囚置信

 ──結論から言えば、藤棚ふじだな真理子まりこは狂っていた。狂っていたから、実の母に凶器を向けた。そして今、こうしてに凶器を突き立てている。わたしは狂っていた。狂っていたのだ。

 五歳のわたしには、すきな人がいた。ヒサギという名前の女の子。ヒサギ──ヒサちゃんは、おとぎ話の御姫様みたいな子だった。可愛らしくもりんとした顔に、とおるような声。ワガママだけど、それを愛嬌あいきょうに変えてしまう天性てんせいの魅力。こんな人と友達で、わたしは幸せだと思っていた。この人が幸せなら、わたしは幸せでなくていいと思っていた。

 それはわたしが階段から落ちてからも、変わらなかった。些細ささいな意地の張りあいからケンカになる、そんなの誰にでもある話だから。だからね、ヒサちゃんは悪くないよ──長引いた入院が終わって、ようやく保育園に戻ったその日、わたしはヒサギにそう告げた。………けれど、ヒサギはずっと上の空だった。あの日から彼女は、誰かに微笑ほほえむことをしなくなっていた。そしてその日から、彼女はわたしと遊んでくれなくなった。何故なぜだろう?〝考える〟ができなかったわたしには、すでにある答えを〝探す〟ことしかできなかった。

 母が言った。

『この世界には〝敵〟がいるのよ、マリちゃん』

 ──わたしが狂っているのは、母のせいだ。わたしが狂っているように、母も狂っていた。母は常に〝敵〟を憎んでいた。退屈な日常に〝敵〟を見出しては怒り、また日々の安寧あんねいおびやかす〝敵〟を見つけては怒っていた。日々の暮らしが退屈なのも、この世に不幸が絶えぬのも、空があんなに青いのも、電信柱が高いのも、全て全て全て全て全て全て全て全て全て〝敵〟のせい。母はいつもそう語っていた。過去をさげすみ、未来を否定し、ただ心火しんか精神こころをすり減らすことによってのみ、自己のかたちを認識する母。わたしはその背中を見て大きくなっていったのだ。

『ヒサちゃんは〝敵〟にあやつられている』

 それを最初に言ったのが、わたしだったのか、母だったのか、もはや覚えてはいない。それほどに、あのころのわたしは〝敵〟の存在を信じて………ちがう、欲していたと言うべきだろう。このせかいの理不尽を押し付けるスケープゴート。児戯じぎ敵役かたきやく。白雪姫の継母ままはは、赤ずきんのオオカミ──それらのを、母は寝物語ねものがたりのかわりに、わたしへうそぶき続けた。わたしも、それを飲みこみ続けた。

 だから、わたしが〝敵〟とヒサギとのあいだに横たわる、奇妙な相関関係についてを勘繰かんぐるようになるのは、ごくごく自然なコトだった。だって、このせかいの不幸ふこう罪悪ざいあく苦痛くつう理不尽りふじんはすべて〝敵〟が仕組んでいるのだ。ヒサギが笑わなくなったのも、わたしと遊んでくれなくなったのも〝敵〟の仕業しわざ!──ヒサギが、小学生になってもいまだに会話をしてくれないのも、誰とも一緒に遊ばずに孤立していくのも、わたしがそれをただ見ているだけなのも………そして、心を閉ざしたままヒサギが転校してしまったのも、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、〝敵〟のせいなんだ。わたしはヒサギをおもって泣いた。わたしは〝敵〟を激しく憎み続けた──その仔細しさいを、まるで疑わぬままに。

 ヒサギが転校してからの一年間については、ほとんど何も覚えていない。ただ泣き、〝敵〟へ理不尽を押しつけて、わめいて、また泣いて…そのかえし。ただかなしみにおぼれるだけのせた日常。それでも、それが続いているうちはよかった──母が〝敵〟を、わたしの内に見出すまでは。

