戻ってきた恋人

春風秋雄

夜中に別れた恋人がやってきた

また美香が俺の部屋にやって来た。日付がもうすぐ変わろうとする夜中にだ。美香は2年前に別れた恋人だ。いや、恋人と言えるかどうかは微妙だ。しかし、一緒に暮らしていた事実から言えば恋人と言っても良いだろう。別れたあとも、突然インターフォンを鳴らし、同棲中の彼と喧嘩したと言っては「泊めてくれ」とやってくる。これで4回目だ。


俺は松岡省吾。32歳。弁護士を目指し、今はアルバイトをしながら勉強をしている。しかし予備試験をすでに3回落ちている。司法試験は、法科大学院(ロースクール)を修了するか、予備試験に合格して受験資格を得なければ、受験することができない。ロースクールに通う経済的な余裕がないので、俺は予備試験を目指していた。しかし、予備試験がなかなか合格できない。大学を卒業してからのブランクがあるのと、アルバイトをしながらなので、思うように勉強時間がとれないのが要因だ。予備試験にこれだけ苦労しているようなら、司法試験は到底無理だ。次に落ちたら、そろそろ潮時かなと考えている。

俺は大学を卒業して、大手の広告代理店に就職した。そこで出会った中里麻美という女性と恋におち、婚約した。しかし、俺は、弁護士になるという子供のころからの夢がどうしても捨てきれず、麻美に結婚は2年待ってくれと言って会社をやめた。麻美は俺の夢を応援してくれると言ってくれたが、麻美の両親は激怒した。麻美も両親に押し切られる格好で、婚約は破棄となり、麻美とは別れた。本当に麻美のことが好きだったのでショックだった。自暴自棄になりかけていた。そんな時に5年ぶりに栗林美香と偶然再会した。美香は学部は違うが同じ大学で、大学内の飲み会でよく顔を合わせていた。懐かしさから二人で飲みにいき、俺の愚痴を聞いてもらった。しこたま飲んだあと、酔いに任せて美香を俺の部屋に泊めてしまった。それ以来、美香は俺の部屋に住み着いた。「付き合おう」とか、そういう確認をしたこともなく、お互い「好き」という言葉すらも投げかけたことはなかった。ただ、美香は俺の夢を応援してくれた。美香は働いているので生活費も入れてくれる。おかげで俺は1日4時間程度のアルバイトを週に4日するだけで生活できた。おまけに性欲まで満たしてくれる。俺としては、これ以上ない都合の良い女だった。


美香と暮らすようになって、2年くらいしたとき、麻美から連絡があった。

「あれから2年が過ぎた。もう夢を諦めて、再就職してくれないか。そしてもう一度やり直したい」

という復縁の話だった。俺は迷った。心の中で「司法試験はもう無理かもしれない」と思いはじめていたときだったので、なおさらだった。電話があったとき、横に美香がいた。だいたいの話の内容は察したのかもしれない。それから1ヶ月くらいしてから

「ごめん、他の男と暮らすことになった」

と言って、美香はいきなり俺の部屋を出て行った。正式に付き合ったわけでもなく、将来を約束したわけでもないので、他に男ができたと言われたら俺に引き止める術はなかった。

ところが、半年も経たないうちに、男と喧嘩したと言って俺の部屋を訪ねてきた。そして2日ほどいて、またいなくなる。そんなことが過去3回あって、今日で4回目だった。


「ねえ、聞いてよ。あいつ浮気してたんだよ。同棲している男が浮気した場合って、慰謝料とれないの?」

「慰謝料がとれるのは、婚姻関係にあるか、婚約している場合で、同棲しているというだけでは慰謝料はとれないよ」

「そうなんだ。婚約って、結納とかしてないとダメということ?」

「結納が交されていれば完璧だけど、結納が交されていなくても、婚約指輪をもらったとか、結婚式場を予約したとか、そういう事実があれば婚約とみなされるね。もっと言えば、両親に結婚すると挨拶に行ったり、友人関係に婚約者として紹介しているというだけで婚約とみなされるケースもあるけどね」

「そっかあ。じゃあ私の場合は諦めるしかないか」

「それで、またここに泊まるの?」

「だって、行くとこないんだから、しかたないじゃない」

以前泊まりにきたときは、暖かい時季だったので、俺は毛布をかぶって床で寝た。しかし冬のこの時季はそうもいかない。

「ここに予備の布団がないのは知ってるだろ?」

「大きなベッドがあるから充分じゃない。実際、前はそのベッドで二人寝てたんだから」

今あるベッドは美香がいるときに買い換えたダブルベッドだった。

「そんなこと言ったって、一緒の布団に寝るのはまずいだろ?」

「なんで?今さら照れることないでしょ?」

「そんなことではなくて、美香には彼氏がいるんでしょ?」

「向こうも浮気しているようなやつなんだから、気にする必要はないよ」

そう言って美香はまったく意に介さない。俺が嫌がっているのは、女日照が続いている状態で美香と同衾すると、自制がきかなくなりそうで怖いからだ。過去3回も同じ部屋で寝るというだけで妙な気持ちになり苦労した。何とか自制をきかせて、何もなく送り出したが、本当にギリギリのところだった。それが同じ布団で寝るとなると、どうなることなのか、自信がなかった。

