シュウチシン

諸井込九郎

執値身

 が〝あれ〟の存在に気付いたのは一体、いつだったろうか。〝あれ〟が私の内からまろび出たもので、私の意のままに動き、力を振るうと知ったのはいつだったか。そしてなにより──〝あれ〟が私の虚栄心キョエイシンそのものであると思うようになったのは──いつからだろう?


 五歳のときの話。その頃にはもう私・音門おとど ひさぎの側に〝あれ〟はいた。あまりに身近すぎて、家族にも話したことは無かったと思う。幼少期の自由帳や保育園の手紙を見返しても、私の素行のなかに、その片鱗へんりんは見当たらない。それはそうだ。その頃の私にとって〝あれ〟は、マンションのむねや、電信柱、変哲へんてつのないアスファルトの道路、それを横切る老婆、無感情に立ち並ぶ街路樹がいろじゅ──そういった、この世界を構成する最小単位、取るに足らないだったのだから。幼児おさなごの絵に道端みちばたの石ころがえがかれないのと同じように、五歳の私は〝あれ〟を気にもめていなかった。だからこそ、〝あれ〟は〝あれ〟でしかなく、呼び名なんてものを考えたことさえなかった。

 ある日のこと、マリ子という友達と喧嘩けんかになった。マリ子は同年代の中でも特に怖がりで、その日、街をおおっていた深い霧を、ひどく怖がっていた。そんなマリ子を私が笑って、口喧嘩になって、ぶったとかぶたないとかでギャンギャン泣きわめいて──この時期なら誰もが経験するような、何てことない子供のケンカ。二人してやけっぱちになり、霧の中へ飛び出して、すくむ足を無理に動かして…マリ子が叫んだ。

『怖がってるのはヒサちゃんのほうでしょ!』

 ──その時の事は、脳裏に焼き付いている。血がのぼりきっていた私の脳内に、くろくて、つめたい、いやな感情がほとばしった。刹那、頭上に巨大な〝気配〟が躍り出る。はっと見上げた中空ちゅうくうに、確かな実体など見えなかった………けれど、白霧はくむ只中ただなかに浮かび上がった茫漠ぼうばくたる気配を、私の目はとして捉えたのだ──

〝あれ〟はヒトのカタチをしているんだ──と、このとき初めて認識した。

 そして──

「あっ──」

 叫び声。目の前のマリ子が、。叫んだのはマリ子か、もしかしたら私自身だったかもしれない。

──〝あれ〟がマリ子を突き飛ばしたんだ──

その時の私にも、今の私にも、そういう風にしか考えられなかった。吸った息を吐けないまま、永遠のような一瞬に脳天のうてんさぶられていた。

 直後、止まっていた時間が動き出したかのように、号泣ごうきゅうが響き渡る。おそるおそる声のした方をのぞくと、そこには階段から転げ落ちたマリ子がいた。けたひたいからどくどくと血を流して、痛みと恐怖と混乱とで、泣き叫んでいた。それを見て、私も怖くて泣いてしまったのだった。我が身の内にある感情が怖かった。身の外にある虚身きょしんが怖かった。目の前の惨状が怖かった。──けれど、その時の私にとって一番怖かったのは、『大人に怒られること』でしかなかったことも記憶している。これは私がやったんじゃない、〝あれ〟が勝手にやったんだ、だから私は悪くないんだ…と、無様に言い訳を並びたてながら、私は泣きじゃくっていた。

 でも大人たちは…いや、大怪我おおけがを負ったマリ子でさえ、私のせいだと責め立てることをしなかった。彼らにしてみれば当たり前の話である。もちろんあおった私にも責任はある。だけどマリ子の大怪我おおけがは、虚勢きょせいを張って霧の中へ飛び出し、前方不注意で階段から転げ落ちた、ただの事故だ。結果と状況証拠じょうきょうしょうこのどちらもが、それを証明している。霧に溶ける巨像など、誰の目にも映ってはいなかったのである。

