3/3 秘密と忘却

秘密と忘却

 スマートフォンのアラームが鳴る。いつの間にか、この寒い冬の空が明るみ始める時間になっていた。俺は今日も眠ることができなかった。夜中じゅう机の木目と汚れを見ていた眼は不思議と疲れを訴えていない、いや、眼と比較できないほど体全体が疲れている。デスクワークに最適で人間工学に基づいているというデスクチェアにゆっくりともたれかかると、グググ、と不本意だとでも言うようにきしむ音を立てながら、背もたれが安楽椅子のごとく揺れながら俺を受け止めた。

 余計なことを考えすぎてしまわない分、ベッドに入るよりこうしている方が幾分かマシだった。席を立つのは一日に二、三回の小便と、空きもしない腹に無理やりゼリー飲料を流し込むために冷蔵庫まで行く時だけで、それ以外の時間はこうして椅子の上でただ、机の木目をなぞるか、もしくはカーテンの上から抜けて天井にゆらゆらと映る外からの光を眺めていた。俺にとって彼女は、そこまで大きい存在ではなかったはずだ。だが彼女の死は確実に俺から何かを奪っていった。恐らく彼女にとっても俺は友人の一人のつもりだっただろう。だがその真偽を確かめる術は、もう無い。


 彼女の名は水上といった。知り合ったきっかけはよく覚えていないが、インターネットで出会った女だ。カフェ巡りが好きな大学生一年生(俺と同い年だった)で、やや落ち着いた外見と人当たりの良さを持っていた。特にインターネットに対してリテラシーなどというものも持ち合わせていない俺たちは、住んでいた場所が近かったことも幸いし、単に友達が増えた感覚で、二か月に一回は会って遊ぶような関係になった。二人で遊ぶこともあったが、半分以上はもう一人か二人の共通の友人(つまり、インターネット上の同じ界隈の人間だ)も交えて遊んでいた。

 状況が変わったのはその関係が一年ほど続いた頃、今から二年半前のことだ。水上は、よく俺も交えて遊んでいた男の一人と付き合い始めた。界隈に女性が少なかったこともあり、タイムラインに不穏な投稿が流れることが増え、その中で水上とその交際相手の投稿だけが幸せであるかのように見えた。俺はなんだかバカバカしくなってアカウントを消した。

 ただ、水上とたまに遊ぶ関係だけは続いていた。他の男を呼ばない分、必然的に俺と水上は二人で会っていたが、水上は女友達と遊んでくると言って出てきているようだった。実際のところ俺が水上と寝たことは一回たりともなかったが、やはり気まずいものがあったのだろう。ただ、最初は三、四か月に一回程度だった会う頻度も、お互いに会って話すことが無くなってくるとその頻度もだんだん下がっていった。最後に会ったのは……今年の夏の終わり、ちょうど水上が自殺する一か月前だった。


 半年以上ぶりに会った水上の様子は明らかにおかしかった。いつものような明るさはどこにもなく、言葉端を濁すような喋り方だったのを覚えている。その日は珍しく二軒目まで飲みに行った。二軒目で二杯目を注文して待つ間、ふと彼女が喋り出した。自分がをしている、私は狂ってしまったのかも、いや、あの子を狂わせてしまったのかもしれない、と。肝心なことは何一つ聞くことができなかったが、うっすらとわかったのは、その時付き合っていた彼氏との間で性的に倒錯した関係になってしまっているということだった。

 あの同じ界隈にいた男との関係は一年もせずに終わり、それからまた新しい彼氏ができたことは聞いていたが、その彼氏との間の関係について聞くのは初めてだった。どうにかしたいとは考えているようだったが、その答えを見つけ出せずにいたのではないかと思う。今からすれば、俺が手を差し伸べるべきだったのかもしれない。笑って流したなどということはないが、少なくともあの時、俺が彼女のために何かをしただとか、アドバイスを言ったような記憶はない。俺はただ、彼女の話を聞いているだけだった……。


 一週間前、水上と久しぶりに遊ぼうと思った俺は、彼女をラインを送った。ラインから返ってきたのは、彼女の母親からのメッセージだった。水上は秋の終わりに亡くなっていた。自分の部屋で首を吊っていたのだという。死体のそばには、ただ「悪いのは私だった」とだけ書かれた紙が添えられていた。

 俺へのラインを返すことができる立場にある母親は、水上と付き合っていた男との関係も既にすべて知っていたのだろうが、そのことに関して水上の母親は何も言わなかった。生前、仲良くしてくれてありがとう、と母親は感謝を述べて、それからラインが送られてくることはなかった。

