君は碧色を泳ぐ

@aya__sj

君は碧色を泳ぐ

駅の南口から真っ直ぐに下ったY字路にある花屋は、母が二十代の頃からあるという。

その右側に伸びる道が、私のアパートへと続く道だ。

この道をしばらく進むと、緑道に合流する。

まだ日は落ちておらず、空はオレンジ色と濃い桃色のグラデーションに染まっている。


母は昔、上京してこの辺りで一時、一人暮らしをしていたらしい。四十年前の景色はどのようなものだったろう。

現在では一戸建てもアパートも、その半分の年数にも満たないであろう、比較的新しい家々が立ち並んでいる。家と家の間で、百日紅サルスベリの花が揺れていた。


緑道まであと一歩、というところで、綱の張られた区画が左手に見える。ここにも近々、新しい家が建つのだろう。

それだけならいつも通り素通りするところだが、思いがけず違和感の塊のような存在が、帰宅する私の足を止めた。

土地の中央に鎮座する、この場にあまりにも似つかわしくないもの。

深い緑色をした、布張りの古めかしいデザインの一人掛けソファがそこにあった。


今朝こんなのあったっけ……?

なんだろう、このシュールな存在感。

思わず携帯を取り出し、一枚写真を撮る。

今日の日中にでも誰かが運んだのだろうか。

工事の人が使うにしては不自然だし、この土地の持ち主のものだろうか?

それにしても何故。何のために。


暫し立ち止まって考えてしまった私だったが、ずっと見ていても仕方がないので、再び歩き出すことにする。が、その瞬間、誰かの声に引き留められた。


「……ぃ、おい、そこの子や」

「え?」


振り返るが、誰もいない。


「おーい、こっちじゃ、こっち」

「へっ、わ、私ですか」


キョロキョロと辺りを見回す私に、答えて声は言う。


「他に誰がおる。ほれ、ここじゃ、椅子じゃ、椅子」


もう一度ソファに目をやると、半透明の小さな人の形が現れ、見る見るうちにしっかりとした実体を持っていった。

現れたその人物が、口を開く。


「ふむ。ここ最近何やら懐かしい匂いがすると思えば。あの子によう似ておるの。ほれ、もっとよく顔を見せい。」


衝撃で空いた口が塞がらない私は、声を発することすらできないでいた。


「……はぁ、やれやれ。久方ぶりに人の子を呼び止めてみれば。そんなに驚くことはないぞ。お主の母親を知っておるだけじゃ。」

「……は、母を?」

「おお!やっと口が聞けるようになったか」


せいぜい十歳くらいの背丈の、大きな目をした美しい少女。前髪は目の上で切り揃えられ、長い黒髪に、一筋の白いメッシュが入っている。椅子からぴょんと飛び降りた彼女が、私をにこにこと見上げる。


「うむうむ。やはりよく似ておる。意思を持った強い眼。似ておらぬところもあるし父親は知らぬが、やはり、あの子の子じゃな」

「……」

「お主の母親、ちょいと前にこの辺りに住んでおったろう。」

「ちょいと前って……多分四十年とか前ですけど」

「そんなもん我にしてみればちょいと前じゃ」

「ええ…」

「昨日のことのようじゃ。あの子は毎朝毎晩ここを通っておってのぅ」


突然現れた、古風な喋り方の少女。それが自分の母を知っていると言い、懐かしさに目を細めている。あまりの展開に私は目を白黒させるしかない。


「この地の生まれでない女子おなごが一時的に暮らした場所に、同じくこの地生まれでないその娘が住まうようになるなど、どうしてなかなかあることではないんじゃ。しばらくぶりの懐かしい匂いに気がついて見てみれば、お主が母親と同じようにこの道を歩いておるではないか。我にはすぐに、お主が彼女の子だとわかった。」

「え、あの、匂いって……そんな昔の母を知ってて、それで私がわかるって……えっ、もしかしてあなた……神様とかですか?」

「世界、万物、生きとし生けるもの。それら全てを形作り見守るのが神じゃ。そんな大それたこと、我にはできん。我も作られた身。この地が今の形になる前から生きておる、人間とはちっとばかり違うものじゃ。」

「は、はぁ」

「お主、名前は」

「紬、です」

「母親はさゆりとか言ったか?」

「そう!そうです!本当に知ってたんだ……」

「まぁな。なに、母親の名前は、友人らが一緒でわいわいと帰る時に、そう呼ばれておったのよ。いや、懐かしいのぅ。あの子に子が産まれ、こうしてまたまみえようとはな」

「……」

「立ち話が長くなってしもうたの。お主さえ良ければ、歩きながら話そう。お主の家までじゃ」

「えっ、あ……はい」


次々にもたらされる驚きの数々にパンクしそうな私は、思わず首を縦に振っていた。

私たちは並んで歩き出す。

彼女は嬉しそうに鼻歌を歌い始める。

気がつけば、普段なら帰宅時には家路を急ぐ人や犬の散歩の人、ジョギングの人など多くの人に出くわすものだが、何故か今、通りには私たちの他に誰一人として通行人はいないようだった。


