第2話
寺の座敷で机の向こうに老人の和尚と小僧さん、僕がいて皆座っていて三人である。
一度小僧さんと僕が室に入った後、和尚様を呼んで来ると言って小僧さんは出て行った。それから和尚様がやって来て、しばらくしてまた小僧さんが茶碗と急須の用意を持って戻って来た。今は、小僧さんが持って来たお茶をいれるのを待っている間で、小僧さんの仕草で畳に衣擦れがするのと茶碗に水が注がれて泡が立つ音が聞こえる他は、誰も黙っている。
一間許りの畳の室で、内は余程明るかった。目が潰れそうな程であり、これ程の光量が廊下へ漏れて来ないのは全く寺の造りの重厚なのを示してもいる。和室の奥に一面へ閉ててある障紙から裏庭の光が透いて来て、畳の面も壁の中の柱も明るく映えていた。部屋の寸法をそのまま小さくしたように中央に長方形の脚の短い卓が置いてあった。障紙の奥に立派な庭があると思うのだけれど、障紙が閉ててあるから分からない。ただ、黒い植物の影が障紙格子に揺れていた。
「庭に水が湧きます、どうぞ」
小僧さんが外へ出ていた時、和尚様には自分が八尺様にどうしても会いたいのだと云うことを話しておいていたが、和尚様は何も言っては下さらなかった。お茶が入ったらしい、小僧さんが湯の入った茶碗を置いてくれた———それも茶碗一個だけ、僕の前だけに出してくれて、和尚さんも小僧さんも手を出さずに黙っている。和尚様は、長い痩身に光が当たって軽そうに、畳を足で擦ってズルズルと室へ入って来たのだったが、それ以来眠るように伏せていた顔を今は上げて、小僧さんの方を見ている。小僧さんは明るい室で見るとますますけざやかで美しく、白の刻明に黒い線が付いて水際立つ人体を成しているようで、明るい障紙格子に松の影が黒く揺れている太いのに見比べ考えると意味が不明瞭になる程綺麗な存在だった。その、殊に美しい白い頬や小さな首元を僕が覗き見ていることが出来るのは、茶碗を僕の前に置いた後横顔を向けて小僧さんは老和尚の方を視たからで、机の向こうで二人は一瞬、会話するように無言で視線を合わせていた。
……一口は飲まないと失礼に当たり流れが悪い、こちらとしてはもう言うことも無いのだから何か話してもらいたい、そう思い僕は茶碗の中身を半分程空けた。また、その様子を和尚様も小僧さんも黙ったままでじっと見詰めていた。
「どうな?」
と初めて口を開いた和尚様に訊かれて、答えようも無い。舌の澄み切るお茶を呑まされた。それでも僕は、机に手を落として正座して座っていた。机から身体をひねると自然と明るい方へ姿勢が崩れて視が向いた。あんまり崩すと明る過ぎる光を浴びて白く浮いた首が据わらなくなる。茶を飲んでから———心なしか室の内が明るくなっている。いや、どんどん明るさが強くなる。影も強まるが、小さな頃眼病の治療で薬を打たれて瞳孔が開いたことのあるあの時と似て視界中央の光源が瞼を閉じても逃げられない程で、白い光が塗り潰す。
和尚様が室の中に立ち上がり、明るい畳の上を、障紙の方へ向かってからまた机の横に戻るのが見えた。
「今日は暑いかな、角裏に井戸があるのだ」
目が痛いのに意地悪くもワザとらしくそんなことを呟いて、障紙を開け放ったようである。カタリと障紙が庭に開いた時、地響きがしたかと思った。哮り込んで強烈な明かりは、庭が白く浮かぶように光っていて、一瞬見えた、奥の、遠くに離れている外壁の高い黒さもかき消えんばかり。葉が見える……ツツジの植込みも見える……白い乾いた地面が落ちている。障紙は大きいから、畳を延長して行ったもうそこが縁で一段下の庭である。本当に明るい。白が全てを覆う。後ろの空も広いのだろうけれど。
これは……眼に白光が溢れるからばかりでは無い、飲んだ茶の舐め残る舌から頭の内容も内側から踊り出し、思考が白く塗り潰され流麗に濁らず溜まらず空回りして溶け出す。ああどうしたことだ。
和尚様は差し込んだ光の綾の中に浮かんであやふやと消えてしまったようである。どうしたことだろう。庭を見るから横目では光が飛んで分からない。光が飛んで、和紙が明るい水に溶けた勢いを思え。光の上に攫われてくるりと漂っているのだとも思われたが、和尚様がそんなに小さいはずは無い———分からない。入り口の方へ見えない———もしくは見え過ぎる眼で振り向くと、小僧さんが涼しげな目を伏せている、それは大きく良く見えた。茶を入れた後近付いて、机の、僕に近いところに座っていて、例えばいざ僕が体調を崩し倒れるようなことがあればすぐ抱き起こすつもりでもあるように見えていた。僕はもう———思考も回らない。だから何がどうして、僕がどう何をどうすれば良いのかも理知で分けられない。ただ小僧さんのその白いのが可愛くて、何だか食べてしまいたい気がした。しかし室はますます明るく、庭がますます眩しく、空気はますます軽く、空は寂しく、まるで一人である。
どこかで座禅でも組み光の上を小蟹のようにクルクルしているはずの和尚様が、極小の影から話す声がする。僕がこんなに苦しんでいることに気が付いてないらしい。———何だかその声に僕は悪意を興してしまう。その優しい優しさ。ここは庭から差す暑苦しい白光り。和尚様はおいしい茶を呑ませてくれて、客人が飲むのをニコニコ見ていただけなのに。
「いいかい、儂が初めてそれを見たのは洞窟でのことだ。老僧がこの寺で修行していた修業時代の時分のことだ。
山の上は洞窟へと山の頂上の坂からもう一段上って平たい道が続いている。入り口まで白壁が絶壁へ弧を描いて大きく曲がっているところがある。そこにも細い松が生えている。日が照って、途中から洞の前まで誰一人とも会わなかったが、そこを登って行くと降りて来る人がいる。逃げ反って来たらしい。この先の洞の闇の怖さかな、まあ———半身になり道を開けて通してやろうとすると、すれ違う距離まで来た、いやその顔の引きつり様が尋常では無かった。くるくる来ると叫ぶ逃げろ!と。
変な風がビュウビュウ吹き始めて、しかしまだ白く照りつけて松の陰が落ちている暖かい道の上を歩いて行くと洞窟の前まで来た。洞の奥に灯りが差すようなんだ、提灯の明かりのような赤みと丸いオレンジの、うるんで壁に温かい陰影が差し、眼中に丸あるい明かりがボウと広まった途端、儂は昼の坂を駆け下り逃げ戻ってしまったよ。———ああ怖いこんなところは帰ってしまおう、光が壁の白さや山辺の草に明るくて涼しい風がビュウビュウ吹いて、他人は右の道へ行ったのだけれど、若い儂だけ真っ直ぐ降りて行って、とうとう一人だけ左の道へ。それをどこか右の道から上がって壁草の上に出たような、頭より高い地面草地に隠れて見下ろしていた影のような人がザワザワ言う「おいあちらへ逃げたぞ平気なのか」「大丈夫なわけないだろう、無論駄目だね」……。儂はただ焦って耳元の風が頭上の白明へ吹き上げた影が光に刺し通され舞い切れた拍子にそんな声が残ったのだと思ったばかりで、見返りもせず、走り走る、山も忘れて自分の両腕も肩から流れるし土塊や木の根木の枝が飛んで明るい!後ろから真明るさへ出て来たものが何なのか知りもせず大の若者が逃げ馳せる。走りながら一人になったのが泣きそうな程口惜しくなる。———耳に残った声が思いの外長引いて眼球の上瞼の薄皮が重みででんぐり転ったようでわっと泣き出したい気持ち。痛覚の方へちょっと来たしたようで空気が触れた歯茎が痛む、指先も痺れる。
