懐古は月明かりの学校で

七戸寧子 / 栗饅頭

本編

 例えば、今この瞬間の世界に存在する全ての素粒子の座標を事細かに記録したとして。明日とか明後日とか、一ヶ月後とか一年後とか、私たちが大人になったり人類が火星に移住したりしてから、ピンセットのようなもので記録をもとに再現するとする。こう、顕微鏡みたいなのがついたヘッドギアみたいなのつけて、ペンライトで照らして、ちみちみちみちみと。


 そうしてできた「今この瞬間と全く同じ世界」にいる私たちは、時が戻ったと言えるだろうか。仮に言えるとしたら、理論上は時を巻き戻すことが可能なのではないだろうか。


 もちろんそんなことは「理論上」でしかなくて、机上からはどう間違っても出てこないだろう。ビニール紐の束みたいなものだ。一回引っ張り出したら元には戻せない。そのくせ勝手に机から転げ落ちてタンブルウィードみたいに転がっていって、数メートルの紐を左手に巻き付けながら私は「ったくよぉ」と笑うのだ。


 タンブルウィードか。そういえば西部劇ってちゃんと観たことないな。私も一回くらいはリボルバーをくるくるやってバギューンとやって、銃口をフッってやってみたいな。あ、いや、それよりも。


「酒場でミルク頼んで荒くれ者に『ギャハハ! ボウヤはおウチでママのおっぱいでも飲んでな!』って言われてみたいよな」


「え、なにそれ怖」


 Broの返事は、いや女だからSisが正しいのか、とにかく親友の返事はひどく淡白だった。いや、ある種の真に迫っていたかもしれない。ちょっぴり震えを帯びた声は本当に恐ろしがっているかのようで、脳内の小さな私が「合格」の札をサッと挙げた。


「バぁカ、そういう主人公は実は荒くれ者も怖くないくらい強いんだよ」


「そうじゃなくて脈絡なくそういう話が出るのが怖いのよ」


 そのぴしゃりと冷たい返しで、ここが砂塵の舞う荒野ではなくて日本の住宅地の――というには畑ばかりだが田舎と言い切るにはそれなりに便も悪くないし街灯がちゃんと足元を照らしてくれるような――道端であることを思い出す。指で作ったピストルの爪先にフッとやってみる。白い息が舞って、びゅっと吹いた風に掻き消された。あまりに冷たいのでマフラーに口周りを隠してみる。吐息が温かい。少しにんにく臭い。


「私の脈絡なくのなさは慣れろよ」


「確かに、今更だわ」


 親友は鼻で笑ってから、ぶるりと身震いをしてくしゃみをした。女っ気もなくコートのポケットに両手を突っ込んでいる。もともと私よりも可愛らしくて女の子っぽい彼女は東京に行ってからますますそれに磨きをかけたが、「女子らしさが〜」とか言う割に案外人の目を気にしないのは変わらなかった。私が観測できる彼女の一面がそうというだけかもしれないが。


「うーん、言われてみれば酒場で『ミルクで』ができるのは今だけかもね」


「お、その心は?」


「単純に、私ら今年でハタチじゃん?」


「あーね」


 齢十九。今をときめく女子大学生の私たちは何をしているかというと、三賀日こそ終わったもののまだ新年ムードが漂う寒い夜道を散歩していた。流石に「散歩しようぜ」と集まったわけではなく、年末年始で帰省していた親友をとっ捕まえて懐かしい遊び場ではっちゃけた後にラーメンを啜っていた。そのままもう少し話そうやとぶらぶら歩いて、どういうわけか母校までの道のりで西部劇の話をしている。なるほど、これは「え、なにそれ怖」って感じだ。考えてみれば彼女の声が震えていたのは寒いからだ。脳内の小さな私がくしゃみをした。


「ハタチかあ」


「そーだよ、私はあんたとお酒飲むの楽しみにしてるんだからね」


「そりゃあ私だって楽しみよ、二人で飲めるようになった瞬間そっち行ってやるわ」


「うわ、本当にやりそう」


 親友の中で私はそんなキャラらしい。私も「うわ、本当にやりそう」と思っている。よくわかっているじゃないか。流石、それなりに付き合っているだけある。


 道はどんどん暗さを増し、そんな中でもより暗さが際立つ細い路地にぺきっと曲がる。街灯もなければアスファルトはガタガタ、両端は砂利だったりカチカチの土だったり、そんな道。三年通ったからわかる近道。


