囚置信
──結論から言えば、わたし、
五歳のわたしには、すきな人がいた。ヒサギという名前の女の子。ヒサギ──ヒサちゃんは、おとぎ話の御姫様みたいな子だった。可愛らしくも
それはわたしが階段から落ちてからも、変わらなかった。
母が言った。
『この世界には〝敵〟がいるのよ、マリちゃん』
──わたしが狂っているのは、母のせいだ。わたしが狂っているように、母も狂っていた。母は常に〝敵〟を憎んでいた。退屈な日常に〝敵〟を見出しては怒り、また日々の
『ヒサちゃんは〝敵〟にあやつられている』
それを最初に言ったのが、わたしだったのか、母だったのか、もはや覚えてはいない。それほどに、あの
だから、わたしが〝敵〟とヒサギとのあいだに横たわる、奇妙な相関関係についてを
ヒサギが転校してからの一年間については、ほとんど何も覚えていない。ただ泣き、〝敵〟へ理不尽を押しつけて、
わたしはいつ、母の
その日はいつかと同じ、霧の濃い日だった。母とわたし、めずらしく二人での外出。話しかけても何も言わない母の表情は暗く、ひどく思い詰めている様に見えた。もしかしたら母は、わたしと同じ〝気付き〟を得ていたのかもしれない。
わたしの〝気付き〟──それは、わたしが赤ずきんではないということ。〝敵〟の実在──たとえそれが狂気の産物だったとしても、わたしをわたし足らしめる要素には違いない。でもそれまでのわたしは、敵を憎むだけ憎んで、何もしてこなかった。なぜなら、わたしは無力だから。自分が赤ずきん──おとぎ話のヒロインであると思い込んでいた。しかし天啓は、ある日突然に舞い降りた。わたしは赤ずきんではないのだ、と。赤ずきんではないわたしは、猟師にだってなれる。白雪姫の王子様にも、小人の一人にもなれる。それはつまり──〝敵〟を倒してしまえるということじゃないか。なにせ奴らはすべての理不尽の元凶、この世でもっとも悪い奴なんだ!腹を裂いて石を詰め込んでやろうか?焼けた鉄の靴を履かせ、死ぬまで踊らせてやろうか!もしくは………身の丈に合わぬ栄光をちらつかせ、自滅へ
そうか、そうだった。わたしがやるんだ。
わたしのやり方でないとダメなんだ。
だからわたしは、そのカッターを握りしめた………けど、しっくりこない。カッターは紙を切るための道具だから〝敵〟を殺すには物足りない。台所で包丁を手に取った。これも違う。わたしは〝敵〟を料理したいんじゃないし。ならアイスピックも肉切り包丁もたぶん違う。金槌?釘?金属バット?ゴルフクラブ………違う、違う、違う!どれも違う!家の中のものはみんな、殺すためのかたちをしていない。それで人を傷つけることはできても〝敵〟を
話を戻そうか。あの霧の日、母はわたしを殺す気だった──そう確信している。母にとってその時の〝敵〟は、わたしだったのだから。ようやく母も泣き
──視界が、灰色に染まっていた。一瞬のことで何もわからなかった──何が起きた?最初に痛覚が戻ってきた。体中が痛い。母に何かをされた?違う、目の前に母は居ない………というより、まわりのすべてが灰色にぼやけていて、何もわからない。次に聴覚が戻ってきた。耳鳴りが止んで、音の塊で脳がパンクする。頭が痛い。
………救助はすぐだった。何らかの原因で唐突にビルが倒壊、わたしと母がその瓦礫の下敷きになったのだという。わたしは偶然に無事だったが、母は………死んだ。もう少しずれていれば死んでいたのはわたしで、あるいは二人とも助かっていたか、二人とも死んでいた。………違う、違う。違う、これは偶然なんかじゃない。これは〝敵〟の仕業だ。この世に偶然なんてない、〝敵〟が全ての理不尽を仕組んでいるのだから!………とはいえ、そうであるならば〝敵〟のねらいはわたしではなく、事実として死に至った母であったと考えるべきだろう。母を狙っていた〝敵〟は、わたしではなく別にいたのだ。それはそうだ、と言いたかったがしかし──もし事故が起きなかったら、母を殺した〝敵〟はわたし、ということなっていたのでは?いや、それは母が先にわたしを〝敵〟だと思い込んだからで、わたしは母の敵ではなくて、でもこうして母は〝敵〟に下されて、わたしは〝敵〟を
何も、わからなくなってしまった。
一年が経っても、事故の原因は──〝敵〟の正体は、不明のままだった。そして、わたしが十二年に渡って激しく憎み続けてきた〝敵〟という概念、それそのものさえ見失ったままだった。周囲の人間は──軽薄な父を含めて──母を喪ったわたしを憐れみ、同情の言葉をかけた。そんなことどうでもいいのに。〝敵〟って何だ?そんなもの存在しない?狂人の
──そんな折、あの人と出逢った。
見上げる中空。それまで建物の影だと思っていた黒い輪郭が、動いていた。ビルの谷間をちらつく振り子のような影──それに