道端の観音堂の脇にもぐり込み身を木の板に押し付けた。洞窟から儂を追い出て来た怖い顔したものが白い道をすぐここまで来るだろう。儂は背を板に付けてぐってりと腰ずらしに仰向けに構うことは無い、戸口に何かの顔が出たら、わっと泣き出すつもりだった。
待ってる間天井へ頭を釣られるような気がして天井が頭蓋の黒い縁のようで、青い星のようなところが一瞬辺りに見えたようで、えらく喉が渇いたと思う時にはあんぐりと口を開けていた。唐突に皮膚がぼってり軟らかくなって周りで再び草木がぐるぐる回った。何も来なかった。観音堂から這い出して外を見ると、洞窟の前へ日の下へ野晒しになった尋常の道じゃった。頭を突き出して、頭に日が当たって、……。まるで誰かの片手に掲げる松明の白い炎が陽の中で消えてしまった麗らかさ。灼灼と耳元でも陽光が跳ねる、突き伸びる山も森も生け垣になったように光を浴びて輝く。洞窟の外は蔦かづらが踊る崖も砂の踏み固められた乾燥の道も浅い面に白けていて、ミシミシと鳴り軋む。ミシミシと音を出すのは儂の足の震えている観音堂だった。
結局儂は噂の化けものの姿をはっきりとは見なかった。
見なかったが忘れられぬは———その、気配。気配だ、なあ。
あの垣根も———」
と云って明るく輝く庭の方向。白い。
和尚様に合図された小僧さんが僕を見て少し腰を浮かそうとしているのが、目を向けないでも分かった。
明るい、飲んだ水に庭から涼しい風が顔皮膚を透り吹いて来る、足がウズウズする。
「あの垣根が庭から寺の四隅をつなげて囲い、囲いの向こうへは絶対抜けられないようになっている。陽も妨ぎ風も止め高さは半分にしても外にある森の頭が出て来ないような大襖立ちのあの垣根にも———、感ずるところが、よくこれはこの子が口にする云い方です、気配が、気配が歩いている。気付く気付かないでは無い、儂達が気付くと同時に歩き出す。
殊には今日のように晴れた日だ、出現るかも知れんから———あなたも目を凝らせ。
こう、こうだ、あの———ほれ垣根が昼盛りの山の空に定規を当てる、葉がチラチラと見える、真黒な一直線に直上がなるだろう。その翳の一寸上が殊更強い光が舞う場所になるわけだが、あそこへツっと頭が出現る。
背の高い女の首から上の横顔がすっと横切って行くのだ。
横滑り生け垣と平行に———ああしかし十分以上に高い陽日さえ妨ぎるような垣根だのにな。壁を越えてそれは随分高い背だよ。
昼の影か帽子の下か顔は真っ黒、光の飽和で却って暗く……幾分小顔だろうか?さて垣根の向こうに立ち伸び上がった人の背丈を、等身を、脳裡の無意識が、いやともすれば美しい綺麗なものを想像させる、この老いた儂ですらが、膝を立てて見に出たくなる。
よく見返すとやはり帽子だろう、大きな帽子が載っている、が、それも昼光の黒い垣根なのか真昼の黒い山なのか、そんな思いで見詰めると自然の景色に溶け消えて最初からそれ自体いなかったのか、そんなことも分からなくなる。全て夢のようになって、いやしかしそこにいる……帽子を被った背の高い女が塀の外を歩いて行く、目さえ鼻さえ暗く暗く黒く光の中光の下けれどけれどけれどけれど白い白い白い———白い女。化けものの影だ、影だけがまだこんなとこまでやって来て徘徊する、影だからこそ見ているこっちもそんなことになる。昼間の光の化け物に、晴れた庭の前で儂ははっと息を詰めたくなり、床に伏して、手を揃えて顔を埋めてそこで上目遣いになるつもりになり、それを見ている」
和尚様は、雀を見ている猫がすりすりと頭を引いて尻尾を挙げるような格好をした。小さく肘を畳んで伏せた和尚様の首にも背にも、周りの床も庭に臨んで、広い空に照らし返されて白かった。しかしそれももう本当のことと思えない。頭が一層クラクラする。昼寝をしたように掌が暖かくなっていて……飲まされたお茶の夢幻を見ている気持ちになった。ぼんやりとして、白い泥濘が舌にも指にも絡み付くようで呂律が回らなかったけれど、僕はもう一度和尚に、必死に、僕は八尺様を見たいのですと云うことを話した。
声を出すのが腕を振るうような身体が斜めになるような———僕を、和尚様も小僧さんも口をつぐんで見ている。
………………。
「おいお前、何だかおかしなような、さっきからこの人は。話している儂を見ていないようじゃないか。ひょっとしてそう云う子なのか。人の顔を見ないで後ろを透かし見しているのかと思う眼附で、首がふらふらしている。
もっと井戸のの水を飲ませ」
僕の視界がぐらぐらしているのを良いことに、和尚様と小僧さんが向こうで何か話していた。その時庭か廊下の先か、きっと屋敷の外の離れたどこからかウ———んと云う大きなうなり声が一度部屋の中に聞こえた。
振り返った和尚様が、机の上にあった僕の飲みさしの茶碗へ腕をさっと伸ばしたようだった。押さえて僕の方へ。白くぼんやりゆっくりとした動く室の中で、僕は急に覚めた気持ちになった。茶碗を離して机の向こうに戻って行く和尚の腕を見たら、猫の手では無く人間の手をしていた。
それで半分残っていた茶碗の中を僕は全て喉に呑み入れた。
日の明かりが一段と増した。視界がグワングワンとする。
「もう大丈夫なんだよ、あなた。封印されたのだ。封印してもらったのだ。本当は洞窟へ行ってもらうと良かったんだが……その水でな。水を。大丈夫、もう白い女が悪さをすることは二度と無いのだ。
あれはただ時々、ほんの時々、山の洞窟から草原の草の合い間を降りて来る、昼間の光に吹かれている幻で、無力な執念になってこの寺の辺りを見ているだけなのだ。
数年前、そう云うことを専門にしている人に依頼してな———儂が呼んだ知人なんだが、そうそう、おい、その話をしてあげような。あげるから、まま、水をお飲みな」
既に和尚の姿も室の内に無いのである。畳も壁もつながってしまった、日照の照り返る室の中である。庭の左と右に躑躅を針金でくくった植込みがあり、丸い形をしていた。その産毛だらけの躑躅の枝を縛り上げる針金を見ていると、躑躅の周りを二巻き三巻きしてある針金の重なる部分が緩んで隙間が浮き離れているのに気が付いて、それが何故だかひどく寂しい、寂しい、と感じいつまでも見詰めていた。