 最初に「高校に行かない?」なんて言ったのは、私ではなく彼女の方だった。行き先を提案するのはどちらかといえば私の役割だったので少々面食らった。麺を食らっていた時だった。今日の店はラーメンより唐揚げが美味かった。


 不思議なもので、足の裏が地面の形を覚えてるかのように、踏みしめる凸凹には懐かしさがあった。この辺の凹みはいつも雨水が溜まって、一回だけカラスが楽しそうに水浴びをしていたのを見たことがある。このあたりは二年生の春からコンクリートを塗り直していたから平べったくてキレイ。コンクリートから降りて砂利を踏むとじゃりっと鳴る。砂利がじゃりっと。その音すら記憶にあるような気もして、狭いこの道で対向車に出くわす朝の焦りがふつふつと湧いてくる。心なしか冷や汗をかいたかもしれない。


「懐かしい」


 テンプレートのようなセリフだった。私のセリフではなく親友のセリフだった。私はそれが意外だった。きっと目を見開いていたのだろう。彼女が私の顔を見てキッと目を訝しげに細めた。


「なによ、その顔」


「いや、なんつーか……」


 どう答えていいかわからなくてつい見つめ合う。厚底を履いても私より少し低い背丈。華奢な輪郭。未だに違和感がある元くせっ毛のストレートヘア。色素の薄い瞳。


 あれ。


 ふと、自分の足元に目を落とす。影が伸びている。空を見上げて、月の眩しさについ目を細める。口から青白い息と、感動を言語化したなにかが漏れ出る。


「セックスできそうな月明かり……」


 残念なことに、私にはこれを「下品だ」とか「はしたない」だとか思う知性がなかった。隣にいる女の子はそれなりにそういう羞恥心があるからよく咎められた。


 が、視界の外から返ってきたのは「ぶはっ」と吹き出す音だった。


「月明かりとセックスのくだり気に入りすぎでしょ、もう一年経つよそれ」


 そのはにかみが横にあるこの道は、時間が巻き戻ったようだった。反面、その言葉は当たり前が当たり前じゃなくなったあの日から一年が経とうとしているのを示していた。


「しゃーねーだろ、私はコレを言うがために産まれたようなモンだぜ」


「親に謝れ」


「ごめん、父さん母さん……娘はこんな子に育ったよ」


「なんでだろねえ、品行方正文武両道生徒会長サマなのに」


 なんでだろうなあ。にやあ、という擬音が出そうな口角の上がり方をしているのが自分でもわかる。このクセ、実はほんの少しコンプレックスだ。そんなにやけを抑えながら訂正する。


「生徒会長は『元』な」


「そーね」


 ヒロインみたいな笑い方をしてご機嫌にくるりと一回転する彼女。よくもまあ厚底ブーツでそんなことができるものだ。その背景の小洒落た民家は確か大きな白い犬がいて、いつも道路に面した大窓でまどろんでいるのだ。あれ、この家の前ということは、つまり。


 いつの間にか道は少し広くなっていて、何度曲がったかわからない開けた十字路が目の前にあった。駆け寄って、右側に視線を向ける。私たちの三年間の学び舎。ひどく、ひどくなんて言えてしまうほど見慣れた校舎を夜に見るのは新鮮で、そのくせやっぱり懐かしくて、また口角が上がってくる。


「なんで引っ越した私よりあんたがはしゃいでんのよ」


「いやだって、ほら」


 ええと、なんというか。いや、迷わずとも言葉はすぐに出る。


「「懐かしい」」


 被せられた。きゅうっと喉のあたりが締まるような感じがして、一瞬息が止まる。


「なによ、その顔」


 罠を敷いてからかうのはどちらかといえば私の役割だったので少々面食らった。麺を食らっている彼女を撮影してストーリーに上げたこともあった。あれからももう一年近く経つ。


「いや、なんつーか……」


 そうだな。


「やるようになったじゃん」


「へっへーん」


 そんなやり取りをしながらたどり着いた校門の前。まだ正月休みであろう学校の駐車場には車の一台もなく、煌々とした明かりが門と屋根付き駐車場の前、運動場のあたりを照らしていた。あ、違う。高校と煌々を照らしていた。口に出すのはやめた。