勝手知ったる美香は、パジャマ代わりにするため、タンスの引き出しから俺のTシャツを引っ張り出し、浴室へ行った。風呂からあがった美香は俺のTシャツを着て出てきた。美香が着るとミニのワンピースのようだ。美香は寝るときにブラジャーは着けないので、今もTシャツの下はノーブラなのだろう。俺はなるべく美香を見ないようにした。

「まだ勉強するの?明日のバイトは?」

「明日のバイトは9時から。今日はもう寝ようと思っていた。美香は明日仕事?」

「明日は土曜日だから休みだよ」

「そうか、明日は土曜だったな。だったら、朝俺と一緒に部屋を出てくれる?8時半頃に出る予定だけど」

「明日はゆっくり寝たいから、悪いけど、合鍵置いといて。鍵はポストに入れておくから」

美香は休みの日はいつも昼近くまで寝ている。しかたないので、合鍵を出してテーブルの上に置いた。

ベッドに入ってすぐに美香が聞いてきた。

「今年は予備試験合格しそう?」

「どうかな。短答式と論文は今年も合格したけど、口述がねえ。昨年も一昨年も不合格だったから自信ないな。筆記は大丈夫だけど、あがり症だから、口述はいくら勉強していても、なんか手ごたえがないんだ。今年もだめかもしれない」

「ふーん、そうなんだ。」

美香はそう言ってから、少し間を空けて、聞きにくそうに言った。

「麻美さんとはどうなったの?」

一瞬俺は返答に窮したが、正直なことを答えた。

「どうにもなってないよ。半年に1回くらい連絡があるけど、向こうは俺が再就職することが条件のようなことを言っているし、俺は今年の試験のことしか今は考えてないから」

美香は「そうなんだ」と言ったきり、上を向いて考え事をしている。俺はそろそろ寝ようと思い、美香に背を向けた。すると、美香がこちらを向いて背中から抱き着いてきた。

「ねえ、してもいいんだよ」

「だめだよ。彼氏がいるんでしょ?」

「なんで?婚約してなければ慰謝料をとられることはないんでしょ?」

美香はそういって、背中に柔らかい胸を押し付けてくる。美香の手は俺の下半身に向かおうとしていた。

「そういう法律的な問題ではなくて、道義的な問題で俺自身が嫌なの」

「じゃあ、彼氏と別れたらいいの?」

それに対して俺は、頭の中を色々な考えが巡って、何も返事ができなかった。

その反応を察知して、美香の手が止まった。

「麻美さんのことがあるから、他の女とはしたくないんだ?」

「いや、それは違う!それは関係ない!」

思わず俺は、美香の方を向いて語気を強めて言ってしまった。驚いたように俺を見る美香の顔をみて、我に返り、

「もう寝るから」

と言って、再び背を向けた。それきり美香は何も言わなかった。

翌朝、出かける準備が終わり、部屋を出るとき、もう一度美香の寝顔をのぞいた。部屋の鍵をガチャっと閉めたとき、もうあの寝顔を見ることもないかもしれないなと思ったら、何故か胸が締め付けられるような気がした。


夕方アルバイトから帰ると、美香の姿はなかった。彼氏のもとへ帰ったのだろう。合鍵は律儀にドアのポストに入れてあった。俺は、ホッとするのと同時に、寂しさがこみ上げてきた。過去3回もそうだった。美香が帰って、誰もいない部屋に入ると、寂しさがこみ上げていた。麻美と別れたときとは、異なる感情だった。


