ねんころ八尺様

甘木人可

第1話




 八尺様の噂を聞いてから胸がときめき、視界は桃色に染まり、自分ながら呼吸が熱っぽく、それ以来夜にも眠れなくなってしまった。———恋焦がれしたのだと思う、動悸さえ苦しい。

 

 早朝の勤め人が走る東京駅を使う身からすれば元から山陽地方の方にそんな白い女の話があるのはどこかで聞き知っていたけれど、大真面目に心に染み込んで来たのは、食事する友達の無駄話で、他愛無く口に出された、なるほど真昼間の夏の光の中に人の丈を恐ろしく外れた背の高い顔を隠した女の幽霊だか妖怪だか、綺麗な服を着た楚楚としたものが、空広く雲近い山合いをスルスルと歩き回り伸び回っていると云う話中身の光景にも似合って、明るい、おどろおどろしいところの無い噂だった。

 自分で目視したので無く勿論噂の又又聞きだと言う———その、去年に瀬戸内海の路線を18切符で一週間旅して来た男友達。駅から駅へ、波止場から波止場へ、街から街へ、彼と心の通じた友達としては言わずと知れた一人旅で、宿に泊まるのも嫌いな、人見知りの激しい他人に心を開かないその彼は旅先の情報を現地収集などしはしないから、その話も、向こうの定食屋で注文した料理を待つ間に不図聞いたのだと言う。

 瀬戸内海群島のフェリー港の建物の陰で明かした夜は大型ライトの点く深更に大きな猫を連れた老人が三度も彼が座る前を歩いて通り過ぎたと云うことをさも面白そうに話した後、関西では小学生の子達がにゃあにゃあ電車の中で話している、それがもっと向こうの方言はもっと動物染みていると云う話になって、料理屋で聞くとも無く聞いた話を、方言と身振りの真似も交えて教えてくれた。瀬戸内海のその島の港町の魚料理屋では彼はテーブルに座っていて、カウンター席の二人の中年男が交わす言葉を横目で聞いていたらしい。

 良いかい、犬や狼のような喉の唸りが彼地の方言の特徴で、喉のグルルルと云う響きが会話の合間に入るんだ。グルルルで喉を通しながら一人が話し始めると、もう一人がグルルルと語尾を引く声で応じる、二人してカウンターの上を肘でこすりながら、何を熱心に話しているのだろうと聞くと、話の内容は、おい最近また出るらしいな……何がさ、何が———八尺様が。グルル八尺様は丘の野原の上の山のお寺の垣根の向こうにグルル伸びて———美しい女が消えて行く墓石の並びの角に一面日が照って、グルルルル———。ね、カウンターの二人は向き合って、二人ともその唸り声を出して犬のように口の尖った横柄な睨み面をしていた。とにかく瀬戸内海本州沿いの○○と云う無人駅で下りると晴天真昼間の山合いにそんな白い女が影を作っていると云う話なんだ。グルルルル———。

 そこで彼は吹き出してしまい、しばらく笑い続けてしまったが、聞いていた僕としてはそれどころでは無かった。冗談で無い程噂話の光輝を受けて眼の中が明るくなり、胸が苦しくなった、——————かんきん、かんきん、と明滅する空鳴りがする、手足が僅かながら顫え続ける。目の前が真っ白になって、どんな顔を自分がしていたのかも覚えていないから、彼もひょっとしたら僕の様子がおかしいのに気付いて黙ったのかも知れない。

 普段無く僕も彼も黙り込んでしまって、その日はそれで別れた。

 夏に近付いていた季節で、丁度去年の夏の旅話として友達の話を聞いたその日から、その晩から、———恋の病に憑かれてしまって一睡も眠れない。

 目の中に常に水辺があって、チャプリチャプリと波を打ち、光る水面を見ているように白く、明るく、意識もほとんど定まることが無い。一人でいる昼の温かさについ一瞬うとうとすると、山や野や寺や噂話に出て来たものが浮かんで、頭を振っても手を振っても消えないから困惑する。夜布団に入り寝られない眼を閉じていると、長い長い腕は両手の先に指が揃い、綺麗に整えた爪が生え僕の目を刺す、胸を砕く、何にも分からない内に身体をすり抜けて、どこかへ曲がって行った腕が僕を固定したままどこかへ消えてしまう、なんて———熱に浮かされたような妄想が苦しく止まらない。

 