「流石にがらんとしてるな」


「まー、そりゃ」


「忍び込めたりしねーかな」


「お、ヤンキーだヤンキー」


 冗談交じりに鉄製のゲートを固定しているところを持ち上げてみる。カシャン。


 目を見合わせる。


 引く。


 がらららら。


「……」


「……」


 目を見合わせる。


 ららららが、カシャン。証拠隠滅。


「え、いいのこんなんで」


「でも冷静に考えたら外から開けられないゲートって車入れるとき困るもんな……」


 目を見合わせる。三回目。


「いっちゃう? ミッション・インポッシブル」


「だいぶポッシブルだけど……」


 結論から言うと、ひとまずやめにした。流石に勇気が湧かなかった。とりあえず外周を散歩することにした。杉の木に囲まれて花粉症の人間にとっては地獄みたいな環境だった我が母校の外周はそれはそれは真っ暗で、月明かりがマッチした。


「こんな道、一人じゃ絶対避けるわ」


「いや本当に、二人だから通れるけど」


 そんな会話をするとぞわりとくるものがあって、ついつい後ろを振り向く。奥の方に街灯の明るみがあるだけで、他にはなにもない。


「え、やめてよそういうの怖いから」


「……なんか聞こえない?」


「え、冗談よしてよほんとに」


 そのまま視線を動かさずにいてみる。私の腕に彼女がすり寄ってきて、ぎゅっと絡みつく。


「な、なあ……」


 声を震わせる。ひし、と腕にかかる力が強くなる。彼女がつばを飲み下す音が聞こえそうだった。


「あのさ……」


「なに、なにもいないよね!?」


 その反応がやっぱり女の子だった。脳内の小さな私が「合格」の札を挙げる。私が男に生まれたならこいつを恋人にしたいなと思った。そう思えるような経験が友達としてできるんだから女として産まれて得な気がした。


「……このくだり、全部冗談って言ったら怒る?」


 きゅっ。すぐに離れるかと思ったその腕は、より私に密着する。「もーっ!」と怒るかと思ったその口はつぐまれたまま。私の肘が伸ばされて、コキと鳴る。


「あっ、ごめん、悪かった」


 そのまま腕の関節の反対方向に力がかかる。少しずつ増していく。


「ごめんなさい! 私が悪かったです! ごめんて! 人体はそっちに曲がるようにできてないの! ねえ!」


 必死に喚いたら腕が離れていった。冬の空気が涼しい。身体はだいぶホットだった。


「次やったら人間やめさせるからね」


 背筋はめちゃくちゃコールドだった。おばけよりこっちのほうが怖い。一連の流れのおかげで暗い道の怖さはどこかに行ってしまった。むしろ彼女に怯えておばけがどこかに行ったようにも思える。脳内の小さな私も白旗を振っていた。


「はー、まったく……」


 萎縮しながら野球場を回り込んで、テニスコートの方まで来て、「そういえば」と思い出す。空気を和ますのにもちょうどいいので口に出してみる。


「この辺の林ってテニスボールめっちゃ落ちてると思うのよ」


「あー、明後日の方向に行ったのがこっちに落ちてってこと?」


「そ。少なくとも私が体育でぶっ飛ばした一つがあるはず」


「うわ、ちゃんと回収しなさいよ元生徒会長」


「どうしても見つからないから転がってた別のボール拾って戻しておいた」


「それは……なんというか……いいの……?」


「いいことにした」


 私が意外と悪い子だというのは私と仲のいい人だけ知っている。校則で禁止されていたメイクをあろうことか生徒会室でして放課後遊びに行ったりするし、校舎の至る所に小さな落書きをしていたりする。卒業式の後、遊び歩いた末にアダルトショップに寄ったこともある。生徒会に寄せられたありがたいありがたいマジでクソカスみてえな投書をわざわざコピーしてシュレッダーにかけた時は流石に心配された。あの日から私はシュレッダーの音が好きだ。生徒会長だからといって純潔なわけじゃないし、純潔を着ることが叶うわけでもない。この言葉は我ながら気に入っている。