そうして針金と躑躅の一部が映る景色だけが鮮やかに、寂しい、と見詰めていると、ぼうと明るく視界が呆けて来て、見直すとそれでもこちらの目が見ているものが曖昧で、眼球の盲点に光線が入ったように黒い木壁までがおや消えた、庭と空の間に無くなった。わっと目を醒ましそうな白日の昼間である。庭の躑躅や木はそのままに、白い光が照って照って、その間に何も無い白い地面が次第に広がって行くようだった。
世に生まれて以来普段頭の隅で寝ながらも起きながらも常に回っている思考が竹トンボのように音を立てて初めてどこかに失くなってしまった。光っているそこがどんどん中心になる。日中水面の盥舟が葦の間をくるくる回りいつか本流へ流されて行くような不思議な浮遊感があり、それを見る楽しさ、自分が見ている楽しさ、けれど見る庭に白い白い白い……。はっと思うと、自分は室の内に座っていてまだ塀の上をじっと見続けている。さやさやと山の上から日が照る。山の黒体のなだらかな高低の内に波を打って押して来るようで、庭の植込み周りの土が白く広く緊まって行くようで。壁が奥にある。
走って行って庭に下りても庭に下りたような気がしない。庭の景色がそのままであって、縁側から庭面に下りたのだか、視界四方の光が強く包んで白土が明るく浮いたのだか、その落差一段は白光に包まれて自分も宙へ浮いたまま、黒壁へ視線は着いたまま。眼底は光明に溺れている、膝が見知らぬ水の中に分け入って行くようで、けれどそれも知らない。白光が踊るようだった。黒い塀が世界を直方に押し潰すのを見ていた。
———ウフウフウフ。耳の内からの笑う声。風に澄んで渦巻いて。
風と光の切れ目流れ目のその清さ、やあ広い世界だ垣根の向こうにお空も山もと思った時にはもう庭の内にぽつり縁側からは隔てられまるで小鼠や栗鼠が見詰めた昼日中……振り返れば岩躑躅の影が伸びている昼日中……空が見えている黒い塀が建っている何故なんだろうと考える時光に吸われて音が聞こえない、代わりに鼓膜の傍で光明が鳴る世界鳴り……耳孔を通し耳を傾げる。犬のように自分が笑う声で耳に風が出来て遊ぶ。
———ウフウフウフ。
明るさ暗さ、陽光も影も聳えるは黒壁。庭を塞ぐ牆壁垣根の角から空の雲へ風が出る、見よ見よ見よ、何を見ているのか泣きたくなる……。明るくて、泣きたくて、大笑いしていたらしい。僕は庭の中央から壁へ向かって突進していた。黒壁には向こうへ簡素な大隙間が空いており、そこから僕は外へ出ることが出来るのだ。余程大きな道が開いている。……何故こんな穴が開いているのだろうどうして絶対垣根の向こうには行けないなどと言っていたのだろう、誰だそんなことを言ったのは、走り出ようとすると、後ろで、
「危ない!何をしているんです」
ギュっと左腕が重たくなり明るい庭のその場で動けなくなった。白い視界に皺が寄ったようになり、見ると手を回ししがみつくように小僧さんが僕の肘を掴んでいた。つい殴り殺しそうになったが、ぐっと我慢して、見ていると小僧さんの顔が冷たくて可愛いから止めた。
白く土の影が輝く庭から腕を抱えられたまま二人して座敷へ戻ったが、それでも小僧さんは僕を離してくれない。ずっと傍にいて僕と一緒に机を前にして正座しているから、小僧さんは僕の脇と腕にブラ下がるような重心になっていて、膝同士が当たっている畳の上の体重の体温が高い。正座する膝に光が当たり熱く痺れるのは、小僧さんだって同じことを感じていると思うのだが、やっぱり離してはくれない。
もう一度大きなうなり声が外から、今度は別の移動した方向から聞こえた。和尚様は明るい室に立ち上がり、僕と小僧さんが戻って来てから、廊下へ行き姿を消してしまった。
去り際に和尚さんが小僧さんに向かって、
「若い身空で……こんなことになるのはよくよく可哀そうだ。病院か警察に社務所で電話を……いや、やっぱりそう云う子ではなさそうだよ、一時のことかも知れん。もう少し様子を見よう。言うことがあるようならそれに合わせて大事にしておやり、よくここまで来たのが不思議……洞窟に行くならともかく寺の方に来るとはな。初めてのことだ。一人だったか、そうか一人で入って来てたのか。不安がるな、大丈夫暴れはしない、こう云う子に気の悪い者はいない。ああ、いいやいいや無理させてはいけないよ、ただそうだ洞までな、散歩がてらそれで気が晴れるかも……うん、うん、それは分からん、うん、それと戻ったら魔除けにも気付けにもなるから水も飲ましてやってな……」
僕の隣で小僧さんは頷いていた。指示を終えてから和尚様の手が小僧さんの頭を撫でてから去って行ったのを見て、さも訳ありげな手付きだったように思われて、僕は和尚様へひどく腹を立てていた。
白い光で意識が朦朧とし耳が潰れて、痴呆のように座り込み傾ぐ身体で天井前の虚空辺りを見詰めていたのだと思う。小僧さんが肘を引っ張って、僕のことを立たそうとする。
それから口を耳元へ寄せて来て、ハッキリした声で言う。
「疲れてしまいましたか。どうですご案内しますよ。
参りましょう立てますか、少しこちらへお向き下さい。
和尚様が言っていた通り、この寺の上には洞窟があります。八尺様?ああ……ええ、そうです、化け物をお祓いしたその洞窟です、それなら封印された八尺様を一緒に見に行きましょうか。大丈夫です、心配しないでも和尚様は優しい人ですし、私だって人のお世話はなれてます。
水、茶碗の水が気になるんですか。水はほらただの水、そんなに光りますか。庭に井戸があって、お祓いの人がこの水にお呪いをかけて持って行きました。あの人もまともな格好と喋り方でねえ、お寺を出る時は、山へ行ってから何であんな…………いいえ。この寺から洞窟まで行く道があるんです。
まずはほら、洞窟のパワースポットへお参りしてそのフラフラしているのを直さないとなりません。お祓いの人もまずはお堂へ寄りました。ああ、庭の垣根のそちらへは越えて出られませんよ何で見てるんです、戸の一つさえ作ってありませんですから。あなたが先刻下りたって出られなかったんです。こちらです、廊下からそこの段差に気をつけて、歩いて、こっちの角を曲がりますよ、ああ良かった目が見えるようになりましたか?そう———そうここで———外へ出る前に靴を履きますよ危ないからここで座って。そう上手。砂利庭を渡るのだから。熱いですよ。分かりますか戻って来たのですよ。
早く行きましょう、眩しいでしょう」
白い明るさに巨刹の黒い影が雲のように湧いて、柱の影が回廊に細やかに濃かった。
目を深くつむって開けたら寺の廊下を過ぎてしまっていて、小僧さんと共に砂利庭へ戻って来た。引きずられて来たのかも知れないけれど。
小僧さんの小さな身体が一度太柱の向こうの明るい世界へ出てかき消えてしまって、それから早足で帰って来た。背筋をピンと伸ばしている。
