第5話 業歪(わざわい)

 銀化したままのレドは北へ向けて山を駆けたものの、限界を超えて動き続けた体はシュヴァンレードの力を持ってしても支えきれぬほど弱り、山中の獣の集会場と思われる場所でレドは倒れ込む。仮面の意思に関わりなく元の姿に還り、意識を失ったレドは彼がいくら呼びかけようとも返事をしない。命の火が消えかけている。


(何と無力なのか……私は!)


 生気の消えかけた主の顔を覆い隠す仮面は悔しさを隠さない。いかなる時も護ると誓ったのに、このような形で終わりを迎えるなどとは到底受け入られない。しかし彼にはもう手の施しようがない。

 だが、その時何者かがこの場所へと歩いてくるのを感知する。誰かは分からないがこの際贅沢は言っていられない。相手がこちらに気づいてくれることを祈り、それは叶った。

 現れたのは猟師と思しき年老いた男。長らく人と交わっていないと感じさせる顔に、かすかな驚きが浮かぶ。しかし近づいてレドが生きていると知った猟師は、何も言わずに付近の枯れ枝を集めて火を起こすとしばらくその場を離れる。

 戻ってきたとき、彼の手には水袋と穀物の粉で作ったと思しき焼き菓子を携えていた。付き合いのある商人でもいるのだろうかと仮面は考える。敬愛する主君の世話を見ず知らずの他人に委ねるという状況が何とも歯がゆく感じられるが、これも自分の業なのかもしれないと仮面は思う。

 と、そこで猟師がコツンと仮面を指で弾く。何事かとシュヴァンレードが意識を向けるが、猟師はそれ以上何も言わずにそれまでしていた火の番に戻る。レドの気付けにしては威力が弱すぎるし、体に手を出すにしては消極的すぎる。狐につままれたような思いを抱くが、猟師が仮面の思いに気づくはずもない。

 それからしばらく、静かな時間が過ぎていく。猟師はたまにレドの体の姿勢を変えたり、少し温めた水を口に含ませるが彼女は一向に目を覚まさない。

 特に危険を感じるようなこともなく、やることのないシュヴァンレードは、ふと耳元に意識を向ける。

 あの忌々しい邪念は言っていた、レドと自分が永遠に離れられないように穢れを与えたと。あの時に気付けなかったその意味を彼が理解するのに時間はいらなかった。

 穿うがたれた耳元の部分を中心に、レドの顔と仮面が融けて境目が分からなくなっている。それまで意識していなかった風の音や野鳥の声が無機質な仮面であるはずの彼にもくっきり聞こえるようになっていた。しかも、同化は今も焦れったいほど緩慢に進みつつあるのが分かる。


(私としたことが、何という失態だ……!)


 死しても償いきれぬほどの重罪と言っても過言ではなかった。これほど重い呪いを受けていながら今の今まで気づけなかったのもそうだが、それを操る危険な相手を即座に討ち果たせなかったのが何よりも悔やまれる。数多の戦いを経てきた彼ですらこれほどの危険を感じる相手と出会ったことはない。

 悪霊と言うのすら生温い。あれは紛れもなく業歪わざわいである。ただそこにいるだけで在り方を歪ませる、忌避すべきもの。

 そう考えてみれば、その業歪を前にしながら長く持ちこたえ、遂には直接の実力行使に及ばせたナヴィードとレダの愛は紛れもなく本物であったのだと分かる。歪みの只中にありながらお互いを捨てず、最後まで抗おうとしたのだ。ナヴィードを屈服させられなかった業歪がレダの存在を気に入らなかったのも頷ける。

 悔恨に身を焦がす仮面をまた猟師が軽く揺らす。今度は明確にレドを起こそうとする動きであるのが伝わるが、その動きで仮面は我を取り戻す。

 彼女は彼に名を授けたのだ。レドの護り、シュヴァンレードと。あらゆる悪意や歪みからレドを護ることがその使命。その重みを改めて噛み締め、悔しさをこらえながら彼はしばし意識を閉ざす。あの業歪と戦うためには、確かな力を蓄えねばならない。

 ぱちぱちと火の粉が舞う音と、静かに佇む猟師に見守られて仮面の女は寝息すら立てないほどの深い眠りに身を委ねたまま動かない。重い呪いを受けた仮面の下の顔には、しかし何かに安心したような微かな安らぎが浮かんでいた。

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