第3話 傾国
同じ頃、主無き城は混乱の只中にあった。順調にいけば領主夫妻を殺害した犯人の処刑をした上で次の領主を迎え入れる予定であっただけに、罪人が悪魔に取り憑かれてそのまま脱走したなどと次期領主に言えるはずもない。
とにかく悪魔を捕らえて今度こそ確実に殺さねばならないと話がまとまり慌てて準備を始める。そんな中、城に残った女官たちを取りまとめるシルヴィーヌは呆然としていた。
一体何が起きたというのか。彼女の知るレダ(今はレドであるが)は聡明で気高く、悪魔などに魂を売る人間では断じてない。そもそも本来彼女は罪人ですらない。
レダが前の領主であるナヴィード・ファダ・ドゥーリッドに嫁いだのは五年前のことである。近隣の諸国にも名を知られる家の生まれで、気立ての良い娘として早くから引く手数多であったが選ばれたのはナヴィードであった。
結婚後は仲睦まじく暮らしつつ、領主である夫を支え領民を愛し、城内の官僚や武人、末端の兵士や下々の民に至るまでが彼女を敬愛していて、子供に恵まれぬことを除けば彼女を嫌うものなどほとんどいなかったと言って良い。だが一年前、一人の女が現れる。そこから全ては狂っていった。
己をレド・ファーマと名乗るその女は、世継ぎがいないことを気にしていたナヴィードに近付く。レダは得体の知れないレドを最初から警戒していたが、自身に子供がいればという負い目もあってけん制することしか出来ずにいた。ナヴィードは次第にレドに傾倒し政務も怠りがちとなっていく。
そして、三ヶ月前の夜に起きた出来事が全てを破局へと追いやる。
そのことを考えるだけでシルヴィーヌは気が遠くなっていった。
森の中で一息ついたレドであったが、数十日に及ぶ牢暮らしで、すっかり衰弱していて体を満足に動かすことすら出来なかった。シュヴァンレードの力を借りてどうにか獣を狩り、火を起こして肉を焼いて食べ、小川の水を飲み干して静養に努める。
「申し訳ないわシュヴァンレード。早速あなたに頼ってばかりで……」
(いえ、貴女が生きようとしてくれていることが何にも代えがたい私の喜びですから)
仮面の下の彼女を励ますシュヴァンレード。張り詰めていた気持ちが和らいだ反面、気持ちで支えていた体のほうは風前の灯と言っても過言ではなかった。あの時に発現した銀化の力は彼が使いたいと思えば任意で用いることが可能だとすぐに判ったものの、肝心のレドの体が弱っていては意味がない。必要最小限の動きで狩りを行い水を汲んで彼女を補助していた。
(しばらくはここで英気を養うべきです。その後のことはその時に考えましょう)
「そうね……レドである私には行くべき場所さえもわからないけれど」
(……事情がお有りのようですね)
シュヴァンレードはあえてそれに触れる。聞こうが聞くまいが彼の忠誠にはいささかの揺らぎもないが、彼女が本来の名を捨ててまで己を処断しようとしたのが何故なのか、可能であれば知りたかった。
「つまらない話よ……私はただ負けただけ」
レドは寂しげに笑う。既に悔恨することすら過ぎてしまったようにも感じられる声で。
レドが現れてからというもの、次第にナヴィードから遠ざけられるようになったレダであったが、それでも甲斐甲斐しく遊び呆ける夫の世話をし、滞る政務を代行して暮らしていた。レドのことを憎む気持ちも当然あったが、そんな内輪揉めにかまけて統治を怠り下々の民を苦しみに追いやることなど彼女に出来るはずもない。
唯一救いであったのは、そんな中でもナヴィードがレダのことを
三ヶ月前の夜のこと。遂にレドのことが我慢できなくなったレダは、覚悟を決めて近付くなと言われて久しい夫の寝室へと足を伸ばす。このままレドを放置していては領地が衰える一方である。最悪刺し違えても彼女を退けなければと護身用の短剣を腰帯に忍ばせ、中々着る機会のなかった夜伽の衣で身を包む。その日もレドが部屋に呼ばれているのは暗黙の了解となっていたがあえて嘘をつき、自分も呼ばれたと称してレダは護衛の兵を下がらせる。
しかしレダは異変に気付く。部屋の近くまで近付いても物音一つ聞こえてこない。二人が営みに勤しんでいるのならば声くらいは聞こえてきてもいい。あまりに静かすぎる。
嫌な予感が走り、忍ぶのも忘れ部屋に飛び込むとそこにあったのは胸に短剣を突き立てられて息絶えたナヴィードの亡骸と干からびた女の死体だった。
(……その後の始末は?)
「干からびた死体がレドだというのが一致した見解だったけれど、何故干からびていたのかが誰にも分からなかったし、何よりそうだとして彼女が何故ナヴィを殺したのか、その理由を誰も推測できなかったのよ。殺されるのなら私の方だと自分でも思うもの」
レダであったレドは自嘲気味に語る。状況が不明瞭であったことに加えてレダが嘘をついて中に入ったことと腰に短剣を忍ばせていたことも不利に働き、レダを責める声が次第に大勢を占めるようになる。彼女自身レドに対する殺意を抑え切れずに強硬手段に出ようとしたのは間違いないし、そもそもこうなる前にレドを排除できなかった己の責任を痛感していたこともあり、周囲を納得させるためにある提案を行った。自身がレドになりすまし、レダとナヴィードを殺して狂ったところを取り押さえられたという話をでっち上げて事態の収拾を図ろうとしたのである。
(……そのような小細工を弄さずともあなたなら領地を支えられたはずでは?)
「僅かな間はね。しかし世継ぎがいるのでもなければドゥーリッド家の血筋でもない私では遠からず限界が来る。何よりも私の生きる支えだったナヴィがいなくなって、私の意欲はほとんど消えかけていた。だから、これ以上の混乱の種を生まないように、私は自分を処断させることで領地と領民を守ろうとしたの……」
苦しそうに乾いた笑いを浮かべる彼女に、それを包み込む仮面は厳しい一言を投げかける。
(……ナヴィード殿がそんなことを望んでいたとでも仰られるのか、貴女は)
「……シュヴァンレード?」
顔を上げる。そして仮面に手をやる。冷たい鋼の感触に変わりはないはずだが、彼女はそこに烈火のごとき熱を感じる。
(……私はナヴィード殿を知りませぬ。しかし、いかに世の安寧のためとはいえ貴女に死ねと命ずるような暗愚な男でありましたのか?)
「……何を言うの! そんな訳がありません!」
(ならば己を殺すようなことは二度と口になさらぬように。仰っていたではありませんか。ナヴィード殿も思うところがあって貴女を側に置き続けたのだと)
仮面の下の女は言葉に詰まる。そう思い続けたからこそ、最後の最後まで彼を支え続けようとし、彼も最後まで彼女を除こうとしなかった。いかなる事情があろうと彼女にとってそのことだけは確かな事実である。それなのに自分はその想いを忘れて後を追うことだけを考えてしまっていた。よくよく考えれば、それこそレドに屈したことになりはしないのか。最愛の夫と共に逝った女が妬ましくて、自分も後を追おうなどと浅はかな考えが頭をよぎったのではなかったのか。
いつの間にか妄想に囚われ自分を見失っていたことに気づき、彼女は震え涙を流そうとしてそれを懸命にこらえる。今の彼女はもうレダではない。自ら憎き仇の名を背負った哀れな仮面の女レドに過ぎないのだから。レドはレダのために涙を流す女ではない。
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