「鍵を開けて参りましたから、ちょっとの間、あちらのお堂へ入ってお仏像をご覧になっていれば宜しいかと思います。———白い明るさは垣根も砂利もあり四角は境内の形で一目広いようです、何、真っ直ぐ渡れば狭いものです。砂利が熱せられていて地とぶつかると足が凹むので注意して下さい。あそこに納屋へ入る戸のような細木で割ったガラス戸の、ガタガタ鳴っている建物がありますでしょう、入る前からすぐもう暗い、赤い、柱や梯子に塗布する朱の粉が風で飛んで擦れ付いて錆びるので、あれで本堂よりも高さがあります。本堂の御厨子には入れない仏像を幾つも置いてあります。
さ、朱が割れ目にも板目の模様にも粉で入ったあの柱から、ガラス戸で暗くなって、暗裡明面分かれて入ると一段低いコンクリートの素床の基礎の所へ外より切れた光が四角く乗ります。薄暗い中に埃も見える仏像も見える、まったく鋤や鍬でも入れてありそうな静かなところですよ、仏像も暗所では辺りの壁の木材と同じもので作られているのだと知れて、また別の角度の見方もあり、まあ少し面白いことでしょう。
腕組みしてご覧になると宜しいです。風で戸のガラスが震えますが、強いて気になりません、時間はありますから、貴方の気の済むまで休んでいても可いです。この明るい時分なら、床で跳ねた光のおかげで、外から鳴る戸も気にせずに高天井の裏まで素面のつくりが見えるかも知れません……狭いところに仏像がいて首を上げて見てもらうことになるでしょう。まあ壁に背を付けていただいて構いませんので———ただ、ちょっとでもご気分が優れなければその場にしゃがんで下さいね。
この後洞窟へ山を登ることになりますから———」
靴の紐を結び終えたまま呆と座り込んでいる僕の前で、小僧さんが指で差したままいつまでも手を下ろさないから、真横のその腕の影が大変巨大に見えた。あの柱あのガラス戸と言われても勿論座っていては見えないので、そちらを見返すと、その間に小僧さんは外の明るさへ出て行ってしまった。
頭が懶い……ぼんやりとする。砂利庭の真ん中を歩いていた時など、四方が巨大で白くて明るくて虚空に焼き潰されて死ぬ思いをした。すると小僧さんの小さな手が僕の手を握り引っ張って行ってくれた。あんな詳しい風に説明をしていたのに、その小僧さん自身が僕と一緒に建物の中まで行くと云うのは、ちぐはぐな気がした。しかし自分の言語の理解が正常かすらも分からない程呆けているのに、そんなことを詮索すべきでは無い。小僧さんの手は冷たくも熱くも無かった。
頭が呆けていて……自分が歩いて行くのさえ、日向を熊や象の背が行くのを見ているように、遠くに感じていた、そしてまた、巨象の脚下の地面にいる小鳥のように、小僧さんも、僕の足の間をチラチラ歩き動いていると云う気がしていた。そんなはずは無いのだけれど、僕は小僧さんを踏み潰しそうになる。———その洞への山道を行くと云う時もきっとずっとこんな風に進むのだろう、その日の照る坂のことに思いを寄せたら砂利地の上で口から腹の底が一本になった。
確かに直方体の高いお堂が建っていて、庭の向こうに照っていた。日が染みた影が細かくなり、地面の台座にいかにもガタガタ引けそうな横戸が上半分にガラスを挟んで立っている。昔は障紙を張ったところを、いつかガラスに貼り直したような戸だろう。
内に入ると、なるほど涼しさのある暗さ。小僧さんが先に、僕が後について、閉めて、ガタガタと鳴る音を聞くことになるのが気に掛かるので戸は後ろ手に開けたまま。
床は出口から真っ直ぐ入っていて少しく狭い。横に振り向くと堂の本当の奥行きはそちらへ懐を広げていてそこには高い、人が見上げるような床が立ち上がった上に、仏像が並べられて置かれていた。
表のガラス戸は外の光と風に押さえられている。無理に透き入り散光した光の明るさはガラス戸の震動でフウワリ埃と一緒に上がって行くから、見上げた堂の内壁の影は全てが下から伸びている。こんな閻魔堂を幼い頃に見たことがある。絵馬の額や模様彫刻から影が自然光で持ち上がっているのや、背後に重たい翳を乗せた壁柱の角だけが昼光に切り落とされたように光っている様子や。地獄絵の炎の前を顔に手をかざして逃げ惑う白肌の人達や赤鬼の和やかそうな暖かそうな、ああそれよりも堂全体の陰明るさ夕暮れの赤さにポっツリと糸の切れそうになった言い様の無い……幼き嬉しさに……立ち返ったような独特の静けさ。
今、小僧さんを追い越して、僕の方が一人仏像達の前へ来ていた。居並ぶ仏像が目が霞んではっきり見えない。上方の壁に横渡しされる細い角棒へ昼の明かりが当たり奥に消えるのが見えて、見えているのが最後で、その向こうは面に落ちた闇。面上の暗がりに置かれた仏像達も手前で一度空間と共に消失し、奥が深そうでも、その先は闇が膨らんで柔かいように見えるだけ。それは高い天井のためもあり微かな光素が混ざると奥へと引き伸ばされた間合いが緊縮して目にはざらざら密になるのだと思う。緊迫した時アクビが出るのと同じ理屈で立ち位置から朧な闇がまた群れる仏像達の頭の上を離れて柔かく伸びて行く———見上げると天井で仄かにまた闇が軽くなり高い付近の様子が薄らと知られる。
埃が内奥に吸い込まれ高天井まで静かに対流する空中の音さえ耳に聞こえて来そうな堂の暗闇に、巨大な仏像がいたから息が止まる程愕いた。
大きな顔。大きな目。大きな耳。大きな空間。蓮華座の上の大きな指。暗い中に台座の下部があり、高い木組みの天井が白々と見え、仏像と僕との空間に朧ろ気で薄いとは云わない、透けるとは云わない、均質で身と心と馴染むような、呑み下した後のぬるま湯が広がるような、どこか混雑した目を向けると何も無い静かな涼しい暗闇暗闇暗闇ばかりが入っている。対流するのだ暗闇が。光がさっと伸びて、戸の外を砂風が吹く。
閻魔堂だと思って見上げていると、そのあちらこちらが白々する闇の上から巨大な如来坐像が僕を透かし世界を透かし視線がぬっと出たから、心は潰れ瞳はそこに吸い込まれたのだ。まず闇に半ば没した仏顔の粗い輪郭が掴める。胡坐する巨大な身体も下に続いていた。赤い……のだが、暗くて色と云う感じのしない部分が多かった。台座から大腿尻も厚彫りの固まりで、腹の辺りはやはり闇の濃くなるところに沈んでいて見えない。暗がりに沈む顔や膝を外れて、造物らしく浮かぶ丸い肩が大きな翳を滑り落ちて行くところが殊に赤い、赤いは闇にぼやける、随分巨大な仏体である。
その、薄ら見える巨仏の頭部の後ろには天井の端に五色の垂れ幕も下ろされているらしい。
どこかで小僧さんが言っていたように、表面の軽そうな中身の重そうな朱木の顔は外の柱と同じ色。何だかはっと押さえられた気がした。ところが考えても何とも無い。
この巨仏の周りに十分な空間を余して壁が寄せ集まり天井が蓋されてこのお堂が建ったんだろう。———じっと見ていると、仏像の眼尻の細く上がった巨大な視線はどこを見ているのだろうかと思った。———寂しくなった。
……小僧さんは?
