第11話 赤月霧夜 (死)
いけねえ、忘れるんだ。佐次郎は死んだ。死んだ奴のことを考えても仕方ねえ。
体が冷たくなってきた。桜の切り株に染み込んだ小便も臭う。こいつはいけねえ。この煙草をさっさと吸い終えて出発しよう。
そう考えていた時だった。白霧の向こうに人影が見えた。ヨタヨタとした足取りでこちらに歩いてくる。風で眼前の霧が散ると、その姿がはっきりと見えた。顔面を土色にした弥助だ。着物は前を開けたままで地に引きずっている。腰巻も帯も巻いていない。
「弥助、遅かったじゃねえか」
俺がそう言っても弥助は返事をしない。
「まあ、無事で何よりだ。ところで、どうしてこんなに遅くなった。もし永井の旦那を殺し損ねてその場から逃げる事になったら、それぞれ別の方向に逃げて、なるべく早くこの地蔵の前に集合する、そう前もって打ち合わせておいたろう」
「……」
「どうした。なぜ黙っていやがる。まあ、言えねえやな。分かってんだぜ。てめえ、あの金をくすねようとしやがったな」
「あ……」
「佐次郎の馬鹿が一瞬だけ『金を隠した大楠の所』と口走ったのをしっかりと聞いていやがったんだろ。だから、大楠の所まで金を掘り返しに行ってたんじゃねえのかい?」
「あ……う……」
「だがな、俺は馬鹿じゃねえ。実はな、佐次郎には先に行かせて、その千両箱を大楠の
「……う……うまく走れなかっらんら……」
「どうした。まだ酔ってんのか。俺もちいっと飲み過ぎたみたいだ。どうも、記憶が前後しちまっていけねえ。佐次郎は永井の旦那を刺した後、おまえが斧を振り下ろすよりも前に永井の旦那に殺されたんだな。冷静に考えてみりゃあ、そういうことだ。そうでないと辻褄が合わねえ。俺は滝の冷や水で顔を洗って正気に戻ってから、その佐次郎の死体を見つけたんで、驚いて腰を抜かしちまったんだな。まったく、情けねえ話だよ。おめえだから正直に言うがよ。ほら、今でもこうして小便を漏らしちまって……」
「ち……ちらう……そうりゃわ……」
弥助が首を左右に振ろうとしたのは分かった。左、右の順に。でも、左を向いてから弥助の顔の左半分は右を向かなかった。右を向いたのは、真ん中から真っ二つに割れた頭の右半分だけ。
魚の開きのように頭を左右に開いた弥助は本来その中に詰まっている物をぼとぼとと溢しながら直立したまま真後ろにゆっくりと倒れた。
俺は瞬きをしたまま、咥えていた煙管で煙草を吸った。霧が前を覆う。その霧の中から声がした。
「おのれ、謀ったな」
俺は手から煙管を落とした。この声は永井十左衛門の声だ。
「ば、馬鹿な。確かに殺したはず。馬鹿な」
「是非に及ばず。許すまじ」
「いったい誰でえ! 霧に乗じて俺をからかいやがるのは! この俺が『無慈悲の藤七郎』と知ってのことか!」
「無論、百も承知。故に慈悲は掛けぬ。もう、うぬは斬った。ふ。霧と申したか。霧ではない。それはうぬの首の斬り口から漏れる煙草の煙よ。愚か者が」
何を言っているのか分からなかった。気が付くと、幻影のような永井十左衛門の姿が目の前に立っている。その死人のような顔で、冷酷な眼差しをこちらに向けていた。鞘に入れた刀を腰に
ま、まさか、俺はもう斬られていたのか……。
下を向こうとすると、急に目の前から霧が晴れた。同時に周囲が赤い霧で覆われ、視界が高く上がる。下の方で、桜の切り株に腰掛けたままの、首を無くした俺の体が一瞬だけ見えた。
永井十左衛門の姿は無い。あれは何だったのか。だが、もう考えることはできねえ。
嗚呼、夜空で満月がくるくると回っていやがる……。
(了)
だから読むなと言ったのに 改淀川大新(旧筆名: 淀川 大 ) @Hiroshi-Yodokawa
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