『目の前で友だちがあんなことになって、つらかったね』

 大人たちは口をそろえてそう言った。不可視の何かがそこにいて、マリ子を突き飛ばした…なんて稚児ちご戯言されごと、誰も本気で取り合おうとはしない。見えないものを信じるなど、できはしないのだ──それが人間であると、私は覚えた。

 この一件以降、私は〝あれ〟のことを殊更ことさらに隠すようになっていった。私だけに見えるおおきなカラダ、私だけに操れるおおきなチカラ。誰かに教えてしまうには──あまりにもと。マリ子の件から幾月いくつきたないうちに、私の心理はみるみるじ曲がっていった。〝あれ〟が霧の中にしか現れないことや、私の自由意思によって制御できることをのも、この頃だ。…ただ霧にむせぶ〝あれ〟の大きさが、次第に増していくことには気づかないまま──。


 『自分だけの特権』。そんなものを持ってしまった子供が増長ぞうちょうするのは、火を見るより明らかだった。

 五年後、十歳の私は孤立していた。その頃にはもう両親は離婚し、母は私に対する興味を失っていたようだった。父なんて、もはや顔すら覚えていない。そしてその頃の私は、そんなグロテスクな家族関係を悲しいとすら思っていなかった。クラスメイトたちが夢中になっていたテレビも、ゲームも、マンガも、ポップスも、ロックも、私には全てが縁遠えんどおくて、無味無臭むみむしゅうで、欠片かけらも魅力を感じなかったことを思い出す。十歳の私が好きなモノ、それはだけだった。〝あれ〟の巨像を霧の中に見上げる事だけが、私を熱狂させた。その巨躯きょくが霧のビル街を横切るたびに、そのあしが私を馬鹿にしたクラスメイトをばすたびに、そのこぶしが私をおどかした上級生をなぐばすたびに…ああ、そして、その指先が私の指先と同じ動きをするそのたびに──私の虚栄心がおどり、〝あれ〟は大きくなっていく。見上げるたびに大きくなっていくうつろなカラダ──気付く頃には、〝あれ〟はもう、街で一番高いビルを見晴みはるかすほどになっていた。………私はその時の、あつくて、つめたい、ぞくりと走る感覚を忘れられないでいる。そして周りでは『ヒサギに近づくと事故にう』なんて噂が広まって、ほんとうに──私はひとりぼっちになっていた。

 稲守いなもり とおるに出会ったのは、その頃だった。




「キョエイシン」

 ひさぎの一言に、は思わずバランスを崩しそうになる。

「きょ…虚栄心がどうかしたの?」

 僕の脳裏のうりに苦い思い出がよみがえった…ヘンに格好つけて大失敗したり、ダメになった煙草たばこの煙で死ぬほどむせたりした、あの夏のこと。

「別に、どうもしないけど。ただアンタ…とおるにだけは、話してもいいかなって思っただけ。」

「なんだよ、急に改まって……まさか、また転校なんて言わない…よね?」

「それならもっと深刻そうに切り出してるっての…。まあそれにママ、今のアパートから動く気は当分ないらしいしね」

 楸が僕の腰をつかむ力を強める。少しくすぐったくて、またバランスを崩しかける。

「ちょ、ちょっと!しっかりいでよ!」

「後ろで暴れられたらバランス崩すって!」

 僕らは今、登りたくもないはずの坂道を自転車で登っていた。学校へ向かう坂道…ではあるけど、ここはメインの通学路ではない。それに今日の目的地は学校ではなかった。その先にあるさびれた公園が、今回の目的地だ。かれこれ五分はペダルをつづけているが、やっと校舎が見えたばかり。その先の公園に着くのには、まだまだ時間がかりそうだ。校舎に目をる──夏、またたきのに起きた崩壊ほうかい。その痕跡こんせきなんて何ひとつ残されずに、小綺麗こぎれい新品しんぴんの校舎が今も建てられている真っ最中だった。壊れたら作り直す、それは当たり前のことで、新しく丘の下に造ることなんて、土台どだい無理な話だ──未来は過去の上にしかきずかれない。僕らの世界は、せまかった。

