夢鑑之猫


序─香煙こうえんつる寂静の堂宇どう、此処に白木の荘厳しょうごんを調え、壇下に色身しきしんを安置する。此処は仏界也ぶっかいなり。御仏は壇上より大慈大悲だいじだいひのまなざしで是を見下ろさん。我、此処に灯明守あかしもり委託まかされ、夜伽よとぎを営む。現世うつしよに返りし魂一つ、礼節をもっこれを遇する。新仏あらぼとけが口述せし、彼是あれこれ。凡て書き紡ぎて、一巻の物語を編む。紙は瑠璃の薄明穹。《はくめいきゅう》字はそらに輝く星星ほしぼし。墨痕鮮やかな白銀の筆海は払暁を迎えんとする穹に星河を生む。此書は霊簿りょうぼ也。されど霊簿に非ず。諸霊の普く現世凡て、零さずに鏤め《ちりば》た法具也。題を年月明鑑ねんげつめいかんとす。維時これときより、百年の歳月、廻る此日このひ、夜夜、語り弔いて追善回向を為すが本書也。謹言。


 「年月明鑑 序文」



  夢 鑑



 読み終えて、ふう、と息を付きました。同時に張りつめていた糸が切れ、その瞬間に現実の世界に引き戻されるのです。

 織紐を巻きつけて、本を棚の中に戻しました。

 室内は微暗うすぐらく、天井から吊るされた灯籠の明かりでかろうじて照らされています。他に明かりと言えるものはありません。窓がないのです。

 いいえ。

 確かに窓はあるのですが、それは躙口の《にじりぐち》ようなもので、明かり取りの役目は果たしていません。

 二畳ほどの狭い座敷の壁面は全て棚になっていて、棚の中は全て本でした。

 本と言っても洋装本のたぐいは見当たりません。全て綺麗に巻いた巻子本かんすぼんが整然と並んでいます。

 が言うには、

        此書は霊簿

 これらの書物は墓碑ぼひ題簽だいせんには戒名を、本紙には亡くなった方の生前を、忘れぬため─その菩提を弔うために記してあるのだとか。

 題を年月明鑑とす。

 さながら霊廟とも言えるこの部屋の中には、いったい幾位いくいの御霊が眠っているのでしょう。眺めまわして、初めてこの場所に踏み込んだ時のことを思い出しました。

 実際に数えてみたことはありません。

 でも。

 読みました。殊の外、時間は掛かりましたが、棚の中に並んでいる本はあらかた目を通しました。

 決して読み易い文章という訳ではありませんでした。読み慣れない、古典のような文体で綴られていたのです。その上、本はその方の命日の前夜からしか読んではいけないという作法の所為もありました。

 廻る此日、夜夜、語り弔いて追善回向を為すが本書也。

 不思議な作法です。読みたいときに読めないというのはとてももどかしいものがありました。

 とは言え、読んでいる時、本に書かれている人物は過去にちゃんと生きて暮らしていたのです。直接お目に掛かったことはないのですが。

 読む度に、そのような想いに駆られていました。

 兎に角、残るは─。

 目を落とすと、そこには、ひつのようでもあり、また柩の(ひつぎ)ようでもある、真っ黒な箱が置かれています。

 何故、柩のようだと思うのか。

 それは。

 上蓋に置いてある一口ひとふりの短刀が、死者を護る枕刀のように見えていたからでしょう。

 短刀の鞘には、銘木として名高い錫蘭せいろん産の黒檀が使われています。黒を帯びたその木には、縞目がほとんどなく、表裏に跨って猫が一匹彫り込まれていました。眼を閉じて、どうやら眠っているようです。

 それは、とても美しいこしらえの、祖母様の忘れ形見なのです。

 眠り猫を起こさないように、そっと畳の上に置いて、櫃を開けました。

 中には、文房四宝ぶんぼうしほうをしまった桐箱が幾つかと円筒形の白磁の壺が収められています。

 そこから、壺を取り出して、畳の上に置きました。

 蓋に手を掛けようとすると、動悸が激しくなります。

 彼女には中のものは読まなくていいと念を押されていましたが、どうしても中が気になってしまいました。読むなと言われれば、読みたくなるのが道理なのです。当の本人が眠っている今なら。

 ちら、と猫を見て、それから窓の方に目を向けました。


 【後略】



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