 わたしはいつ、母の不興ふきょうを買ってしまったのだろう?わからない──なぜなら母は狂っていたから。そして、わたしもそれと同じだけ狂っていた。タガの外れた人間同士のあいだに、正気のかよった論理を求めても仕方がないのだ。母は〝敵〟であるわたしを遠ざけようとしていたらしい。急に家を出て、しばらく帰らない日々も増えていった。ある時は実家に帰っていたし、ある時は知らぬ〝ともだち〟の家に行っていた。でも………それでもあの人は、家へ帰ってきた。それは家族への愛情からではなく──もうここにしか、彼女の居場所がなかったからだった。そうして母は〝敵〟を憎み、我が身をむしって──ただ泣いていた。いつしか母は怒ることをやめて、泣くようになっていた。………このひとは間違いなくわたしの母親だ──と、こんなかたちで実感したくはなかった。でも泣く母の在り様はどうしようもなく、わたしと同じだった──だからわたしは、ひとつの決断をした。

 その日はいつかと同じ、霧の濃い日だった。母とわたし、めずらしく二人での外出。話しかけても何も言わない母の表情は暗く、ひどく思い詰めている様に見えた。もしかしたら母は、わたしと同じ〝気付き〟を得ていたのかもしれない。

 わたしの〝気付き〟──それは、わたしがということ。〝敵〟の実在──たとえそれが狂気の産物だったとしても、わたしをわたし足らしめる要素には違いない。でもそれまでのわたしは、敵を憎むだけ憎んで、何もしてこなかった。なぜなら、わたしは無力だから。自分が赤ずきん──おとぎ話のヒロインであると思い込んでいた。しかし天啓は、ある日突然に舞い降りた。わたしは赤ずきんではないのだ、と。赤ずきんではないわたしは、猟師にだってなれる。白雪姫の王子様にも、小人の一人にもなれる。それはつまり──〝敵〟をということじゃないか。なにせ奴らはすべての理不尽の元凶、この世でもっとも悪い奴なんだ!腹を裂いて石を詰め込んでやろうか?焼けた鉄の靴を履かせ、死ぬまで踊らせてやろうか!もしくは………身の丈に合わぬ栄光をちらつかせ、自滅へいざなってやるのはどうだろう?灰かぶりの義母たちがそうなったように!あるいは………そう、瓜子姫うりこひめを殺したアマンジャクのように、その首を落として黍畑きびばたけに埋めてやろう!〝敵〟が触れざる虚妄きょもうの偶像ではなく、手の届く実在の悪意だと〝気付き〟を得た途端、より残酷ざんこくに、より凄惨せいさんに、暗い欲望はブクブクと膨らんでいった。しかしあるとき──部屋の片隅に落ちていたカッターナイフに目が留まって、考えを改めた。

そうか、そうだった。んだ。

でないとダメなんだ。

だからわたしは、そのカッターを握りしめた………けど、しっくりこない。カッターは紙を切るための道具だから〝敵〟を殺すには物足りない。台所で包丁を手に取った。これも違う。わたしは〝敵〟を料理したいんじゃないし。ならアイスピックも肉切り包丁もたぶん違う。金槌?釘?金属バット?ゴルフクラブ………違う、違う、違う!どれも違う!家の中のものはみんな、をしていない。それで人を傷つけることはできても〝敵〟をたおすには不十分だ。なら、どうする?──わたしは初めて、〝探す〟のではなく〝考える〟ことにした。生れてはじめての経験だったかもしれない。いろやかたち、材質、手触り、思い浮かぶすべての要素をコトバにして、ノートに書きなぐって、来る日も来る日もそれを突き立てる日のことを考えて──気が付けば、わたしの手の中にがあった。わたしが〝敵〟に突き立てるのは、ナイフでもカッターでも包丁でもない。そもそも実体でさえないのだ。それはわたしの感情そのもの、わたしの敵愾心テキガイシンそのものだ。思い描いたいろ、かたち、材質、手触りそのままの敵愾心テキガイシンが、確かにそこにあった──わたしは、狂っていた。

 話を戻そうか。あの霧の日、母はわたしを殺す気だった──そう確信している。母にとってその時の〝敵〟は、わたしだったのだから。ようやく母も泣きすがるのではなく、自ら〝敵〟を害すればいいと──自分が白雪姫ではないと気付いたのだろう。──やらなければ、やられる──次に母が振り向いた時、手の中に握ったこの敵愾心テキガイシンを突き立てる。そう考えて拳を握りしめた。鼓動が速く、大きくなって、他の音が聞こえなくなる。自分が今から母にされるかもしれないコトを考えて、恐怖と憎悪以外のすべてを忘れる。やらなければ、やらなければ、今、ここでやらなければ。そして母が足を止めて、ゆっくりと振り向き────

