それはあなたの責任ですか?

三屋城衣智子

責任の仕分け方

 クロちゃんという芸人さんのインタビュー記事が出ていた。


 メンタルケアについての記事である。


 自身の考え方に非常に似ている。

 ふとそう思ったので、これを書くことにした。




 命。


 と聞いてこれを読んでいる方は、何を思うだろうか。


 尊い。奇跡。無くしてはいけない。大切。


 大凡おおよそその様な、ポジティブな言葉が付随ふずいするかと想像する。

 私も大分前には、そのような感覚でいた。それは間違いではない。

 けれどもそのある種の崇高さは、時として私のようなのんべんだらり人間(キッチンドランカーでもアル中でもないが)には、とてつもなく、真綿で首を絞められるような心地になったものだ。


 だからあえて言いたい。




 命とは損得である。




 ※ ※ ※




 生まれたいぜいも生まれたくない勢も、等しく、不平等にこの世に顕現けんげんさせられる。そこに実は崇高すうこうなるものは存在していない。ただ単純に、生み出したいという欲によって不平等にこの世界に誕生しているに過ぎない。


 実は意味は無い。


 こう考えたのには理由があって。

 私もそれまでは意味があると、思う一人だった。けれど誰にとって? 誰にとっての意味ある命なのか。存在なのか。誰かの心の奥底にはあるその想いは、しかしてそうそう言葉や態度で表してもらえるものではない。宝物であるので。そして時に無意識下に存在する感情であるので。

 けれど自分の存在しようと考えている理由を、他者に預けると「そうあってほしい」という自分の熱量には到底足りない「大事さ」が返ってくるのが常である。特に国民性なのか、密やかに胸に秘められた「存在して欲しい」は、時に高嶺の花だ。

 そこに頼っては、自分を存在させ続けるのは非常に困難である。

 言い換えよう。


 実は自分が思う程の意味は周りからは貰えない。

 そういう意味で「命に対して意味を貰えて当然」は無い。


 そしてその現実は、私をいつでも押し潰そうとしてきた。

 ずっと、自分には価値がないのではないかと怯えていた。

 いつでも私が思うほどは、価値はあるよと伝えられることはなかった。


 なら何があるのか。

 人一人の視点から見て、その世界に居たいか居たくないかだと、それでいいのかもしれないと思っている。

 そこは単純なる損得で良いのだろうと。この世界が自分にとって価値があるのか無いのか。


 ただここで誤解して欲しくないのは、大人になった辺りで、子供時分じぶんにも苦しくなった辺りで、きちんとそこのところの評価ないし人生の構造の分解をしてほしい、ということだ。

 ここをごちゃ混ぜにして、全部自分に責任があるかのように考えるので、人は潰れる。


 潰れて楽しいだろうか。楽しく無いだろう、断言できる。


 潰れる命は、非常に勿体無い。


 そのごちゃ混ぜによる消失は損得で言えば「損」であるのでどうか苦しいだけの事柄に全力を傾けるのはお辞めいただきたい。勝手にそう考えている。勿体無い、と。




 ※ ※ ※




 物事は大抵、自分の責任と、それ以外の責任や時流によって出来ている。


 例えば友人と野球をしている。その日は割合風が強めであるが、遊ぶ途中まではそこまでではなかった。しかし自身がボールを打った瞬間強風になった。ボールは近隣の家まで飛んでしまいガラス窓が割れてしまう。


 これを分解してみよう。


 友人との野球は自分の欲なので責は自分である。

 しかし強風は、偶然であり自然である。その責は自然にある。

 ボールは友人のものである。しかし二人で遊ぼうと決めて投げて打って使っているので、二人に責がある。


 近隣の家主からすれば、ガラスが割れているから腹が立っているだろう。二人は親を呼ばれ家主からも親からもしこたま怒られるかもしれない。

 ガラスを割った、という点から見た部分は、真摯に謝ることである。野球をしたという責は二人にある。


 けれど全部にこの二人は責任を取らなければいけないだろうか。責を受けて野球を辞めねばいけないだろうか。

 私は違うと考える。

「ガラスを割った」という部分については真摯に謝る。また次そうならないように「工夫する」事、それをしなければならないと知っての「実行の責任」は知った以上身に付けるとより良く自分が生きられる知恵である。

 しかし「突然の強風によりボールが常より飛距離が伸びた」という点においては、これを自然のせいにして自身の責から外してもいい。私はそう考えている。


 そしてこれが、あらゆる物事の根底にあるものだと、捉えている。




 ※ ※ ※




 いつでも人は誰かに何か影響を少しずつ与えながら生活している。


 その物事が起きたのは、何によってなのか。人の悪意なのか、無意識なのか、故意なのか無邪気なのか、偶然が重なりはしなかったか。


 相手の感情は自分が生み出したものでは無い。


 そことのころは他の誰も変えられはしない。事情を話して進化させることが時にできたとしても、だ。

 落ち着いて物事を理解する最初の一歩はいつだって、各個人、それぞれ自身しか踏み出せない。


 それは相手のせいでは無い。まして、貴方のせいでは無い。もちろん私のせいでも無い。

 そこにあるのはただ、その人がそれまでの人生で獲得してきた経験値からなる価値観、またその発露の行動や言葉でしか無いのである。

 そこを他人が勝手に責任は取れない。


 時に人は誤解をしたり、思い込んだり、偶然が重なってまるで悪いかのように見える。

 どうかその全部を抱え込んで責任を取ろうとしないでほしい。




 どこに問題があって、引き受けるべき責任がどれで、ほったらかすしか無い責任がどれか。




 何卒、分解をして、お互いに損得的に、生まれた以上「得」である人生を送りたい、また送ってほしいと願っている。


 不幸にも不平等に生まれいでた我々は、不運にも誰かに嫌われたり、誰かにはちょっと好かれたりしながら生きている。そこに貴賎は無く崇高も下賤も無く。


 ただひたすらに死へと向かう時間が横たわって居る。


 もちろん他者の時間を擦り減らす行為は減らしたほうが相手と、自分の「楽しい、嬉しい」を増やすことに有用であるし、相手の時間を全くもって消すことに意味を持たせてしまえば自身の時間も無くなる。勿体無い。実に勿体無い。


 せっかく偶然にも不運にも貰った時間ならば。この世はおかしみと娯楽に溢れている。生物の坩堝るつぼである。興味深い事象はそこかしこに存在し、小さいながら主張している。




 拾い上げて欲しい。気づいて欲しい。どうせならば、自分の心の「やってみたい」のしもべとなって、る命の中で、




 得して遊ぼうじゃないか。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それはあなたの責任ですか? 三屋城衣智子 @katsuji-ichiko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