 そう、私は悪いことが結構好き。


 だからほら、ワクワクする。


 裏門が全開なことに。


「……」


「……」


 目を見合わせる。二人同時に踏み込む。二人して笑う。


「めーっちゃ青春してる気がするな」


「なにこれ、彼氏の自転車の荷台で下校するくらい青春感じる」


 的確に張り合えそうなところを出してくるあたりが彼女らしい。眼前に広がる景色は、太陽が月になっているだけでその他は在りし日のままだった。野球部の声が聞こえてきそうな野球場や、体育でぱこんぱこんやった記憶のあるテニスコート、一度だけ授業で使ったプール。親友の肩をなんとなく叩いて、歩みを再開させる。


 夜の学校というのは当前ながら静かで、人がいない分いつもより広い気がして、むしろこの空間が世界の全てであるような気すらした。


「この辺の登り坂さ、持久走のときめっちゃキツいんよな」


「わかる、男子が横スイスイ行ってびっくりする」


「そう? 男子もやっぱキツいんじゃねえかなペース落ちてたし」


「それはあんたが速いだけよ」


 なんせ品行方正文武両道生徒会長だからな。違う、品行方正文武両道“元”生徒会長だ。いや、品行方正でもないか。


 坂を登りきって、なぜか電気がついている体育館脇トイレにちょっぴり怯える。


「そういえば、これ監視カメラとか大丈夫なの」


「あー、ウチは警備会社入ってるけどたしか通報入るのは特別教室の鍵開けた時だったかな。外歩く分には大丈夫……多分……」


「その辺把握してるの流石は生徒会って感じ」


 久々に踏み入れる母校の柵の中。感じる、あの頃のみずみずしさ。入学してすぐの、いろんな人とLINEを交換したあの日。生徒会に誘われて、雨が降る中仕事のために遅くまで残ったあの日。昼休みに弁当を広げて笑いあったあの日。文化祭でステージに立ったあの日。


 ふと、冷静になる。


「昔になっちゃったな」


「ね」


 例えば、今この瞬間の世界に存在する全ての素粒子の座標を事細かに記録したとして……なんてのは、結局は無理だ。出しすぎて戻せなくなったビニール紐は思い出の整理整頓にでも使うのが賢明だ。それでも過去を懐かしんで「戻りたいなあ」なんて思ってしまうのだから人間はアホだ。出来もしないことを望むくらいなら肘が逆に曲がる生き物に生まれる方が楽かもしれない。


 でも、私は人間だから望むのだ。


「自販機、行こう」


「あら、喉乾いた? それとも冷えた?」


「いや、昔みたいなことしたくて」


 そういえば、大学の教授が授業の雑談として言っていた。過去を想起するきっかけに味覚を使うのは有用で、昔よく食べた物は数十年しても舌が覚えていて、その味でその頃の空気感まで思い出せてしまうのだとか。「皆さんの人生の味はなんですかね、ワハハ」なんて締め方が記憶に強い。友達は「アレたぶんグルメ漫画の受け売り」なんて言っていたけど。

 

「走るよ」


「え、なんで」


 返事はしない。何も上手いことが思いつかない。地面を蹴る。文武両道を舐めてもらっては困る。


「ちょっと、私厚底なんだけど」


 たぶん幻聴だと思う。 


 風が冷たい。マフラーが上下左右に揺れて妙に感覚が狂う。冬の外行きな服はおよそ走るには向かないが、このフィールドにいる以上私は高校生並の運動センスを発揮せねばならないのだ。学生服で走ったあの日みたいであらねばならないのだ。自らの呼吸が耳をかすめて、ほのかな温かさで撫でていく。


 砂利を散らしながら裏庭を抜けて、省エネモードでボタンのみが光っている自動販売機を見つける。あの日も、あの日も、あの日も、この自動販売機にコインを吸わせた。そこに立つときに息が切れていたのは、思いの外全力で走ったからだ。緊張してるとか、そんなことない。財布を開いて、真っ暗な中で小銭を漁る。自販機がわずかに光るせいで月明かりがくすんで頼りにならない。指が震えるのは寒さのせいだ。百円玉と、十円玉が、ひとつ、ふた、ふ、ふたつめが出ない。指でかき回すとガシャガシャ鳴った。ガシャガシャガシャ、ジャリジャリジャリ、じゃり。


 じゃり?