 ──視界が、灰色に染まっていた。一瞬のことで何もわからなかった──何が起きた?最初に痛覚が戻ってきた。体中が痛い。母に何かをされた?違う、目の前に母は居ない………というより、まわりのすべてが灰色にぼやけていて、何もわからない。次に聴覚が戻ってきた。耳鳴りが止んで、音の塊で脳がパンクする。頭が痛い。平衡感覚へいこうかんかくを取り戻し、自分が倒れていることに気付く。痛む頭をもたげて確認すれば、身体中がほこりまみれ。腕や足もり傷だらけで、じんじんと痛い。周りは………これは、コンクリート?ひしゃげた鉄や、ガラスの破片………建物らしき残骸の隙間に、わたしはいた。………ほんの数センチずれていたら、わたしはこの瓦礫の下敷きになっていたのか──そう気付いて、震えが止まらなくなった。そして──ああ、そうだ。目の前に、いたはずの母は、姿が見えず………そこには、大小の瓦礫が、山のように積み上がって………

 ………救助はすぐだった。何らかの原因で唐突にビルが倒壊、わたしと母がその瓦礫の下敷きになったのだという。わたしは偶然に無事だったが、母は………死んだ。もう少しずれていれば死んでいたのはわたしで、あるいは二人とも助かっていたか、二人とも死んでいた。………違う、違う。違う、これは偶然なんかじゃない。これは〝敵〟の仕業だ。この世に偶然なんてない、〝敵〟が全ての理不尽を仕組んでいるのだから!………とはいえ、そうであるならば〝敵〟のねらいはわたしではなく、事実として死に至った母であったと考えるべきだろう。母を狙っていた〝敵〟は、わたしではなく別にいたのだ。それはそうだ、と言いたかったがしかし──もし事故が起きなかったら、母を殺した〝敵〟はわたし、ということなっていたのでは?いや、それは母が先にわたしを〝敵〟だと思い込んだからで、わたしは母の敵ではなくて、でもこうして母は〝敵〟に下されて、わたしは〝敵〟をることも気付くこともできず………ちがう、もっと根本的に、そもそも────〝敵〟って、いったい何なの?

何も、わからなくなってしまった。

 一年が経っても、事故の原因は──〝敵〟の正体は、不明のままだった。そして、わたしが十二年に渡って激しく憎み続けてきた〝敵〟という概念、それそのものさえ見失ったままだった。周囲の人間は──軽薄な父を含めて──母を喪ったわたしを憐れみ、同情の言葉をかけた。そんなことどうでもいいのに。〝敵〟って何だ?そんなもの存在しない?狂人の戯言たわごと?わたしは狂っていた。母も狂っていた。なら母は狂ったすえに運悪く死んだ哀れな狂人だ。わたしは狂った母に育てられたから狂ったのだ。なら母は何故狂っていたのか?そもそも本当に、わたしや母は狂っていたのか?〝敵〟を見出すことのなにが狂っているのだ。事実としてこのせかいには悪意が満ち、悪人は蔓延はびこり、少なからぬ罪悪ざいあくによって社会が回っている。わたしに敵意を見出す人間の一人や二人や三人や四人、確実にいる。母を殺してやろうとほくそ笑んでいた人間だって、いるに決まっている………だって、わたしがそうだったのだから。〝敵〟を見失って一年──その実在を疑って生きた。でもむしろ〝敵〟にるべくもない、ほんとうにただだけの不幸がこの世に溢れていると考えたとき、わたしの足は竦んで動かなくなってしまう。気が狂いそうだ。そんな救いようのない世界、あってたまるか。なんだかよくわからない〝敵〟とやらが、なんだかよくわからない理不尽を仕組んでいる世界のほうが、よほどマシだ、よほど正気じゃないか。わたしは、何もかもが、わからなくなってしまった。