「……あの、何とお呼びすればよろしいですか?」

「おお、そうじゃったな。我は颺。」

「ヨウさん……あの、ヨウさんは、この辺りに住む人をみんな知ってるってことですか?」

「まぁ、そうじゃな。じゃが、我とて何もかも記憶しておるわけではない。お主の母は……なんというか、我にとって印象深かったんじゃろうな。」

「母が?」

「ああ。」


颺は視線を、菫色になった遠くの空へと移す。


「ある時、あの子がこの道を何度も通るのに気付いた我は、この地に新たな住人が増えたのだとわかった。彼女の両の眼は好奇心で輝き、一目で夢を持つものとわかる、意思を持った強い眼をしていた。」

「彼女は何となく目を惹くものがあって、それから我は彼女を見ていた。その日何かあったのか、泣きながら帰ってきたこともあれば、友人と酔っ払いながら笑い合って帰る日もあった。拾った猫を懐に入れて話し掛けながら帰っていくこともあったな」

「ああ、猫はすごく、母らしいです。泣きながら帰るとか酔っ払うとかはあんまり想像できないですけど……母にもそんな時代があったんですね」

「はは、そうじゃな。──さて。ここにこうしてお主がおる。良い相手には巡り会えたのじゃろう。お主を見ておれば、愛を受けて育ったのがわかる。生き方、幸せの形は決してひとつではないが──あの子の、あの頃持っていた夢は、叶えられたのじゃろうか」


颺が真っ直ぐに私を見つめる。その表情は昔を懐かしむものから、真剣な表情へと変わっていた。


「えっと……絵のことなら、私が生まれたり、しばらくは大変だったみたいですけど……でも今でも辞めてはいないですよ。時々描いてます。展示会に出したり。夢が叶ったかって言われると、それはちょっと本人に聞かないとあれですけど」

「いや、それなら充分じゃ。良かった。世の中、自分が好きだった、大切だったはずの事を知らず知らずに手放し思い出すこともない、そのような者がどれだけ多いか。別の幸せを見つけたならそれはそれで喜ばしいことじゃが、ない時間の中でがんじがらめになって、何を失ったかもわからぬ喪失感ばかり抱えて生きておる者が多くいることも確か。あの子が子を持ち、尚且つ自分だけの大切な事も忘れておらぬのなら、こんなに嬉しいことはないわ」


破顔した颺はそう言って、私の知らない歌を口ずさみながらスキップをし始めた。

変な人だ。悪い人ではなさそうだけど。いや、まず人と呼んでいいものかわからないけれど。

私は結局彼女が何者か知らないのである。

数メートル先で上下する小さな背中を、私はなんとも言えない不思議な気持ちで見つめていた。

今の私ぐらいの歳の若き日の母の姿は、にわかには想像することができない。

母は、他の人と何が違ったのだろう。

この颺という謎の存在が、これだけの年数を経てもずっと忘れずに気にかけていた母──


不意に漂い始めた甘い香りのする方を見れば、それはジャスミンが咲き誇るうちの隣家からくるものだった。

私は立ち止まる。


「あの、ここ、家です。」

「おお、もう着いておったか。」

「はい。……あの、お茶とかなんか、いります?」

「これはなんと!気が利く子じゃな、ではせっかくじゃから、お言葉に甘えさせてもらうとしようかの」


自分の口から飛び出した意外な言葉と、それを快諾されてしまったことに信じられない気持ちになりながら、私はオートロックのドアを開けるのだった。


「狭いですけど…」

「気にするでない。何せ人の子の招きを受けるなど、ここ三百年で初めてのことじゃ。我も気にせん。」

「さ、三百っ……?」


細長い廊下兼台所を抜けると、ロフト付きのワンルームが現れる。荷物を下ろして上着を脱ぐ。帰宅してすぐの部屋はもう蒸し暑い。エアコンのスイッチを入れていると、後ろからついて来ていた颺が急に声を上げた。


