの

か?」


 カエルをモデルにしたお気に入りのキーホルダーを両手でいじりながら、チラリと

俺を一瞥する神原。


 「うっせえ。しばらく金も借りる。今月中には返す」


 「年内でもいいんだよ~?」


 子ども扱いするように、なめた態度で弱った俺に畳みかける。


 「今月中って言ってんだろ。光熱費とか余計に払いたくねえ」


 この事務所はバイトを掛け持ちしなければ存続できないのは知ってるし、この神原

陸斗という男から報酬金を満足に受け取ったことがない。半年前なんか、汚職疑惑の

ある電子機器メーカーのデータを盗み取るという我ながら大きな仕事をしたのに、報

酬はたったの1530円。実行前は『お前の取り分は5万円だ』ってぬかしたのに、

パチンコで負けて1530円。神原の取り分は生活費と家賃の滞納分で消えた。


 よって、この男が長居した俺に全ての光熱費(+食費等)を請求してくるのは、十

中八九あり得る話なので、短期決戦で自立しなければならなかった。こんな自堕落男

のもとじゃなくて、他でバイトする方が楽かもしれない。


 「早く仕事寄こせよな。できればお前の口座に振り込みじゃなくて依頼人が直接報

酬くれるやつ」


 「俺ってそんなに信用ないの?」


 「ない」


 即答する俺に、神原はおどけるようにして寂しい顔を作った。


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