小僧さんは、出口のガラス戸の近くにいて、コンクリートの床に伸びる光の上に立っている。小さな身体で、そこにいる仏像達を見上げていた。風と遊び光の戸口を出たり入ったりしていたのかも知れなかった。明かりの内に小僧さんの藍色の衣服が却って濃くて、顔が真っ暗な陰になっていたようである。そちらに行くには、深い堂から明るいところへ出て行くのが一歩立ち詰まる余地が無く心残りで少し不満だった。ガラス戸が貧乏揺すりのようにガタガタと震えている。切羽詰まってもうガラス戸自身にメリ込むところに見えた。
見回すと左右の柱に書写字で衆生無辺誓願度去。煩悩無尽誓願断福。暗闇に目が慣れてしまうと五色の幕の軽さむなしさ。近く巨大きく毘盧遮那仏。
風が背後に吹く、堂の中へ風の音で外の木々の揺れが伝わる。ガラスが鳴る。瞳孔が開いたような眼の痛みをお茶を飲んでから覚えていたのはそうだ堂に入ってから止んでいた、しかし違和感の核は消えずそれは暗中のビーカーで結晶が生成されつつある静けさと云う印象を与えた。意識の内に白い染みが空白になり少し残っているまま、小僧さんの背後に立った。
小僧さんは、本堂に置かない仏像が幾体もあると言っていた。暗さを床から段上げにする高床の上には諸仏の小さな像が沢山置かれている。まだ見える巨仏の奥行きで暗がりの内は見透かせないが、土人形の合掌。地蔵様の頭巾。この屋内に安置されているのに外気に晒されたままの、ヒビの入り様黴の生え様、そんなものが戸口の近くでかろうじて見て取れる。
最前の一つに千手観世音菩薩があった。金色の仏体。丸みの悲しい綺麗な細身の立像で、ふと僕は唾液が湧くのを覚えて、この仏を喰い欠きりたく思った。狼のような突然の獣欲が口内に溢れたことに自分でも狼狽し驚愕したが、意識の白い空白のせい……なのだろうか、その驚愕が意識に乗らない。凶暴な意識は観音菩薩の金の体躯をまじろがず見詰めて、口ばかりがどんどん大きくなる。瞳を開いていた白い光の無法さは、今や心に食い入り身体中に黒く凝縮してしまったのだ。困って左右を見ても、閻魔様も雷神風神も十二尊も周りの仏像は全て色付き粘土で土人形。来るなら来い、やるならまとめてやるぞ、掛け軸も蓮の華も蝋燭も下がり物も雪洞も金の器も、光背ごと叩き割る……。
僕と高床の仏像の前に小僧さんがいる……高い天井のお堂薄闇……明るい戸の外で再再度の強い風。明るい夏の世が何故だか寒い暗いと云う言葉に覆われ内へ入って、しかも広く僕から遠退いて行った。
観音様は細身に胸と腰丸く肩の肉付きの綺麗な美男におわする。小顔にて尻太し。召し物柔かく身を覆い足元までまとわる。小さな小さな、背後の巨仏の膝が膝と認識出来難く壁となる程小さな———体長は二○センチ程かと思う。手の平に立てて乗せられそうにも思う。華奢な金像で……刻まれた影の線が細長いので色気がある。千本は当然無い、胴や頭の上で様々な姿態を取る腕がどれも細い。顎に肉が少ない。
胸騒ぎは収まっていたが、半意識で視界が開けて、僕は立ったまま次第に気が変になって行くようだった。
自分の喉の内が堂の空気へ通じて、呼気が溶けて消え、出もせず入りもせず、唇や舌尖より涼しいところで静かに、濡れた膜の上を撫ぜては戻り、動いて、耳の静けさでますます感覚する空気は増えて行く。半開いた口は今やその中に堂の体積を容れるに等しい空間がある。一度開けば口内の闇は薄闇とつながり、気は混ざり合い、口腔は寺堂の木壁と化して直立しあの巨仏だって呑むだろう。僕が口を閉じれば闇の内へあの金像はぱくりだ。閉じた口の内で歯に挟まれて千手観音の細い腕の関節がぽきりと折れるか、綺麗な背中も頭も柔かい粘膜に転がって、底の無さに沿って穏やかに無間地獄へ落ちて行く時、立つ像の尻が一瞬火のように唇の裏へ当たって感覚を残して行くのだろう。
小僧さんがこちらを見ている。薄暗い、堂のもの寂しさがまた身辺へ戻り広がって来るまで僕はずっと口をパクパクさせていた。高床の向こうに巨仏が聳え坐していて、菩薩の小像も肘を張った腕を振りかざし細い腰をひねって立った体位を変えずにそのままだった。ふと風の様子で影が薄くなり、明るい場所の色も褪せた。もう今は、唾液で重たくなった顎の動きを隠しもせず、じっとりとした視線で菩薩の肢体をねめ付けていた。
けれど熱は皮膚の外から堂の薄暗闇、薄明るみへ逃げ散じて、いまはそちらの小僧さんのいる広い静けさの方が気持ちの中心へ入っていた。これはどうしたことだろう。夢から目が覚めた後、覚めた後の世界を疑う時の目をして物事を見ている。現実感があるような無いような、知りたくもあり知りたくなくもあり、堂の暗いところを外からの明るさが高床の上面と側面で丁度分けていて、その境界が滲んで薄れてぼんやりと白くなっていた。
それを見て、堂の広い方へ気持ちが散じていると、小僧さんが近付いて来て、
「何してるんです、不思議な人ですねあなたは。そんな目が…………しゃんと立って落ち着いたと思ったら日が明るいとこにあなたはそんな顔をして。仏像は大事なものです、悪さしてはいけませんよ、いいですか、行きましょう」
暴れないと言っていたけれど……と云うようなことをブツブツ呟いて背を向けた。
斜めの影で小僧さんが僕の前に立ったので、周辺が白く退いた。そうしている間は、もう少しで届きそう所へ、寝ている両腕が身体の下にあって夢の中でどうあっても出て来ないようなもどかしい思いをしていた。また風が吹いて外から戸がガタガタ鳴る、日差しが戸口から足下の床へ這入っている、どこか高いところで揺れる木々の散光に混じってコーンコーンと打ち合うような空響きがしている。
観音堂から出て、次いで寺からも出て、昼間の寺の周りの墓の中を小僧さんと歩いて行く。
墓石に青条揚羽蝶が飛んでいる。昼の光———落ち着いた悦びは何故そわそわとする。
明るい、小僧さんと二人。ひっそり閑として石や雑草の穂先の上に陽日が皓皓と照り、山の上に山よりも高い空が遍満して白光を放っている。観音堂を出てから丘上の白い空に開けてその広さに無性に嬉しくなってしまった僕の前に小僧さんは影を伸ばして立って、先導して行く。洞窟へ登る坂道に出るためにはまずトンネルを抜けるのだが、それは寺の墓地の外れに位置する崖にまで行くと穴が開いているのだと言う。