──巨人が、霧の街を
霧と、不幸。
理不尽と、不可解。
原因不明のビルの倒壊、巨人。
あれが、〝敵〟だ──直感が叫んで、わたしは走り出した。
足が痛かった。
『…あの、大丈夫?』
そんなわたしに声を掛けてきたのが、傘を持って
私の見ている目の前で、融がマリ子に刺された
──それは私へ………
「なんで…!?」
違う。
「融は関係ない!」
違う。
「融は……!!」
こんなこと、してる場合じゃない。今は融を助けなきゃいけないのに、
「………許さない。」
口にすべきことはそんなことじゃない。
「…してやる。」
違う。それはマリ子が私に言うべきことだ。
「……殺してやる」
違う。それはもう、十年前に
でも、ダメ。もう何を言おうが何を考えようが、私には私を止められなかった。融から
最期にわたしの目が捉えたマリ子は、私と融を見て──泣いていた。
あの人──
『傘、いる?』
わたしは笑うのをやめて、傘を受け取った。頭が真っ白で、人間的な感情表現もコミュニケーションもできなかった。受け取った傘の持ち手に感じた
『楸っていう、友達がいて──』
ある日の、
『小学校も同じだったんだけど──』
『五年のときに転校しちゃって──』
『転校の前日になってから──』
小学校で、ヒサギは一人じゃなかったんだ。その事実に涙が出そうなほど
「どうしてわたしじゃなかったの?」
なぜそうする必要があったのか自分でもわからないまま、必死になってその言葉を飲み込んで──それからもわたしは、何も変わらず
正直、
──そうだ。わたしは、赤ずきんでも猟師でもない。じゃあ、何?
脳髄から背筋へ、つめたいものが
──
それから三年間、
──なら、わたしが狂っていただけじゃないか。
けれども実際に母は死んで、
そして、去年の夏だ──街は霧に呑まれ、多くの人間が巨影を目撃した。わたしもその一人だ。原因不明、対策不可能、絶対的な理不尽による死の恐怖──街は〝敵〟に
………だからかもしれない。あの河川敷で雨粒に濡れながら、狂い果てて
「──じゃあやっぱり、あのとき襲い掛かったきたのは私への………いや、私と融への復讐心だったんじゃないの?」
窓から霧を睨み付けながら、それまで黙って話を聞いていた私は、語り主のマリ子に問うた。
「………少し違うかな。少なくとも今のわたしは、ヒサギのことも
マリ子はおずおずと語りを再開する。
「でも、わたしはオオカミになる方法を探してた………復讐心とか、嫉妬とか、そういう悪感情に任せて二人を不幸せにしてやろうって、結論を出したのは──たしかにあの時だったかな。………だから、あの夏からずっと二人のことを徹底的に調べてきたし、いつも後を着けてた。」
「………え、ストーカー?」
「まあ、そうだね………」
私たちの立つ位置は元から近くなかったけれど、ちょっと、この話を聞かされたら引かざるを得ない。………ほんの少しだけバツが悪そうな素振りを見せつつ、真理子は話を続ける。
「あの日も、
「………なら、望みは叶ってるってワケ?それならなんであの時──私があなたを、
「それは………心が、満たされなかったから。オオカミになれば、わたしの心は満たされるとおもってた──でも、
マリ子はそれ以上話せそうもなかった。ただ言葉にならない嗚咽を漏らして、泣いていた。………マリ子のことだから融の横たわるベッドに涙が落ちないように気遣っているのだろうが、おかげで病院の床が涙と鼻水でベチャベチャになっている。見兼ねて、おもわず距離を詰めてしまう。
「………当たり前でしょ、人を危うく殺すようなマネしておいて心が満たされるもへったくれもないっての。」
彼女の足元をティッシュで拭きつつ、内心ではヒヤリとしていた。でも心の底から泣いているマリ子を見て、むしろ私の方が情けなくなる。マリ子が私と向き合おうとしていなかった?違う、私のほうがマリ子と向き合わなかったんだ。
「………マリ子は悪くない、とは言い切れないけどさ。私が悪かった部分は絶対あるし、マリ子が悪くなかった部分も絶対ある。」
私はしっかりと向き直って、マリ子の目を覗き込んだ。
「マリ子は狂ってなんかないよ」
「………ヒサちゃん…ごめんね………ありがとう………」
きっと私とマリ子は、あと十年早くこうするべきだったのだろう。そうすれば融は、こんなコトにはならなかったかも──いや、アイツのことだ。どっかで痛い目は見てたかもしれないけど。私は窓の外、霧の中を悠然と進む巨人に視線をやってから──ベッドの上の融に目を戻した。
一週間経っても目覚めない融へと。
シュウチシン 諸井込九郎 @KurouShoikomi
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