 この一週間のあいだ、俺は水上が亡くなったことを受け止められずにいた。身体が睡眠を必要としたときは勝手に意識が飛んだ。もはやベッドに入ることすら無くなった。ただ、椅子に座ったまま、すべての時間を過ごしていた。


 気がつけば窓の外が暗くなり始めていた。椅子に座ったまま、無地のカーテンで覆われた窓のほうを見る。今日もこの部屋から一歩も出ることができなかった。ひとつ、ため息をつくと、まるでそれが合図だったかのようにベランダにコツ、コツ、と何かが当たる音が聞こえてきた。雨だ。みるみるうちに雨足は強まり、土砂降りの様相を呈しているようだった(もちろん、俺はカーテンの向こうの窓から聞こえる音でしか判断できない)。だが、部屋からほとんど出ない今の俺には、外が土砂降りであろうと関係がなかった。この雨でが流されていってしまえばいいのに、とさえ思った。

 急に、ピンポーン、と部屋のチャイムが鳴る。宅急便かとも思ったがそんな買い物はしていない。この土砂降りの中、勧誘にでも来たのか……? 勧誘ならば居留守で済むはずだ。だがいくら待っても玄関の前の訪問者は帰るそぶりを見せなかった。まるで誰でもない俺だけに用があるといったように、部屋のチャイムはひっきりなしに鳴らされていた。仕方なく、力が上手く入らない手足を使いやっとのことで椅子から立ち上がり、インターホンに出る。


「はい、なんでしょうか」


「こんばんは。何やらちょうどいいところでしょう?だから私は」


こめかみのあたりにぞわぞわと悪寒のようなものが走る。


「あんたのを壊しに来た」



 玄関の扉は鍵を開けっぱなしにしていた。そのことすら忘れているくらい最近は何も考えられていなかったのだが、基本的に俺が家にいる間鍵を開けていようと特に不都合が起こったためしは無かったからだ。だがその男は扉を開けてもらえないといけないのだという。俺は玄関まで歩いていき、扉を開けてやった。


「どうも、ありがとう」


 男は全身黒い服を身に纏っていた。それもストリートファッションの。黒のパーカーに黒のカーゴパンツ、黒のナイロンジャケット。パーカーのフードだけでなく中にキャップを被っており、によって男の顔は口以外のほとんどが隠れていた。部屋に入って開口一番、男は「私は悪魔だ」と名乗った。悪魔。栄養不足のせいもあるだろうが、俺の頭は思考を停止した。

 男のために湯を沸かし茶を入れたところで、男は語りだした。”界隈の男”は安住ケイという男であるということ。安住は地獄の住人としての素質があり、死ねば地獄に落ちるだろうということ。だが、”条件”を満たしたことで悪魔にさえなるかもしれないということ。だから男は安住の魂を地獄に確実に連れて行かねばならず、そのために監視しているということ。そして、その”条件”は他でもない水上との間の関係において満たされたのだということ。

 水上は安住によって狂わされていたのだ。それによって水上は次の男との間の関係も狂わせてしまい、最終的にその事実に耐え切れなくなり自死を選んだのだと、悪魔はそう言った。呆然とするほか無かった。じゃあ水上の死は安住の責任なのか? と問うと、厳密にはそうではないのだという。


「安住には安住にとっての倒錯する理由があり、それを安住に与えた人間はまた別にいる。悪魔にとって重要なのは“ひとが死んでいるか”、その一点だ。学ぶことを知らず、自分の醜悪さに気づくことのない魂は地獄へ落ちる”素質”がある。だが、悪魔になるためには、人の身でありながらにして人を殺さねばならない」


 安住はだからこそ悪魔に目をつけられたのであって、誰が安住に狂い・倒錯を与えたのかは重要ではないのだという。人間の社会に倒錯はありふれている。その倒錯の伝搬のほとんどは悪意によるものではなく、また”根源的な悪”も関わっていない事象だから、と。


「そして、奴が悪魔になるためにはもう一つ条件がある。それは、生前の奴を知っている者から恨まれることだ。ひとの魂というのはそれだけで凄まじいパワーを生み出す。その恨みの感情自体が奴を悪魔にするだけのエネルギーを生み出すんだよ」


 俺は何も言うことができなかった。あまりにも頭の中が混乱していた。水上が死んだのは、安住が性的な倒錯を彼女に与えたから…? 目の前の男は悪魔で、水上と一緒に遊んだ時のあの頼りなさそうだが人の良い男を地獄に引きずり込もうとしている……?