ああそうだ忘れていた、人を待つ気でそわそわするのだった。そうだそうだ、その———八尺様を。空から下りて来るのかも知れない、背後に立っているのかも知れない、そう思って上を見て後ろを見た。その度に、まるで行動が犬のようで我ながら愉しんでいる自分の根性が下劣で浅ましいなとぼんやりと思う。僕を時々振り返り見ながら小僧さんは先に行ってしまう。墓は寺から離れるにつれ草むらが多くなり、山とそのトンネルの崖のあると云う方向へ近付いて行く。先を見ると草の中に隠れて、墓地区画を過ぎてもまだまだ幾つも幾つもある墓石が角だけ飛び出させて本体は長く土の下、好き勝手日和に照ってあちらまたあちらと、白く乾いた道の上に黒い石片が見えていた。
「さあ……どうなのでしょうね。あんまりそう云うことは信じない方が良いと思います。ねえ、あなたが可哀そうだから教えますけど、洞窟どころか生け垣にだって私はそんなものを見たことがありません。ねえ、こんな世の中に……だから、和尚様の前では気配がするなんて云ったけど、気配なんて曖昧なもの何時だって、そんなものなら今だって感じてるくらいです。きっと全部嘘なんですよ。和尚様がどんなつもりでいるのか私は分かりません。ただ、あの人が来たのは実際あったことだし、そう云う建て前で、和尚様の前では信じているふりをしていなくてはならないのです。
だって洞窟にお化けが封印されていると云う噂は、多分、観光地のために和尚様が少しずつ噂を流してもいるんですよ。何だってあんな……ええ、違う噂があるのならそれも、同じ噂が広がって普及する内にちょっとずつ変わったものでしょう。
本当にそう云うものがあるのを信じているんですか?まあ、お祓いもあったことだし……どうなのでしょうね…………」
小僧さんの言うことは冷たかった。
こんな墓石の隙間を歩いて回る背の高い女性こそは、僕の妄想に常々出る美しい八尺様の姿でもある。その背の高さ後ろ姿、ここはまさに妄想のその場所では無いかと思いついて、小僧さんに八尺様はどんな姿なのか訊いたところ、ここにそんなものはいない知らないと言って否定されてしまった。……いいや明確にいないとも小僧さんは言っていない。ただ小僧さんは僕のことが気持ち悪いのだろう。
僕にだってそれなら小僧さんが何を考えているのかさっぱり分からない。こう云う話をしたい僕に付き合えないのなら、じゃあ何でこの子はこんなところにいるのだろう。僕のことを取り扱いかねている感じがとても伝わって来る。可愛い小僧さんのことが嫌いになりそうだ。何でここに出て来たのだろう。放っておいてくれればいいのに。
振り返ると広い墓場に僕と小僧さんが二人だけ。じりじりと日埃明るい卒塔婆が横に背筋を並べて、ここはトンボの羽根で浄めたお花の咲いた、線香台に銅鉢丸い野寺墓地。美しい御影石の平切面が白天の下での光遊びをしている。清々しい天気に、紫蘇のような小斑が散らばって曇っている墓石の重い角、面と面との光が地面の上で別方向へそれぞれ向くのが小綺麗で新しくて清潔で線の鋭い長方形で、そうしてそれが通る道を照らす。照らす白道へは雑草と笹藪と椿や不見花木。昼の墓場に咲く花を見ていると口の端がだらしなく崩れて、僕の話を聞いてくれない小僧さんと思う心がふと明るくなって。
何だ。明るい。
止めよう止めよう。何を考えたって、お茶を呑んだ後先も次第に思い出せなくなるような今の僕はそんなことを考え続けられる頭で無い。
風が吹く……笹が鳴る。全てを忘れてしまった。水の中で泡を吹き出し笑う子供のように楽しい。
あの景色全て道端に生えるゴツゴツした野草も、白光に沿って水が流れるようで、笑う僕の手の指先が触れる極上止まることの無い開かれた無色多色の透明無音輝く洪水———流されて浮いた足で行く行く足並みに、ここから外れる、と思って脇の方のふわふわした景色を腕で掻くと水底が一カ所めくれて穴が開いた。これは唐突なことだ。笑顔の僕はそれでもそんなこと知っていて笑顔でいた。くるりとそっちを向いて覗き込んだ。笑顔でいながら見る前に心と手足がぶるぶると震えた。それも楽しくて堪らなくて熱っぽくて震えているのだか、心が疲れ切っていて白震えしているのだか、自分でも知らないと云うことを自分の心で知っていた。
何の気無しの僕の腕がこねて遊んで押して景色が突然めくれて開いた暗い穴の奥は、真黒な冷たい真水が立っていた。明るく楽しい世界の裏に暗い存在が流れていて、立ち止まって見ていたら、開いた暗流は流れの速さまでが違っていた。心がしんと冷えるような存在が真横にあって、覗き込んだら自分の顔とぶつかるように真正面から出会ったような。何なのだろうかこれは。白い木々が風に振動するように心がぶるぶる震えた。怖いんだろう。怖いのだろうか。怖いんだろう。にっこり。きゃっとして走り出す。突然怖くて怖くて、笑い出してしまい、草の穂が千切れて、手前の温い水を流れて、その辺りに腕がふるふると触れながら、僕は走って逃げた。八尺様を追いに来たはずが、あっと云う間に逆転して、僕は何者かに追われて逃げる心地で、怖くて怖くて、ただ怖くて怖くて、それが楽しくて堪らない。心が湧き立って逃げて、怖いから小さな笹藪の下に楽しくて耐まらず身を潜めているのだ。飛び込むと言うにも小さ過ぎる茂みだから、身を伏せて、あ、ああ、た、楽し、じっとして、頭を上げては追っ手の視線に見つかるから匍匐前進して、這い出すと、落ち着いたものだ頭や背の上にも明るいところから枯れた藪笹や落ち葉青い雑草が載って、地面に這う、ワクワクとする。何者かにまさか見つかるまいと思う高をくくるその味わいを頬張って噛み締めてくわりと口から息を出すと小気泡をまとって空まで上がって行くようで、それを見てまた大笑いしている。
ウフウフウフ。