 明らかに異質な「じゃり」の音がした方に首を向ける。私と同じように息を切らす様相は、やっぱりおばけより怖い。


「……メロスは激怒した」


 あっこれはやべえ。


「必ず、かの邪智暴虐の元生徒会長を除かなければならぬと決意した」


「よ、よお、悪かったってメロス。悪いな私に付き合わせて走らせちゃって。あれ、それって私はセリヌンティウスの役じゃない? ね、ほら私ら親友と言っても過言じゃないもん」


「メロスには勘定がわからぬ。ついでにメロスは約束を守る男だし、私も約束は可能な限り守る女よ」


 月下でその瞳が光ったような気がした。どうやら彼女は東京で覇気を習得したらしい。私は人間でありたいから、小銭をしまって千円札を出した。メロスは満足そうに短剣を収めた。


 ガコン、ガコン。


 私の青春はペットボトルにジョージアのカフェラテと一緒に詰まっている。120円ぽっちのあったか〜い青春。彼女はココア。バンホーテンの粉っぽいやつをよく振ってからストローを刺した。自販機の前のコンクリートに腰を下ろし、身を寄せ合って、ほかほかな液体を身体に流し込み、ほうっと息をつく。


「……思い出しちゃうな」


「何を?」


「いろいろだけど、一番は卒業式」


「ああ、この自販機で待ち合わせたもんな」


 ごくっ。ちゅーっ。はあ。


「そうそう、このココアね、私の恋人なんだよ」


「私は時々お前のことがわからなくなるよ」


「文学的って言ってくれると嬉しいんだけどな」


「いや、ほんとに。ぶっちゃけ尊敬してんだぜ」


 私も卒業式の日を思い出していた。彼女はここで私を待っていて、「光陰矢の如し」という言葉に対して「矢というよりは、月火水木金って感じ」と言ったのだ。私はそれを聞いたときに自分で書いた卒業式の答辞の「柔らかな春の光に包まれて」というテンプレート極まりない書き出しが急に恥ずかしくなったのだ。あの後、彼女の腹が鳴らなかったら私は何を言っていたのだろう。実験してみたくても、誰もあの日の素粒子の配置を記録してはいない。


「え、ごめん、あんたが尊敬なんて言うのすごい意外」


「失礼しっちゃうわねぇ、んもう。私のレベルに合せて教科書でおなじみの作品にしてくれるとこも好きよん」


 女の子らしい姿や振る舞いも、日常でセリフを引用するときは漫画やアニメからではなくて和歌や小説からなのも、同い年なのにもう家を出て一人で生活しているのも。


「いや、本当にな」


「なに? 熱でもある?」


「おー、そういうことにしとけ」


 ごくっ。ちゅーっ。……。


「「あのさ」」


 目を見合わせようとして、なんだか恥ずかしくなって、やめる。


「……そういう、ちゅーって飲むの、いいよなぁと思う」


「……私も、そのごくってやつ、憧れる」


 少し冷静になろう。その上で率直に言おう。


 え、なにこれ。


 私らしくもない。もう少しフランクに笑い飛ばせるのが私だと思っていたのに。やけに素直になるのはどうしてだろう。かじかんで仕方なかったはずの耳が熱い。ぽーっとする。ひょっとしたら酔っているのかもしれない。


「私たちさ、男女だったらもう少し違ったかな」


「いやー、全然違うんじゃない? 恋人か赤の他人でしょ」


「極端だな、なんとなくわかるけど」


 彼女は私の返事を聞いてからぬるりと腰を上げ、私の前に立ちはだかった。


「……何?」


「あし」


「あし?」


「脚の間入れなさいよ、カレシ」


 たぶん漫画にすれば私の頭に疑問符が三つ浮いていた。目はぐるぐるしていた。言われるがままにすると、華奢な彼女……カノジョ? が、私に包まれる形で座った。私たちはの体格差だとそんなこともできた。


「星がキレイ」


「……やっぱ東京と違う?」


「こんなに空気がいいとは思わなかったし、そうね、何より空が広い」


 そんなものだろうか。これが彼女なりの表現なのか、東京から帰省した誰もがそう思うのかは私にはわからない。


「あと、こんなに暗い外も久しぶり」


「あ〜、東京はどこでも明るそうだしな」


「流石にそんなことはないけど、月明かりで影ができるなんて知らなかったかも」


 月に意識を向ける。いつも月を眺めて考えるのはウサギのことかカニのことかネットでかじった量子力学のことかセックスのことなのに、今日は違う。流石にこんな状況なら違う。眩しい。太陽のおかげなのに一丁前で生意気だ。