「──なら、もう一回壊しておこうか」

 うしろの楸がとんでもない事を口走る。

「繰りかえし繰りかえし、何度も何度も壊せば……そのうち丘の下に移るかもよ?」

「無駄だと思うけど……丘の下はスーパーの駐車場だし。市だか県だかのヘンピな財政じゃ、そんな地所ちしょは買い取れないと思うよ。…今まさに誰かさんがぶっ壊した校舎を再建してる真っ只中ただなかなわけだし、なおさら」

「ふーん…つまんないの」

 楸の声色に、諦観ていかんと退屈が溶けていた。

 しばらくのあいだ(僕が一人で!)必死にペダルをいで、ようやく坂の上の公園についた。

「ほら。私の言った通り、この道なら誰にも見つからなかったでしょ?」

 そのおかげで、僕が二人分の重さの自転車をがなきゃいけなかったんだけどね…と返してやりたかったが、息をするのに精一杯で何も言い返せない。二人乗りなんかして事故ったらバカみたいだし、僕は歩いて行きたかったのに…。そんな僕の懊悩おうのうつゆとも気にせず、楸はといえば、公園のはしにある展望台へ軽やかに歩いていった。そこは普段──とくに春先から夏にかけての時期は、鬱蒼うっそう繁茂はんもする雑木林ぞうきばやしのせいで見通しが悪く、展望台なんて名前だけの、むさくるしい東屋あずまやでしかない。しかし真冬──草も木もねむるこの厳冬期げんとうきだけは、〝展望台〟の面目躍如めんもくやくじょだった。もっともそれは、冬の寒風をさえぎるものがないということでもあり、結局この公園から人気ひとけを遠ざける原因のひとつになっているワケだが。今日も今日とて快晴で、かわききった冷たい風が寒々しく吹き渡っている。……まあ、楸と一緒にいる時は、絶対に晴れててほしいけど。

「……」

 楸はただだまって、遠くを見ていた。

 今日ここへ来たのは楸にさそわれたからだ。ほとんど強制連行きょうせいれんこうだったような気もするけど……僕は僕でそれに応えたのは、まぎれもない事実だ。僕も楸の横に立って、遠くを見る。普段は大気のちりにかすんでぞうさないような、はるか遠くの煙突えんとつまで見える。工場地帯かな?それと、海。その向こうには隣県りんけんにある半島の輪郭まで、うっすらと見える。地図の答え合わせをしているみたいで、ちょっと楽しい。

「あれ、千葉?」

「…たぶん千葉、房総ぼうそう半島」

「見えるんだ、何十キロも離れてるのに」

「間には海しかないからね」

「………」

 無性に何かを話したくなって、めのない話が口をいて出る。

「……源頼朝みなもとのよりとも平氏へいしに負けて、房総ぼうそう半島までびたとき…」

「ちょ、いきなり何?日本史の勝俣カツマタの受け売り?」

「いや…僕の父さんから聞いた話」

「歴史わかんないよ、私」

 楸は笑っていたけど、聞く耳は持ってくれたようだった。

「頼朝は真鶴まなづるから船出して、房総半島まで行ったんだって」

「房総って、千葉なんだよね?」

「そう、千葉まで。こうして僕自身の目で見て思うのは…頼朝はからんだと思う。もちろん、頼朝が人類ではじめてその海上ルートを使ったわけでもないし、房総まで行ったのもちゃんと理由はあったと思うけどさ…自分の目で見た陸地を目指すのと、人から聞いただけの陸地を目指すのとじゃワケがちがう…と思わない?」

「…ふーん、急にヨリトモ気取るじゃん。笑える」

「い、いやそんなんじゃないけどさ!」

「じゃあ私が今日、ここに来た理由も…だいたいそんな感じなのかもね」

「え?」

 楸が姿勢を変えて、手すりにもたれ掛かった。




 とおるが初めて出会ったのは、実のところ小学校の入学式だったらしい。私はまったく覚えてなかったけど、アイツ本人から聞いた。なんでも、融が入学式用の名札をくして泣きそうになっていたところに、たまたまそれをひろっていた私が、届けに来てくれたのだという。