もうそれが浅ましいとも思えなくなっていた。気を張り詰めることすら数秒後には笑い顔で鼻水を噴き身をよじる予感が楽しくて止まない遊びで、一人切りだけど隠れたいな見つかりたいな、忘れ果てて、遊びたいな日が暖かいな泥と芝草に転がりたいな、全身を掻き毟るのを我慢している気持ちの躁が苦しくって楽しくってポロポロ涙が出る。欠伸も出る。こんなところに来た後悔の絶叫だけは楽しい中にどこをどう絞っても出て来ない。
——————。
「見えましたよ」
そう言って、景色の薄白の外のとこを動いていた小僧さんが僕の肩の辺りを突ついたから、道を歩いていた僕は黙ってはっと目を開けた。何も僕はしてなどいなかった。激烈な感情の妄想に意識だけ泳がせていたらしい。腕を組み歩きながら、途中ずっと空気を入れていた口を閉じた。改めて目を開けて木の葉灰色なのを光影越しに立ち止まり見上げてしまえばもう無想無念であって、さっきまでの感情は手足の震えと疲れに残ってるのが感じられるのみだ。そうして何だか小僧さんがいてくれたことに安堵する。随分先を行っていた僕に小僧さんが追い付いて、鋭い息を僕の口辺が吸ってああ……ここはまだまだトンネルのある山崖などでは無い。そこは柔かそうな金色の草の上を爽やかな風が吹いて行く、緑影、四方、低く遠く、草のこすれる音のさやかな広い草原だった。
こんなに眠気があり覚め切れず疲れている胸に風が入って吹き、山も山のような木も眼の下に生えている草も虚空へ一つに輝いては、ふと目を閉じ首を落とした際に微風に背を追われて元来た寺の位置など分からなくなる。この辺りは寺から来てどっちだろう。
見渡していると、僕の肩を背の低い小僧さんが片手で突ついて、一瞬首を傾げて笑って、黙って行く方を指差した。
なるほど、そちらに少し離れたところに崖があり穴が開いている。
あんな穴は正式には洞門だと云うんだろう。だから、山の壁肌を取っ払い崖と宙の間に柵の柱を突き並べて導いて行く光を入れた明るい光中の穴の道が、崖に昇り崖に透け崖際に通っている。半透けの廊下は空から出入り自由で、あんなに明るい道なら吹き抜けたものは向こうでも同じ風と空だ。
寺…………は見回しても無い。草地が台地に載っかって、きっと離れた訳ではないのだろう、僕は寺より少し高い丘の上にいるのだ。草地に埋もれた丘の下に寺は墓の石の暗い出っ張りごと隠れてしまったのだろう。
朦朧として、明るい面を斜めに緑の風が吹き下りて行く、丘の草原は平ら、明るい広さ、光が皓皓と照っていた。草の先が無数に揺れ合ってサヤサヤと針……光……灼けたかのような白さを見せる。
いつの間にか平坦な丘も端に来ていたようだ。
「どうですか広い丘でしょう、昔はこの辺りは何も無くて道すら出来てなかったそうです。戦後にハイキングのコースが出来ると山の上にある洞窟が有名になり観光地として人気になりました。同じ頃山のこっち側に私共の寺が再建されました。コースとは反対側なので観光目当ての人もあまりいらっしゃいません。ここもご覧の通りです。
お墓を移すための大きな工事がありました。港からお墓を運んで来るそれ以前には、お墓も存在しなかった丘の上に今ある墓地の場所まで一面が光風を受けて膨らむ草原が広がっていたそうです。寺の外は全部草原で、墓地を伸ばすまでは昔は誰も行かない場所でした。トンネルを元からあった崖の穴を改修して工事したのもその時のことです。
草原の手前には一軒の民家がありました。お寺が出来るよりもずっと前の古い時代のことです。お寺の周囲を囲っている垣根はその古い大きな屋敷の生け垣をそのまま使っているもので、跡地へ後から寺を入れたんです。お寺の建つ前、その高い垣根のお屋敷がまだ存在していた時代から、ここの草原は人が行ってはいけないところとされていたんです。
今の季節だと、寺の庭に紫陽花の赤と青の花が咲いていますが、高い垣根の内側に植え込みが並んでいる細い通路を奥に行くと、手水場があります。それも昔からあるお屋敷の部品なんです。庭にある井戸から引いている水を青銅の竜頭が髭の内から一筋の水にして吹きます。
あの人が最初に井戸の水をいじって何とかしようとしていたのは、そう云うことからは当を得ていたことになりますか。天気が良いから今日も坂にいるかも知れない。あの人は山へ入っておかしくなってしまっただけでなく、目も見えなくなってしまったんですよ」
この野原の手前ここまでが寺の敷地です、ここにほらコンクリの杭が落ちている。そんなふうに云って小僧さんがゴンと草中の何かを蹴っていた。
草原の草の先はますます細くなりしかも風に引かれる大波、丘の光は膨れ根も深く葉も高く波を打つ———小僧さんも大腰を切って掻き分けて進む、歩く姿が隠れる。
いつかサラサラ、ああ置いて行かれる、追い掛けて先に行かないと……しかし僕の頭は回らなかった。半ば光に侵された意識で真っ白だったのに、振り返ると明るい草原に何だか怖い気配が満ちていた。暗さはなく光り輝く底が抜けそうで、ここは寺の丘、赤い焼香も線香の紙帯も曼珠沙華も、笹や竹藪から飛び出す赤色の幟も、寺の煙も、全て赤かっただろうと思う。赤いと思うのは怖いけれどでも何故だか心が固まって心強い。そう思う時に、光る野原がサラサラ押し寄せた、何を思い考えても、また分からない。可愛い小僧さんの背中を追いかけて行きたくなったけれど、殊更に白く意識が飛んで溶けて一人で僕は丘の辺の方へいざなわれて行った。
弾き出されるようにして、草原の端のごく先端へ転げ出た。草の影の内に自分で自分が紛れているのを見た。陰の中から草原一杯の爽やかな明かりが膨張していた。端へ充満し溢れ出した草の緑が人の背丈を超えてサヤサヤと膨らみ丘の終辺は崖の落差の上なのに虚空へ持ち上がり低まるどころでは無い……陽光の中で繊維を解かれたバラバラの波濤となり先が踊る、大太り、優しげな無数針の先が崩れずに出て丘の下へこぼれる。細かいものが、抱き締めるような、フカフカと、草原の丘の端。日が………………照る。
丘の下には道がある。覗き込むと丘に沿いクネクネと道が横這いに付いて、きっと十メートルもある下の地面の道は、手許から草が滑り落ちて行って、明るさの先に伏して見えるのである。草があまりにも豊かだったからそこまで下りて行くことは出来無い、また行くつもりも無かった。