予備試験の口述試験の合否の結果が出た。今年もダメだった。俺は洋服ダンスからスーツを取りだし、再就職のための面接に向かった。

何社か面接をして、それほど大きくないが安定した業績のある不動産会社に内定をもらった。学歴と法律知識をかってくれたようだ。

新しい会社で働き始めて、1週間ほどした週末に、再び美香がやってきた。俺は素直に部屋へあげた。美香は入ってくるなり、ハンガーラックに吊るしてあるスーツを見て、

「どうしたの?スーツなんか出して」

と聞いてきた。

「就職した。不動産会社だけど、法律知識を生かせるし、けっこうやりがいがある仕事」

「司法試験は?」

「今年も予備試験だめだったから、もう潮時だと思う」

美香は、じっと俺を見ていた。

俺はその視線に耐え切れず、苦笑いをして、

「もう若くないし、やるだけのことはやったから、後悔はないよ」

と言った。

美香は、「そうか」と言ったまま暗い顔をした。

「それより、どうしたの?また彼氏と喧嘩した?」

「うん、そんなとこ。それより、就職祝いしようか。私コンビニで何か買ってくる」

美香はそう言って、外へ飛び出した。


その日、美香はいつもよりピッチが早く、かなり酔っていた。うとうとしかけた美香を見て、しかたなく抱きかかえ、ベッドに運ぶ。美香を抱き上げるのは何年ぶりだろう。こんなに軽かったのかと、少し驚いた。

テーブルの上を片づけ、俺もベッドに入って、いつものように美香に背中を向けて寝ようとすると、美香が話しかけてきた。

「就職したことは麻美さんに伝えたの?」

「うん、伝えた」

「喜んでいたでしょ?」

「まあ、それなりに」

「じゃあ、麻美さんと結婚するんだ」

俺は返事をせず、黙り込んだ。

「結婚しないの?麻美さんは省吾が就職したらヨリを戻すと言ってくれてたんでしょ?」

「そうしようとは言われた」

「だったら問題ないじゃない。そうか、省吾もやっと結婚かあ」

「断った」

「え?何を?」

「ヨリは戻さないと、断った」

「何でよ?あれだけ好きだったのに、どうして断るのよ?」

「俺、他に好きな人がいるから、そんな気持ちで結婚なんかできないと断った」

「何それ?いつの間にそんな人ができたの?」

「いつの間なんだろうね。いつの間にか、俺の中でその人は大きな存在になっていた」

「信じられない!司法試験に集中すると言ってたのに!それで、その人と結婚するつもり?」

美香は本気で怒っていた。

「いや、結婚はできない。その人は他の男と暮らしている」

「はあ?何それ?」

俺は、美香の方に向き直り、思わず言ってしまった。

「美香のことだよ」

美香は何を言われたのかわからないようで、口をあけたまま黙り込んだ。

「いまさら遅いかもしれないけど。美香がいなくなって、俺は美香のことが好きだったんだって気づいた」

美香はまばたきもせず、じっと俺を見ている。

「でも美香には、彼氏がいて幸せそうだし、かき乱すようなことはしたくないから、本当は言わないつもりだったんだけど、つい言ってしまった。ごめん」

美香の目が潤んできた。

「いないよ。そんなの」

こんどは俺が何を言われたのかわからず、「え?」という顔をしていると、叩き込むように美香がわめいた。

「そんな男、いるわけないじゃない!ずっと省吾のことが好きだったんだから、他に男なんかつくるわけないじゃない!」

「じゃあ、今どこに住んでるの?」

「一人でアパート借りて住んでるよ」

「喧嘩したとか、浮気してたってのは?」

「全部うそ。ここに来る口実」

「うそだったんだ」

「最初はこのマンションの下まで来て、部屋の明かりがついているのを見るだけでよかった。元気でいるんだなと思って、そのまま帰ってた。ここを出てから、もう省吾には会わないつもりだったから。でも、そのうち、どうしても、どうしても顔が見たくなって、省吾がコンビニとかに行かないかな、そうしたら顔だけ見て帰ろうって思って。でも待っても、待っても、全然出てこないし、しかたないからそのまま帰ろうと思ってたのに、気がついたら呼び鈴鳴らしてて、インターフォンで省吾の声聞いたら思わず嘘をついてた」

「そうだったんだ」

「でも、省吾が偶然コンビニへ行くのを見かけたときとかは、そのまま帰ったし、全然顔見れなかったときでも、そのまま帰ったことも何回もあるんだよ。嘘ついて部屋に入れてもらった時は、自分でもどうしようもなく気持ちを抑えられなかったときだけ」

「じゃあ、何で戻ってこなかったんだよ」

「だって、私がここにいたら、省吾が困ると思ったから。司法試験に合格しても、あきらめて再就職しても、麻美さんと結婚するんだから、その時に私がここにいたら省吾を困らせるだけだから」

美香は泣きながらそう言って俺の胸に顔をうずめた。

俺は、きつく、きつく美香を抱きしめながら耳元で言った。

「つらい思いさせて、ごめんな」

美香が顔をあげてキスしてきた。美香の唇はとても熱かった。


久しぶりに美香の中へ、深く、深く、体を沈めた。美香はむさぼるように、俺の唇を求め続けた。

唇を離し、俺は美香の目を見て言った。

「結婚しよう」

ずっと泣きっぱなしで、赤く腫れた美香の目元から、新たなしずくが、ポロリとおちた。

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