『…だから、僕は楸のことが……好きなんだよ』

 あの夏、虚栄心キョエイシンを吹き飛ばしたあと、アイツは恥ずかしげもなくのたまった…いや実際にはの鳴くようなかぼそい声で、顔を真っ赤にして恥ずかしそうにしてきたのだけど。恥ずかしげもなく、よくもそんな、と怒ろうとしたけれど………私は…なんだか一人で張りつめていたのがバカらしくなって、心の底から笑いころげた。そういえば、融はこういうヤツだったって。

「…だいたいそんな感じ…って?」

姿勢を変えた私の顔を、融が覗き込んでくる。

「ずっと霧ばっかり見上げてたからかな、時々心配になるんだ」

「それって…」

融は私の虚栄心キョエイシンの話に対して、すこしばかり過敏かびんに反応する節があった。知りたいけど、知りたくない…でもやっぱり知りたい、そんな感じだ。

「私が霧の中に見上げる〝あれ〟…虚栄心キョエイシンはさ、駅ビルより大きいの」

「…まあ、三十メートルくらいはあった…ように見えたね」

虚栄心キョエイシンが、このままどんどん大きくなって、際限さいげんも、果てもなく…ついに地球より大きくなっちゃったらさ──どうなるんだろうね?」

「…………そんなこと…」

「…私はまだ、あの虚栄心キョエイシンだと認識できてて、私の意志で制御できてる。でも、もっと大きくなったら?この星より大きくなったら?思い出してみてよ、虚栄心キョエイシンのパンチでえぐられた地面のこと。つぶされた校舎のこと。もし〝あれ〟が一万二千キロメートルを超えて大きくなっていくなら、そのとき、えぐられるのは地面で済む?つぶれるのは校舎で済む?あのときは傷付けずに済んだアンタを、今度は──殺さずにいられる?」

「……そんなこと!」

「…まあ落ち着きなって。そうならないように、こうしてココに来てるんだから」

アイツは絶句ぜっくしたまま、キョトンとした顔になった。そうそう。やっぱり融は、そういう顔してくれなきゃね。




 重苦おもくるしい雰囲気から一転いってん、楸はいつもの──すこしだけ意地いじの悪い──笑みを浮かべながら、の前で両の腕をめいっぱいに広げた。

「ほら!」

叫ぶほどに大きな声で呼びかけて、はるかに広がる遠景えんけいゆびでなぞる

「ここから房総半島まで何メートルかな!」

「真鶴までは?沖縄もいいかも!北海道は!?その次はアメリカ?中国?えーっと、イギリスでも!アフリカでもいいや!遠くなら、どこだって!」

「私にも、私の虚栄心キョエイシンにも届きっこない、遥か彼方──外にも世界があって、そこは途轍もなく大きいんだって、ここでこうして!」

「──それが今日、ここに来た理由だよ」

えた北風が、僕の頬をたたいた。そうか、が思っているよりも、の世界は広いのかもしれない。すくなくとも──楸と一緒にれば、僕にも──そう思うことができるんだ。そう、気付いた。


 ──視界のはしで走り出した人影に気付いたのは、その時だった。ひどくイヤな予感がして、僕は咄嗟とっさに楸の前へ出る。人影──僕らと同じ高校の制服を着たその女子生徒が、つんのめって僕に激突する。

 何か、おかしい。…直後、僕は腹部に悪寒おかんを覚える。視線を落とす──

そこには、ナイフがさっていた。あれ──こんなに深くさっても、意外いがいと痛くないもんだな。現実感がないまま、間抜けな感想が頭の中いっぱいにけ出して、落とした視線をげようとして、げられずにそのまま──僕の世界は、奈落ならくへ落ちていった。




 ──二人乗りの自転車を追いかけて辿り着いた公園で。が、楽しそうに笑っていた。が、見たこともない表情を浮かべていた。だから──

は、気付いたら走り出していた。手に、なけなしの敵愾心テキガイシンを握りしめて。




 ──走り出す人影に、は気付かなかった。だから、きっと私に突き立てられるべきその復讐心ふくしゅうしんが、目の前でに刺さる様を、見ているコトしかできなかった。

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