「私ね、月を見るといつも思うことがあるんだ」


 文学的な彼女は、何を考えるのだろうか。手のやり場に困って、というのは言い訳で半ば反射的にというか、なんというか、とにかく、私がとった行動はハグだった。彼女とハグをするくらい過去に何度があったが、今日は事情が違った。


 静かだった。


 彼女も言葉を続けることはなく、黙っていた。どんな顔をしているのかはわからなかった。しばらくそうしていた。


「……なんか言ってよ」


 本当に、どんな顔をしていたのだろうか。彼女も、私も。誰も誰も今の瞬間を記録なんてしていないでくれることを願う。それか、十分前の世界に巻き戻してほしい。転がるビニール紐の塊に伸ばすべき手は、人肌をホールドするのに夢中で。


 ええと、なんか、なんか言わなきゃ。なにを?


 なにを……


 なんか……


 なんでもいいから、なにか。


 なんでも?







「……アスパラガス」







 ぶはっ。


 ぎゃはははは、と愉快でらしくない声を上げながら、私の腕の中で体温が悶える。足をバタバタさせて、厚底ブーツがコンクリートと物騒な音を奏でる。ひーっひーっと苦しそうに呼吸をしながら身をよじらせている。私もおかしくなってきて、最初はニヤニヤするだけだったのが声になって、いつからか高笑いしていた。二人でゲラゲラ笑う。懐かしい。懐かしいというよりは、懐かしいあの頃と今がちゃんと一本の紐なんだと実感できるというか。


「あすぱらってなに……へ、へへへっ」


「しらん……アスパラってなんだよ……天才かよ私……はは」


 アスパラガスって焼いて塩コショウ振るだけで美味いからすげーよな。


 聞いてないよそんなの。


 ああ、くだらない。


 ひとしきり笑い終えて、息を整えながら二人で座りなおす。さっぱりとした頭で、隣同士で肩を寄せ合う。月が綺麗だった。本当に綺麗で、ただそれだけだった。


「私が月を見ると思うのはね、山月記のこと」


「あーうわ、お前っぽ〜い」


「アレが刺さらない人間は幸せだろうけど可哀想だなって思う」


「思想つよ〜」


 ただ、言わんとすることはわかる。とても文学的にはなりきれない私でも、思い当たる節くらいある。私はそれなりに満たされた生活をしているし目標にしたことは概ね達成してきたが、それでも虎にならないか怯えたことはたまにある。むしろ、そうやって過去を肯定しているからこそ自分が傲慢でないかが恐ろしくなる。国語の授業の中でも思い入れは強い。


「……この年になるとさ、夢のこととか生真面目に考えちゃうんだよね」


「そんなアラサーみたいなこと言わんでも」


「違うよ、十九歳なんて、ティーンエイジャーもそろそろ終わるのに思春期が去った気がしなくて、そのくせそのうち就職もしなきゃなとか考える今だからだよ」


 そーゆーところだよ、尊敬してんのは。私のことを大人っぽいと称する彼女は、私から見れば私なんかよりずっと大人だ。確かにちんちくりんだけど、なんて言っては私の人生がここで終わりかねないが。