下の道はあちらに低く広がるまた別の野原の際にあり、白に緑が混じったタンポポの綿毛のような色合いの、妙に淡く平らなところなのである。誰も通らない道を丘の上からずっと見ていた。大変落ち着いていたが、不思議とこの時が一番、この見ている野原にいたら、自分は気が狂う、気が狂う、と思っていた。
陽が万所から照って物を透かした。草の透明な尖りが厚く重なって腕を挟み込み先端がチラチラと明るく動いた。見下ろす下の道は黒いアスファルトである。台地の下で野原に端を喰われながらも、ゴムのような凹みを保ったアスファルト。田舎の山間に見かける、朝から誰も上を通らないような見る目の揺らぐ明るい傾斜の小道。どこかにビニール壁の一枚も無い温室の枠組みがあって中に何やら木が育っているのだ。伸びた枝と葉が押して時偶壊れた換気扇の羽根を回すのだ。そんな気がした。見詰めている間、足元は踏ん張りの利かない草……手元にある葉をずっと握り締めていた。握っていれば長い草は根から突っ張りがあるからそんな不安は無いけれど、屋根雪が宙へ盛り出した草の上を、滝の厚みの上を、日光の表層につるりと身体が転げ落ちて行くのは怖かったから———。
草の合間の深いところに、隙間にここにも、墓場の角石が隠れて頭を残しているのを見つけた。明るいところにつるやかな大理石の切り材があるのが石とも思えず、涼しげで指が届かない。周囲の草や石が気になって、押せば押す程、手が届かず、手首が宙へ游ぐ、自分の指が動くのを見て自分で驚いている。草の丸い茎がツルツルと指の間を滑って行く、灼けた穂先がどこで折れたのか透明に頭上より高い空まで持ち上がる。
取り止め無く丘の上にいる平静……腹の底が冷えるような灼熱い汗を掻いている。
……何か下からやって来る。
長く伸びた緑草が百万の蝗虫を隙間に挟む膨らみと柔かさを揃えて、ぱらぱら、細い影が道をサクサク刺しに降る中を、誰が来たかと思えば黒い影、女の子———これは誰だろう。
後から考えて、過ぎたことを思い返そうとすると日の光が脳裡で黒く浮き出て、肌は白いが黒い印象の女の子だったように思う。その黒さも光が褪せた後に視神経が戸惑ってつけただけの黒さかも知れない。野原に一本黒い道でその女の子一人だけが歩いていた。女の子が帽子を被っていたかすら確かには覚えていない。ただその子は特別背が高くは無かったようだ。
下からこちらを見上げたようだった。その子が顔を上げそうな気配があった時、僕は草の裏へ身を隠したから分からない。草に潜んでしばらく考えた。
人の身体を浮かすような、重い切り藁を注連にしたような、蒸す、温気で生える、指の入らない葉が伸びる、大きな大きな、顔を歪める程大きな草原の内に這っていると、上から中から涼しい風が抜けて行く。再び顔を出しそっと草を掻い寄せて下を覗いて見た。———その時にはもう、女の子は明るい道からいなくなった後だった。崖からこぼれる大量の草の陰で、どこへ行ったとも知れない。
小僧さんも寺も女の子も思いの外に忘れて、時々そんなことのそれぞれの位置を思い出しそうになりながら、僕はその中間で這い自然と顔が上向いてうっとりと空を見ていた。光や風が僕の頬の周りをこすった。何かを待ちわびながら忘れていて、イライラする暗さや心と内臓が窮屈を覚える不安気掛かりがある、その代わり白い面を細かい草の端に囲まれて白ら白らする光に覆われてますます僕はうっとりと低く伏す、風が広い草原に吹き抜け軽みが周囲で柔かく靡いていた。
そこまで考えが回って来て至った時、身を潜めていた大量の草蔭の向こうで小僧さんが僕を探して呼んでいる声が聞こえた。
這い出る自分を犬のようだと、先程も今もまるでそうだと思ったが、いつの間にか立って歩いていた。草から出て近付いて行った僕の笑っていた表情を見て小僧さんは怖く思っただろう。
「昔の人は洞窟までもよく行かれませんでした。言い伝えで、草原の手前の屋敷どころか垣根の向こうは本当に狂ってしまう所なのだと云って」
僕はずっと穂が顔の横を空へ戻って行く景色のことを考えていた。さっき僕が草原に這っていた景色である。あの子は———どうだろうひょっとしてこちらに気が付いたかも知れない。そう考えると…………、壊れ上がった白い空、小僧さんに後れて道を行く途中に、日光は嬉しく降り注ぎ風も和やかに頭の上を吹き続けているのに、僕はふと草の陰に首を巡らし立ち止まったりした。わくわくと息を止めもした。
道を……道を、僕は中々行かないのである。
草原が終わり崖の手前まで来た。草原のことなどとは関係無く心が白く顫動している。その状態は空腹にも似て指先まで一つ一つ皺を引き込む。働かない思考では一歩も二歩も及んでいないのに、僕の口に湧く唾液の正体を先に汲み取って身体がピタリピタリ止まるらしい。楽しいような———とても怖いような、何せ心が白く膨らんでしまってその張った上面に笑顔がついて思考しているようなものだから、こちらを振り返り何度も確認している小僧さんにも、山の魔物は人を喰う時必ず笑顔を取る、笑顔とは怖いものだ、それで僕は怖い怖いと思ってニコニコしているんだよと教えてやりたかった。小僧さんは何か知っているような諦めたような顔をしていた。向き直る時に何事か呟いたのが聞こえた。小僧さんの仕草から時間のことを気にしているのが分かったが、きょろきょろしているし、おそらく小僧さんは時計を持っていないのかも知れない。
雑然とした森の繁りが一度隠す崖の白茶面が改めて聳えて見えて、大丈夫小僧さんは心配しなくとも良い、この洞門を昇るくらいのことは僕にだって分かっている。ぴょんぴょん跳ね出したりはしない。白空へ肩と胸が開く。微風を得て一駆けだ。人肌微熱の窪んだ土を踏んで、重たい手足が軽くなる。
———薄い空の下で中に入る。
ねんころ八尺様 甘木人可 @100ken1003
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ねんころ八尺様の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます