三諦の猫


此書このしょ年月明鑑ねんげつめいかんに非ず。我が口述せし本事也ほんじなり。此書はそれを書き残ししものと書き添ふ。我は書くことはならずと申しけれど、当代はそれ聞かず。此処に新しき式を創らんとせり。其は我等の往く道を照らすしるべとならん。故に此は開白かいびゃくに過ぎぬ、満願まんがんには至りたらねば。しかれども玻璃筆ガラスペン洋墨インクには慣れぬものぞ。

 《序之章「序文添書」より》


 ◇ ◇ ◇ 


 お嬢さん―。

 と、頭上からふいに声を掛けられたような気がしたのです。それと同時に、頬に摘ままれたような微かな痛みを感じました。

 いつのまにか眠ってしまっていたようです。

 微かに何かが焼けたような香がしました。

 おもむろに目を開けて、机から体を起こそうとしました。

 けれども、体が動きません。

 しかし、全く動かせない訳ではありませんので、金縛りにあったという訳ではないようですが、背中にずしりと何か重いものが乗っているような。

 そんな感じがしたのです。ですから、体を起こせないことには違いありません。

 首だけを回して見ると、目の前には見知った顔が覗き込んでいました。

 その人は。

 ついさっきまで、傍らで眠っていたはずの―。

 祖母様の忘れ形見でした。

 彼女は金色の瞳を細めて、無言のまま、じっと見つめています。それも、互いの吐息がかかってしまいそうな距離で。

 途端に、意識が明瞭はっきりとして、動悸が早くなりました。それはもう、胸が詰まってしまいそうでした。

 初めて―約款やくそくを破ったのです。

 彼女の意に反して、読んではいけないと言いつけられていましたのに、隠れてこそこそと人様の墓所を暴いただけでなく、彼らが死してなおも現世うつしよに残していった残篇みれんに触れてしまったのです。

 そして、あの紙片。

 あの時手に取ったのは何故か。

 そう。きっと彼女には、すべてお見通しなのでしょう。

 息を呑み、乾いた口から絞り出すように、

「ご、ごめんなさい」

 と謝りました。

 彼女は黙しています。

 すると、背中に掛かっていた重みが軽くなりました。

 叱責を受けることは覚悟していましたが、彼女は窘めることもありませんでした。

 思いもかけなかったので、こちらが狼狽ろうばいしてしまいました。

 体をゆっくりと起こして、居住まいを正しました。

 それから振り向くと。

 墨染姿の彼女が胸に手を当てて、座っていました。手には何かを握っているようでした。

 よく見えませんでしたが、

 それは、あの紙片だったように思います。

 そして。

「もういいのです」

 ようやく気が晴れました―。

 そう、彼女は言いました。

「それはどういう意味」

 そう、問いました。

「もう、必要はなくなりました」

 彼女はきっぱりと言い切りました。言の葉に、懊悩おうのうは見当たりませんでした。

「聞いていただけますか」

 彼女はそう言うと後ろ手に、

 窓を―。

 がらりと開けました。仏間で焚かれていた白檀の、かすかに甘いにおいが突如として、室内に流れ込んできました。

 窓の外には、阿弥陀如来がこちらに背を向けておられます。

 彼女は立ち上がり、ちらりとこちらに一瞥して、窓の外へ行ってしまいました。

 貴女はどうしますか、と問われているようでした。

 もう答えは決まっています。

 彼女に誘われるように間口を潜り、須弥壇しゅみだんの脇からゆっくりと畳に足を下ろしました。

 室内には。

 座蒲団が二つ、香炉と手燭てしょくを載せた盆を挟んで、向かい合うように敷かれていました。

 彼女は須弥壇に背を向けるように座っていました。

 背を向けたまま、そこへ座りなさい、というので座りました。

 それから彼女は手許の蝋燭ろうそくを点して、香箱を差し出しました。なかには長寸の線香が入っていました。それは、いつも夜伽よとぎを執り行う際に使っているものです。

 目をると、彼女は頷いて、

「長い話になりますから」

 と、言いました。

 言われたとおりに、香箱から線香を一本手に取って、蝋燭の火に近づけました。


 【後略】

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AVERSE NOVELSーAKASHIMORINONEKO SYOUHONー @kkishinn

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