「あんたは夢とかある?」


「職業的な? それとも人生での目標として? もしくは現実性度外視の妄想として?」


「じゃあ、ふたつめ」


 すーっ。息を吸い込むと、冷たい空気が肺を満たした。寒さを急に思い出してカフェラテに口をつけたら、ぬるい液体が口腔を満たして微妙な気分になった。


「……教科書に私の名前を載せたい」


 私だって、夢のことくらい考える。これをしたら人生クリアだな、みたいな。トロコンとか実績全解除とは言えないけどひとまずエンドロールは流れるかなみたいな目標。


「大きく出たねぇ、いい夢じゃん」


「具体的に何をするなんて思いつかないけどな」


「理系なんだし科学者にでもなれば?」


「私はそーゆー理系じゃねえけどな」


 月を眺める。私はこれから月を眺める度に今日のことを思い出すのかもしれない。


「……ま、二十年後の保健の教科書には月明かりとセックスの関係性の項目があるだろうよ。ノーベル賞受賞者として私の名前が載るんだぜ」


「名前を残したいなら今すぐその実証実験して凍死してくれてもいいのよ、ダーウィン賞狙ってこ」


「辛辣〜」


 さて、ターン交代だろうか。「お前は?」と口に出す前に、向こうが口を開く。


「私はね、ブラックコーヒーを飲むのが夢」


 その横顔はどこか寂しそうというか、いや、寂しくはないのだろうが、どうも哀愁漂う感じがして、でも温かみがあって。ただ、やっぱり内容は意外そのものでぽかんとしてしまった。


「……帰り道に飲む? ブラックコーヒー」


「ううん、なんというか、私がブラックコーヒーを口にする日はきっと私はなりたい私になれてるんだろうなって思うから」


「ふーん……?」


「チーズバーガーに挟まるピクルスが美味しいと思えたあの日みたいな、そんな感じだと思うの」


 言わんとする事はわかるが、きっと私が理解しようとした事柄は「ブラックコーヒーを飲むのが夢」と形容するのが正解なんだろう。それ以外の言葉にしてはいけないような、そんな気がした。私はコーヒーをブラックでも飲むが、今日のカフェラテに青春を重ねていたことを思うと、少し理解が深まった。


 ボトルの中を空にして、ゴミ箱に捨てる。彼女も噛みすぎて平らになったストローと紙パックを捨てて、尻のあたりを払った。


「行くか」


「そうね、仮にも不法侵入中だから」


「なんかいろいろやったな」


「いいのよ、今だけJKだから」


「そうだな」


 砂利を踏みしめながら正門の方に向かう。昇降口のあたりに改めて向き直って。ため息をつく。


「記念撮影でもしてったら?」


「あー、それもいいな」


「なんなら写る? 撮ってあげようか?」


「お、頼む」


 彼女がスマホを構える前で、ポーズを考える。特にこだわりはないから、アスパラガスくらいするっと自分から出てきたものにしようと思い、脚を閉じて両手を前に付き出した。右手の親指を九時の方向に、左手の親指は三時の方向に。指は広げきらずすぼめるが、付け根から先はピンと伸ばす。


「……何そのポーズ」


「黄金体験」


「ああ、私がわからない話ね」


「今日はいい体験したし、私には夢があるから」


「はいはい」


 かしゃかしゃ。画面をチェックして、我ながらその写りの良さに唸る。全く、いい女だ。そのデータを共有してもらい、モノがモノでなければ待ち受けにしたいくらいだった。流石にそれは嘘だ。


 対する彼女は何も撮らなかった。帰ったら日記を書くと言ってはにかんだ。私はそういうところがやっぱり羨ましい。


 最初はスルーした正門を内側から開き、身体を外に出して元通りに閉め直した。後はお叱りを受けないことを祈るだけだ。少なからずこのザル警備にも問題はあると思う。


「さて、この後どうする?」


「どうするも何も、帰る方向でしょ」


「どっか寄る?」


「あー、じゃあ、JKついでに」


 そんな彼女に連れてこられたのは喫茶店。こんな夜までやっているのかと感心した。店内は明るかったが、ソファがもちもちふかふかで気を抜けば眠りそうだった。


「さて、ふわとろパンケーキを食べるよ」


「おー、JKっぽい。このところ会うたびラーメンの私たちらしくない」


「でっしょ〜」


 運ばれてきたそれはパンケーキのくせに皿を揺らすとぷるぷると揺れて、ナイフは引かずとも勝手に沈んで、むしろフォークで取るのが難しいくらいだった。彼女は先に写真を一枚取り、フォークですくい上げるようにして一口取って口に運んだ。頬を抑えて、んふっと笑い、口端をペーパーで拭った。


 私も真似て口に運ぶ。確かにパンケーキだったはずのそれは一瞬で舌の上で溶けて、生地とメープルの甘さをまったりと残して消えていった。もうその素粒子の配置を再現することはできないだろう。普段ならコーヒーで流して落ち着くところだが、少しそのままにしてみた。「ったくよぉ」と思った。

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