彼女と私

東雲そわ

第1話

 好きでもない相手と寝ることを彼女は心底嫌っていた。

「そんな仕事もうやめなよっ」

 平日の昼下がり。客の疎らな喫茶店で、怒気を孕んだ彼女の声は少なからず注目を浴びた。

 そんな仕事。今まで何度も彼女に言われてきた軽蔑の言葉。彼女は私に対して抱く感情を、いつも隠すことなくありのままにぶつけてくれる。

 見知らぬ相手。不特定多数。容姿も性格も性感帯もまるで違う男性達に行う行為。剥き出しになった男の欲望を無防備な身体で受け止める女の仕事。

 一般的に見てもあまり褒められた仕事でないことは理解している。私自身、公然と職業を明かすことが出来ずに困った経験が何度もある。それでも私は、この仕事を辞めようとは思えなかった。

 辞める意思を見せない私に、彼女は苛立っているようだった。いつもならここで悪態をつきながら煙草に火を付けるところなのに、今日の彼女は違っていた。

 一ヵ月ぶりに会った彼女は化粧を少し変えていた。彼氏がまた変わったのだろうと思っていたら、どうやら結婚が決まったらしい。すでに婚姻届けも提出済みで、お腹の中には赤ちゃんがいるとのこと。きつい印象がどことなく穏やかに見えたのは化粧のせいだけではないのかもしれない。挙式はまだ未定らしい。

「どうして辞めないの?」

「天職だから」と言ったら彼女が悲しむので言わなかった。私はまた何も言えないまま、彼女の代わりに煙草に火をつけた。

 仕事を始めた理由は借金だった。私の知らないところで増え続けていた身内の借金。返済能力があったのは残された私だけ。何年も切り詰めた生活をして地道に働けば返済できる程度の金額だった。けれど、何よりも時間を惜しんだ私は短期間で返済できる道を選んでしまった。そのための手段。頼る当てのない私が考え抜いた末に見つけた唯一最善と思える選択肢だった。大学を中退したことだけは心残りだったけれど、そのときの感情ももう色褪せてしまっている。

 男を喜ばせるのは簡単だった。親しい友人のように触れ合い、愛を誓い合った恋人のように囁き、機械的に腰を振るだけで大抵の男性は喜んだ。中には機能不全のまま終わる男性も少なからずいるけれど、彼らは一様に私と過ごす時間に対価を払った。

 一時間あたり二万円。

 私が高級な部類ならもっと多くの金額を得ることもできるけれど、幸か不幸か私は至って平凡だった。巧みに化粧を施しても、艶やかな衣装で着飾っても、一皮剥けばどこにでもいるような女でしかない。

 ただ一つだけ違うのは、今の私には値札があること。この仕事においては、私という存在は一定の商品価値がある人間なのだ。何もかもが曖昧で不完全な世界にあって、確かな存在価値がそこにある。その安心感から、私はまだ抜け出すことができないでいる。

「結婚式には呼ばなくていいよ。私みたいのが参列してたら嫌でしょ?」

 彼女を思いやって口にした言葉。後から考えれば、それは彼女を侮辱する言葉でしかなかったのかもしれない。

「馬鹿言わないで。絶対呼ぶから、来なかったら絶交だから」

 語気を強めて睨む彼女に、私はいつになく動揺していた。息苦しさを覚え、不意に溢れそうになった涙を隠すように、吐き出した紫煙が彼女との間に幕を作る。

 彼女が本気で怒る姿を見るのはいつ以来だろうか。黙って大学を辞めたとき。相談もせずに仕事を始めたとき。仕事で悪い病気をもらったとき。愛人関係に至ってしまった男性の子供を堕ろしたとき。

 彼女が正義感や倫理観を口にしたことは一度もなかった。あくまでも感情的に、直情的に、怒りを露わにして、私を非難し、この仕事を、私を抱く男達を心の底から軽蔑している。自らをないがしろにする私を、それを容認せざるを得ない自分自身を、彼女はきっと許せないのだ。

 紫煙が晴れる頃には、互いに冷静さを取り戻していた。

 場を取り繕うように、通りかかった店員を彼女が呼び止める。

 彼女は聞いたことのないハーブティーを頼み、私は何も考えずにコーヒーのお代わりを頼む。

 しばらく無言の時間が続いた。

 彼女が私と友人を続けている理由はなんなのだろうと考えるときがある。

 学生時代から仲の良い友人ではあった。同じ高校を卒業し、学科は違えど同じ大学に通い、同じ男を好きになったこともあった。私が大学を中退して、友人達の日常からいなくなったとき、それらの関係はもう終わったものだと思っていた。現に彼女以外の友人とはそれ以後会ったことがない。でも彼女だけは、今もこうして私と顔を合わせている。何かと理由をつけては、人の都合も考えずに、夜行性の私を真昼間に呼び出すのだ。その理由も彼女に聞けば教えてくれるのかもしれないけれど、怒られるのが目に見えているので未だに聞くことができずにいる。

「せめて煙草ぐらいは止めなさい」

 自ら注文したハーブティーの香りに顔をしかめながら、彼女が私に言った。

「どうして?」

 煙草を辞める理由なんていくらでもあるというのに、我ながら間抜けな質問をしていると思った。

 たぶん、私は怒られることを期待していたのだと思う。彼女の反感ばかり買おうとする、私の悪い癖だ。

「私が止めたんだから、あんたも止めるの。煙草止めないと、子供が生まれても会わせないからね」

「……それは困る」

 反論の余地はなかった。そう遠くない未来に生まれる彼女の子供。彼女に似ているかもわからない子供の顔を思い浮かべ、理由もなく会いたいと思ってしまった私は、きっとこれから先も彼女の友人でありたいのだろう。

 渋々灰皿に煙草を押し付ける私を見て、彼女は珍しく満足そうな笑みを浮かべていた。

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