「人の良い、ね……。まああんたがどう思おうが勝手だけどよ」


 男は俺の考えを読み取ったように言う。


「奴は女の家に居候しながら、貰った生活費で別の女と遊ぶような男だぞ、現にあんたやあの女と会っていたのだってそうだし、あの女と付き合っていた時だってあの女の家に居候してたからな」



 よく、わからなくなってしまった。安住と水上が同棲? 安住はクズ? 安住は……そもそも奴がいくつなのかすら俺は聞いたことがなかった。顔が老けていないので俺も水上も同い年のように接していたが……。


「そうだよ。やっと気づいたか、奴はあんたたちより二つほど年上だよ。高校からまともに学校なんてものには通わず、ずっと女の家を転々としていたような奴さ。そんな男の狂わせた女が、次の男とも狂いに狂った挙句自殺するまでになっちまったんだ」


 男はくっくっと歯を出して笑う。俺は既にいっぱいいっぱいだった。それでは、やはり水上の死は安住がもたらしたようなものではないか。


「そうさ。すべて奴が悪いんだ。あの女に死をもたらしたのは奴だ。どうだ、憎くなってきただろう? 」


 返答する気さえ起きなかった。俺は疲れている。正常に考えられている自信も俺にはなかった。俺は三日以内に結論を出す、として男を引き取らせることにした。男はしぶしぶそれに了解し、残っていた茶を飲み干すと玄関へ引き返した。

 玄関の前で、男は思い出したように言った。


「そうだ、安住はな、今私と一緒に住んでるんだよ。それで、あいつに身体を求められることも少なくないんだが……あんたもしてみるかい? 悪魔は両性具有だぜ」


「そんな元気はないよ。頼むから今日は帰ってくれ」


 そんなことをしている元気は本当に無かった。今日はもう、ただ何も考えずに、寝てしまいたかった。俺は男を半ば強引に家の外に追い出した後、玄関の鍵を閉め、そのまま部屋に戻るとベッドに倒れ込んだ。



 窓に当たる雨粒の音で目が覚めた。どれだけの時間寝ていただろうか。雨足は弱まっていたが、寝ている間に降り続けた雨粒すべてを数えると俺を取り巻くすべてのものやできごとを流し去ってしまうのに十分ではないか、と心の中で悪態をつきながら身を起こす。


「おはようございます」


 普段俺が座っているデスクチェアから声がする。その声の主は背を向けたまま立ち上がるとこちらに居直った。黒い髪に黒のスーツ姿の……女、だろうか。やや女性よりの中性的な顔立ちをしていたが、それに見合わない身長の高さ(その存在は驚くことに、男性の平均身長をゆうに超える俺より身長が高かった)とパンツルックがその存在の性別をあやふやにさせていた。

 昨晩鍵をかけ忘れたのだろうか、いや、確かに鍵をかけた覚えがある。ならばどうやってこの存在は部屋の中に侵入できた? 窓でも割って入ってきたのか? と窓のほうを見るが、風の唸り声が聞こえるばかりでカーテンが揺れているような様子はなく、窓がきっちりと閉められていることは明白だった。


「私のことが見えているのならば、やはりあなたは私を必要としていたようですね。私が入ったのは、正確にはこの部屋にではなくあなたの心ですよ」


 心。


「身近な人の死によって、迷いと絶望とが混在しているにも関わらず、あなたの心はいまだ純粋さを保っています。だからこそ、私は来たのです」


 昨晩のことを思い出す。目の前にいる存在もまた悪魔だとかそういう類のものなのだろうか。だが、目の前の存在の纏う空気は、間違いなくあの男とは異質なものだった。あの男の前では平静さを保てない。あの男には、人の心の中に不安や混乱といったものを渦のようにして湧き上がらせるような雰囲気があった。陰に隠れた顔を覗き込もうとすると、そのまま闇に落ちて行ってしまうのではないかとさえ感じた。だが、この存在は違う。緊張さえさせるものの、そこに悪意のようなものは一切感じられず、ただ、相対した人間を冷静に、落ち着けさせるような雰囲気。悪魔と対をなす存在、まさか……。


「昨日、悪魔が来たよ。俺は両性具有だぞ、お前もみるか、ってね」


 彼(その存在は結局、自信の正体を名乗ることは一切としてなかった。ここでは彼と呼んでおく)は小さくため息をついた。


「……だからなんなのです。いいですか、私はではありません。私を試すことは控えてください。それは”正しい”態度ではないのです」



「それで、悪魔と名乗ったその男は、あなたに安住を憎むよう言ったのですね」


「ああ。安住を憎む感情こそが、安住を悪魔にするための鍵なんだと」


 目の前の彼はふん、と小さく鼻を鳴らした。


「まったく、説得下手な悪魔で助かりますよ。悪魔の真の狙いはあなたに憎悪の心を抱かせることではなく、あなたに安住を殺させることなのです。ちょうど、安住が水上を殺したのと同じように。あなたが手をかけるかけないの問題ではなく、あなたの抱いた憎悪による行動自体が巡り巡って安住に向かう、そういうふうに捻じ曲げようとしているのです」