 ──そんな折、と出逢った。三度みたび、霧にむせぶ夏の日に。胸中でわだかまっては喉元をちろちろと焼く、鬱屈うっくつした不安。それを無理矢理に飲み込むために、わたしはアテも意味もない徘徊はいかいを繰り返していた。人混みは嫌いだ。でも〝敵〟にしか能がないくせに〝敵〟を見失う自分のことがもっと嫌いだったから、その嫌いな自分を容易たやすく見失わせてくれる喧噪の中へ、よく紛れ込んでいた。とはいえ、その日は何時いつにもまして霧が濃く、注意報まで出ていたせいもあって、駅周辺でもほとんど人がいなかった。音も無く世界を濡らしていく霧の粒が鬱陶うっとうしくてたまらない。階段から転げ落ちた日も、〝敵〟を見失った日も、霧が出ている日はろくでもないコトしか起こらないのに──霧と、不幸。その二つのコトバを無意識的に反芻はんすうし、を感じた──その刹那せつなだった。

 見上げる中空。それまで建物の影だと思っていた黒い輪郭が、動いていた。ビルの谷間をちらつく振り子のような影──それに追随ついずいし、移動していく柱──空に揺れるたまのような──ほぼ同じ縦軸上で動いているそれらの物体が、実はひとつの存在………腕で、脚で、頭で………つまり、人のかたちをしているのだと気付くまでに、そう時間はかからなかった。

──巨人が、霧の街を闊歩かっぽしていた。

 霧と、不幸。

 理不尽と、不可解。

 原因不明のビルの倒壊、巨人。

 あれが、〝敵〟だ──直感が叫んで、わたしは走り出した。

 足が痛かった。脆弱ぜいじゃく心肺しんぱいはすぐに悲鳴を上げて、胸が焼けるように痛む。何も知らない他人が向けてくる視線が痛くてこわい。でも──それを振り切って走る。霧の向こう、踊っているような奇怪な動きでを進める巨人を──〝敵〟を追いかけて、わたしは走った。火を噴きそうなほど息が熱い。喉奥のどおくに空気が張り付くような不快感に、何度も吐きそうになる。それでも、湿った空気を思いきり吸い込んで、吐き気を無理矢理に飲み込んだ。苦しみの極限に脳が麻痺して、なぜ走っているのかわからなくなる。でも──〝敵〟を追いかけなくてはならない。わたしにはそれしかないんだ。最後のチャンスなんだ。根拠なんて無い。冷静に考えれば、追いつける見込みもない。それでも──歯を食いしばって、涙を振り払って、狂ったように走って、走って、走って──気付けば、河川敷にいた。いつの間にか影も見失って、ボサボサの髪をさらにぐちゃぐちゃにして、肺も喉も口の中も足も腕もぜんぶボロボロにして、わたしは………笑った。莫迦ばかみたいに笑った。いつしか霧の粒は雨になって、ひとり笑い転げるわたしに降り注いでいた。

『…あの、大丈夫?』

そんなわたしに声を掛けてきたのが、傘を持ってたたずんでいた。思えば、運命的な出逢いではあった。稲守いなもり とおる、それがの名前だった。



 の見ている目の前で、融がマリ子に刺された

 ──それは私へ………音門おとどひさぎへ向けられるべき感情なんだ。私が背負うべき罰だったはずなんだ。だから崩れ落ちるを抱き留めて、私は──マリ子に向かって、叫んでいた。

「なんで…!?」

違う。

「融は関係ない!」

違う。

「融は……!!」

こんなこと、してる場合じゃない。今は融を助けなきゃいけないのに、ひさぎキョエイシンを制御できなかった。晴天せいてんだった空が、突然に暗くなる。にわかに沸き立つ雨雲が、天水てんすいを落とさぬままにこうべを垂れる──霧が、降りてきた。

「………許さない。」

口にすべきことはそんなことじゃない。

「…してやる。」

違う。それはマリ子が私に言うべきことだ。

「……殺してやる」

違う。それはもう、十年前におかしたあやまちなのに。

でも、ダメ。もう何を言おうが何を考えようが、私には私を止められなかった。融からあふれ出たあかい液体が、私の指に触れる──その瞬間に、眼前の光景すべてがおなじ赤色に染まり──

 最期にわたしの目が捉えたマリ子は、私と融を見て──泣いていた。



 ──とおるさんが雨の中で笑い転げるへ、傘を差しだしたあの日。

『傘、いる?』

 わたしは笑うのをやめて、傘を受け取った。頭が真っ白で、人間的な感情表現もコミュニケーションもできなかった。受け取った傘の持ち手に感じたぬくもりが、わたしを更に惨めな気持ちにさせた。