「……お?おおー!!これは!!」

「えっ、何!?」

「お主、風情がわかる奴じゃのー!この瓶、今でもまだ売られておるんじゃな」


颺が目を輝かせていたのは、数日前に5本まとめて買い溜めしておいたラムネの瓶だった。


「ラムネ……?ヨウさんもお好きなんですか?」

「ほう、これはそう呼ぶのか?一時はその辺を童らが皆これを持って歩いておってなぁ、皆あんまり嬉しそうで、美味しそうで、どうにも気になってなぁ」

「よかったら、おひとつどうぞ。」

「良いのか?!有難いのう!嬉しいのう……」


ひどく興奮した様子の颺にソファに座ってもらうと、私は瓶の上部の包みを剥がし、キャップを分解する。颺は足をパタパタさせながら首を伸ばして私の手元を見ている。ビー玉を内側へと押し込み、颺へと差し出す。

手渡された瓶を両手で受け取り、細かい泡がキラキラと立ち上るのを興味深そうにじっと見つめる彼女は、この時初めて、見た目年齢相応の小さな少女に見えた。

口を付ける時に泡が少し顔に弾けたようで、初めての感覚だったのか、目を瞬かせている。

こくり、こくりと細い喉を鳴らして、颺はラムネを飲む。


「……どう、ですか?」

「美味い!甘いっ!なんと爽快なことか、今の人の子は童のうちからこのような甘美なものを口にできるとは幸せなことじゃのう!」

「そ、そんなに感動していただけたなら良かったです。美味しいですよね、ラムネ。特に夏には」

「皆がこれを持っておった理由もわかるというものじゃー、うーん美味い!なんたる至福……」


うんうんと頷きながら、颺は残りのラムネも飲み干してしまった。あまりに嬉しそうなので、釣られて私も笑ってしまう。


「いや、今日は本当に良い思いをさせてもらった。感謝するぞ、紬。」

「あ、いえ、こちらこそ。最初はもちろんびっくりしましたし、今だってそれは同じですけど、私も昔の母を知れて良かったです。あと、母をそんなにもずっと気にかけていただいて……なんていうか……ありがとうございます。」

「お主は本当にあの子に似ておる。その眼が映す心まで、な」

「そうでしょうか、見た目はたまに言われますけど、心って言われると自分ではちょっとわからないですけど」

「似ておるとも。我にはお主が何を志す者なのかはわからぬ。じゃがお主の中には、彼女と同じ光が見える。お主もこの先どうか、自分の大切なものを失くさぬようにな。増える分には良い。見失わないことが大事じゃ。」

「……はい。」

「そろそろ、我はお暇するとしようかの。玄関まで送ってくれるか。」

「もちろんです。」

私たちは同時に立ち上がる。


ドアを開けると、一陣の風が吹いて、翻る自分の髪に視界が一瞬遮られた。

どうにか前を向くと、風に包まれ宙に浮かび上がった颺が、こちらを見て微笑んでいた。


「達者でな、紬。」

「ヨウさん、あなたって一体……あの、また会えますか?」

「さて、の。」


悪戯っぽく笑う颺は、神秘的な美しさを纏っていた。

「ラムネ、美味かったぞ」

巨大な鳥が羽ばたくような音と共に、夜の闇へと彼女は消えた。


「……行っちゃった」


ジャスミンの香りだけが、先程と変わらずそこにあった。

お隣さんが自転車で帰宅し、立ち尽くす私にこんばんは、と声を掛ける。

我に返った私は、挨拶を返す。


もう一度家に入ると、室内はすっかり涼しくなっていた。

サイドテーブルには自分と颺が飲んだ2本のラムネの空き瓶がそのままになっており、先程のことが夢ではなかったのだと知る。


「……三百年前とか、江戸時代じゃん」


どうして今日、あんな場所にいたの?

あなたは何年生きていて、普段はどこにいるの?

親子って、離れて住んでいても似た匂いがするものなの?

帰り道に人がいなかったのは、あなたが何かしていたの?


出会いの衝撃とラムネを前に興奮するあの勢いに気圧されてしまったが、冷静になってみれば、聞きたいことは、まだまだ沢山あった。


「天使か何かだったのかな」


今日のこと、お母さんに言ったら何て言われるだろう。まず信じてもらえるだろうか。

ラムネ瓶を手に取る。

碧色のビー玉が、カランと音を立てて底に落ちた。



******



明くる朝、私はいつもより早く家を出た。

七月と言えど、この時間はまだ幾分涼しい。

昨日颺と出会ったソファは、まだそのままそこにあった。

辺りには都合良く誰もいない。

周囲に張られた綱を跨ぐ。

私はラムネを取り出すと、ソファの上に立て掛けた。


「……開け方、覚えてます?」


答える者はない。

どこからか羽音が聴こえた気がして、私は耳を澄ます。

きっとまた、どこからか見ているのだろう。

私だけでない、この道を、この街を。

仰ぎ見た空の青が眩しい。


「……行ってきます。」


ソファの背もたれにそっと触れる。

私は、歩き出す。

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