 いいですか、と彼は俺と目を合わせたまま続ける。まるで俺の目の奥にあるものを確かめるように、その視線は限りなく俺の心の中に対して向けられているようだった。


「今から大切なことを言います。心して聞くように」


 彼はこほん、と小さく咳払いをした。


「人間に許された最大の報復は、相手を忘れることです。相手に一切の反省する機会を与えない、忘れてしまうというのはとても残酷なことです。そしてそれこそが、人間としての真っ当な振る舞いなのです。あなたが敵を忘れてしまっても、悪魔は他の人間に彼を憎むよう懇願しに行くだけです。奴はそのことさえ織り込み済みでしょう。それこそ悪魔の持つ狡猾さというものです。」


 彼は淡々と続けた。


「"敵"のことは忘れなさい。殺してしまうのは『割に合わない』ですし、確かに正義かもしれませんが、真なるものでも善くもあらず、美しくもありません。人間は真・善・美のみを気にしてればよいのです。それが正しい行いかどうかはすべて」


 彼は衣擦れの音さえさせず、静かに右手の人差し指を上に向けた。


「すべて、神が判断するのですから」



 俺は、水上のことが好きだったのかもしれない。彼女とは妙に気が合ったし、彼女が髪の色や服装を一新させたときも、俺はすぐに気がついた。この一週間、水上のことばかりを考えていた。彼女の笑った顔や、口にした機知、髪から香るやや甘い匂い……。そのすべてが、俺の心に感情の波を立たせるのに十分なほど強く刻まれていた。自分が水上のことを、少なからず好意的に思っていたことを、俺は彼女の死によって初めて理解した。

 俺が目の前の彼に対して水上について話している間、彼は黙って聞いていた。それが彼なりの悼みを表す態度だったのだろう。俺が話し終わると、彼はゆっくりと口を開いた。


「身近な存在の死によって周りの者たちが悲しんだり、混乱してしまうのは仕方のないことです。生きている以上、その終わりには死があります。死とは生物としての終了、意識の途絶と肉体の停止であり、残るのは魂だけです。生者が魂に触れることはできません。死者にしてあげられることは数少ないのです」


「あいつが死んだってことを聞いて、俺はずっと、あいつのために何かしてあげられんじゃないかって、ずっと考えていたんだ」


 彼は頷く。


「もう確定してしまった死を覆すことは叶いません。死んだ者のために我々ができることは二つだけです。いつまでもその人のことを忘れないでおくこと、そして、祈ること」



 紅茶を入れて差し出すと、彼は「それは自分でお飲みなさい。暖かいものを口にすると、元気が出ますから」と言い、私は帰ります、と玄関へ向かった。玄関で俺は彼にただ、ありがとう、と言った。彼は笑顔で、役目ですから、と返した。

 役目。結局彼は一体何なのだろう。未だに俺は彼の正体について確信できかねていた。その考えを読み取ったかのように、彼が口を開いた。


「私は……私以外の何者でもありません、と言うのが最も正確でしょう。それに、あなたにとって私がどういう存在なのかはさほど重要じゃないはずですよ」


 彼が玄関の扉を開く。確かに、気になってこそいたが、彼が何であろうとそれは重要なことではなかった。重要なのは、最も重要なのは、彼の言葉だけだった。


「機会があればまたお会いすることもあるでしょう。それでは」


 彼は扉を持っていた手を放す。ゆっくりと閉じていく扉の隙間から、革靴の音を響かせながら廊下を歩く彼と、光り輝く雲たちの浮かぶ空が見えた。


 俺は部屋に戻り、カーテンを開けて窓の外を見る。いつの間にか雨は止んでいた。誰かの家の洗濯物が風に揺れるのを見てなんとなく外に出たくなった俺は、窓を開けてベランダに出た。未だ明けない冬の風が肌を撫でる、その感覚さえ久しぶりのようだった。俺は空を見上げる。

 無数の雲の切れ間から白く透明な光の筋が、雨上がりの濡れた地面に、静かに降り注いでいた。まるで、この星に生きる人々を祝福するように。三匹のスズメが鳴きながら飛びまわり、水たまりは空の光を乱反射させていた。目を細め、深く呼吸をする。俺は水上についてできる限り思い出してみることにした。冷たい空気が肺いっぱいに入ってくる、その感覚さえも愛おしかった。

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