 とおるさんはやさしい人だった。ずぶ濡れのわたしを見かねて傘を差しだし、家まで送ってくれた。話を聞いてくれたけど、話したくないことまでは決して聞いてこなかった。同じ中学だと知ったのも、学校でとおるさんから声を掛けてくれたからだ。とおるさんは、同性に好かれるタイプの人だった。ボーイッシュな雰囲気と、それに違わぬ行動力。わたしだって内心では、すこし憧れていた。──ヒサギの名前が出るまでは。

『楸っていう、友達がいて──』

 ある日の、他愛たあいない友人間の思い出話だった。

『小学校も同じだったんだけど──』

『五年のときに転校しちゃって──』

『転校の前日になってから──』

 小学校で、ヒサギは一人じゃなかったんだ。その事実に涙が出そうなほど安堵あんどした。わたしは〝敵〟に目を向けるあまり、ヒサギと向き合うことができていなかったのだ。そんなわたしがヒサギに見限られるのは当然の帰結きけつだ。よかった、ヒサギがこんなわたしを見限ってくれて。よかった、ヒサギがこんな素敵な人と友達になっていて。よかった、とにかく「よかった」と思った──いいや、。わたしはわたしの心に落された一滴の黒いしずくを、躍起やっきになって隠そうとしていたのだ──これは許される感情ではない。ヒサギが幸せならわたしは不幸せでいい。そう思って生きてきたはずだ。それなのに──たった一言、あやうく口を突きかけて飲み込んだ言葉に、どうしようもなく胸がむしられる。

「どうしてわたしじゃなかったの?」

 なぜそうする必要があったのか自分でもわからないまま、必死になってその言葉を飲み込んで──それからもわたしは、何も変わらずとおるさんと交流を続けた。ヒサギの話も聞いた。馴れめも、周囲との隔絶かくぜつも、二人だけの子供の情景トロイメライも、──そして六年生のときの、転校の話も。

 正直、とおるさんとヒサギの関係は──美しかった。ヒサギがおとぎ話の御姫様なら、とおるさんは王子様だ。わたしなんかではとても、ヒサギとも、とおるさんとも、同じ世界になんて立てやしないんだ。──でもその美しい物語はいつも、ヒサギが転校して終わる。語り終えたとおるさんの、さみしげな表情を残して幕を下ろす。これも〝敵〟の仕業なんだと、乾ききった心で叫んでみる──意味なんて無かった。満たされることも無かった。過去の悲劇の〝敵〟なんて、現実の〝敵〟さえ見失っているわたしにはどうしようにもない。ただヒサギととおるさんを想って泣くしかない。赤ずきんですらなく、猟師でもないわたしは、ただ哀しんで泣くことしかできないのだから。

──そうだ。わたしは、赤ずきんでも猟師でもない。じゃあ、何?

脳髄から背筋へ、つめたいものがはしった。いや…しかし、そうだ。すでに一度、わたしは母の〝敵〟になっていたのだ。であるならば、最初から、わたしは──

──おおかみにこそ、なるべきだったのでは?


 それから三年間、敵愾心テキガイシンを握りしめながら、ただ考えていた。それはわたしにしか見えず、わたしにしか作れず、わたしにしか扱えない。こんなもの、実在するといえるのだろうか?あの日に見た〝敵〟──巨人の影だってそうだ。霧と巨影、関連はいくらでも疑えるけれど、巨影が実在するという証拠はなにひとつない。巨影がビルを倒したというなら、わたしも母も巨影に気付かなかったのはなぜ?屋上屋をすような話ではあるものの、もし保育園のときの事故までもが巨影の仕業だったとして、なぜそこまでわたしに関わってくるのか。それがわからない。片方をヒサギと線で結べても、もう片方はとおるさんとしか結びつかない。両方と結びつくのはわたしだけなのだ

──なら、わたしが狂っていただけじゃないか。

けれども実際に母は死んで、敵愾心テキガイシンはわたしの手の中にあって、実在の刃物のように物を傷付ける──〝敵〟についての思索とまったく同じ煩悶はんもんが、あたまのなかでぐるぐるとからまっていくのを感じた。霧、ヒサギ、わたし、とおるさん──わからないことだらけのまま、そしてわたしはオオカミになれないまま、時間だけが過ぎていった。

 そして、去年の夏だ──街は霧に呑まれ、多くの人間が巨影を目撃した。わたしもその一人だ。原因不明、対策不可能、絶対的な理不尽による死の恐怖──街は〝敵〟におびやかされているようだった。ああ──幼いわたしが盲信もうしんしたせかいが、目の前に広がっている──触れ得ざる絶対の〝敵〟が実在し、理不尽をもって不幸を振りいている………これが狂気でなくて、なんだというのか。わたしが狂うことを辞めたら、せかいのほうが狂ってしまったんだ。わたしは、いつかのように河川敷まで走って──おもいッきりわらった。

 ………だからかもしれない。あの河川敷で雨粒に濡れながら、狂い果ててわらっていたから──わたしは、二人を見つけられた。遠巻きで会話までは聞こえなかった。けれど、ヒサギがとおるさんまでもがそれに応えるようにのを、わたしは、遂に──見てしまった。そうか、あの巨影はふたりいたのか。そうか、それはつまり、わたしはヒサギに階段から突き飛ばされて、とおるさんに母を殺されたのか。ははは、ははは、とわらったはずの声が、音を伴っていなかった。肩で笑おうとして、吐き気と涙がこみ上げてきた。でもすぐに可笑しくなって、大声で笑う。音は出ない。代わりに涙が出た。何も考えられなくなって、その場に崩れ落ちて──見上げた空は、唐突に晴れ上がっていた。



「──じゃあやっぱり、あのとき襲い掛かったきたのはへの………いや、私と融への復讐心だったんじゃないの?」

 窓から霧を睨み付けながら、それまで黙って話を聞いていたは、語り主のに問うた。

「………少し違うかな。少なくとも今のわたしは、ヒサギのこともとおるさんのことも恨んでないよ………恨みを抱くほどの現実味も、実感もないし。」

 マリ子はおずおずと語りを再開する。

「でも、わたしはオオカミになる方法を探してた………復讐心とか、嫉妬とか、そういう悪感情に任せて二人を不幸せにしてやろうって、結論を出したのは──たしかにあの時だったかな。………だから、あの夏からずっと二人のことを徹底的に調べてきたし、いつも後を着けてた。」

「………え、ストーカー?」

「まあ、そうだね………」

 私たちの立つ位置は元から近くなかったけれど、ちょっと、この話を聞かされたら引かざるを得ない。………ほんの少しだけバツが悪そうな素振りを見せつつ、真理子は話を続ける。

「あの日も、とおるさんが家を出るのを見て、格好からしてヒサギと会うような雰囲気だったから、慌てて追いかけて………あとはヒサギの知る通り、かな。」

「………なら、望みは叶ってるってワケ?それならなんであの時──私があなたを、虚栄心キョエイシンで殴り殺してやろうとしたとき──泣いてたの?」

「それは………心が、満たされなかったから。オオカミになれば、わたしの心は満たされるとおもってた──でも、とおるさんがヒサギを庇ったとき………よろこびじゃなくて、かなしみしか、なくて………ごめんなさい………取り返しのつかないことを──」

 マリ子はそれ以上話せそうもなかった。ただ言葉にならない嗚咽を漏らして、泣いていた。………マリ子のことだからに涙が落ちないように気遣っているのだろうが、おかげで病院の床が涙と鼻水でベチャベチャになっている。見兼ねて、おもわず距離を詰めてしまう。

「………当たり前でしょ、人を危うく殺すようなマネしておいて心が満たされるもへったくれもないっての。」

 彼女の足元をティッシュで拭きつつ、内心ではヒヤリとしていた。でも心の底から泣いているマリ子を見て、むしろ私の方が情けなくなる。マリ子が私と向き合おうとしていなかった?違う、私のほうがマリ子と向き合わなかったんだ。

「………マリ子は悪くない、とは言い切れないけどさ。私が悪かった部分は絶対あるし、マリ子が悪くなかった部分も絶対ある。」

 私はしっかりと向き直って、マリ子の目を覗き込んだ。

「マリ子は狂ってなんかないよ」

「………ヒサちゃん…ごめんね………ありがとう………」

 きっと私とマリ子は、あと十年早くこうするべきだったのだろう。そうすれば融は、こんなコトにはならなかったかも──いや、アイツのことだ。どっかで痛い目は見てたかもしれないけど。私は窓の外、に視線をやってから──ベッドの上の融に目を戻した。

へと。

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シュウチシン 諸井込九郎 @KurouShoikomi

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