 昼も夜も妄想に現れる何か———八尺様はいつ見てもどれだけ見ても顔が見えない。光の中から姿を見せて、僕を見ていたり背を向けて野原や大寺の墓列の間を歩いていたり、手足の長い、妄想の中でその姿は拡大されて近付いて美しく慕わしい気配を充満させるのに、見つめようとすると光の白いところがますます明るくなり、中心に白光と交わる大きな翳が薄く差し広がるようで、その向こうにきっと顔を見せてくれない。見せてくれなければくれない程、白昼夢や夜の夢を見ている僕の胸の内は焦がれて焦がれて止まない。噂で知っている八尺様の風姿と云うのは、形の良い首までが露わに見える、が、頭に大きな帽子を被っていると云うことだから、それが細っそりした美しい薄い腰の身体に影を付け顔を隠している原因だろうと思った。服装は種々の説があって、白い薄い着物だとも言うしまた膚を出さない古風で華奢な洋風の装いをしているのだとも言われる。ただ何にしても背の突き抜けて高い……。誰か僕の妄想に現れる八尺様を見て欲しい、そのくらいに綺麗で、思うだけでその細腰と薄い胸が野原の白い明るさを歩いて行く様子が、野花の色香をさそって、もう耐えられなくなった。

広い白い八尺様が振り返る世界のことなどまるで信じていない彼の友達の言葉でさえ、どうしてこんなに心に染み込んで来たのだろう。だからもう———頭で、その話も男友達を通じて八尺様が僕に伝えてくれたのだと思ってしまう。海沿いの明るい野や山から便乗して来た何かに、魅入られていたのだろう。

 数日は書籍の空想中に、焦燥の心を溶かし自分を慰めることで日を送ろうとした。

 鏡花の「高野聖」など何度白い女が深山の魔処にいる文章に目を通したか知れない。夜眠れずに布団の中で拳を突いて顔を枕にして読んでいると、常々幼稚な筋立てを馬鹿にしていた青錆びた古い文章中に美しい背の高い花びらのような女魔物が捕えられているのが、怖い怖いと思って涙が出る程慕わしかった。夜中一人で頁を意味も無く強く押さえていたら、造りの弱い文庫本は壊れて背開きに紐だけ残し全ての頁がバラバラになってしまった。一方でユング精神分析学派やエリアーデの宗教本など読んだ時には腹が立った。特に女精神学者の成長しても社会労働せずにいる少年の心を批判する厚顔な文章に当たっては血の気が退いたし、魔女や地母神の特徴を目に留めた時には怒りと不愉快で数食は食事が喉を通らなかった。

 恥知らず!けれど鏡花にだってそう云う部分がある。そうして恥を覚えているのは僕の方だ。怒りに顫え考えているともしかして自分の図星に当たる———いいや図星とは違う。この胸を焦がす仄白さは確かに存在し、全て嫌なものを振り捨ててその先へ、白さの先の白さへ、そう云うものを統計や何やで今議論し吾が物顔で扱う論者達の顔が強張り青くなるような本当のところへ行ってしまえたなら。ああそれも論断されるのが身が千切れる程悔しいから、人の敢えて知らない境界を越え論議されぬようワァワァと叫んで白いところへ完全に消えたくなった。

 ああ八尺様と云うのはきっと綺麗なんだろうね、その噂話の野原にも白と黄の花が咲いていて山腹に半ば埋もれた墓石の列にも夏日の影が落ちて、その中を……。そんな一言を言っただけで僕の顔を見詰めて、無気味なものを見たような表情してそれ以来その話をしてくれなくなったかの友達も含めて他の誰にもしたくとも言えないことだった。

 あるからには行く人が誰か行かなくてはいけない。行かないなら他の奴は馬鹿だ。他の人が馬鹿だから僕が行きたいのかも知れない。いやその二つは結局同じことを云っている。

 違う……これは違うのだけれど……。八尺様を想うと憧れて空腹になる、その真っ白な空腹にどこと言えない嫌さもあって———ああ。

 僕はもう、とにかく耐まらなくなった。

 電車に飛び乗り、青い瀬戸内海まで突っ走った、海沿いの———本土のとある岬の港町にその○○の駅はある。とても堪らず、夏休みが来る前に噂に出て来たひどい片田舎の山傍の無人駅へ降りてしまった。森森森。無人駅。屋根さえほとんど風通しに朽ちていて自然光があまりに明るいから、電車が走り去った後のホームから既に、懐を広げて海に迫る真昼の山の壁が蔦や赤なんかと一緒に見えていた。青空と白い雲と夏の田んぼと荒れて過ぎるフキの光と黒い杉の薄らぎと、山と海とに区劃された狭い土地の、山の横付けに駅があって、後の残りは下りて行って海の細波がチャプリと掛かる漁港まで小さな港町が続いている。ワクワクと階段を昇り駅を出てから下りて行く坂が照って明るく背中の荷物は軽く、日差しの昼間の真昼間に、とうとう海際のテトラポットの上で海を見果るかしているような旅館に着くまで誰ともすれ違わなかったことを憶えている。

 寂しい町のようだった。薄ピンクの大きい花は道に所々群れ咲いていた。日射は烈しく黒い鮮やかな影を持つ港町だった。

宿は武家の庭園か旧藩校にありそうな大きな門構えを持っていて———後で聞いたら明治時代の廃校の記念なのだと言っていた———二階の部屋に通してもらい荷物を置いてから再びその旅館の門の前へ弾き出されたように出て、明るい道が伸びていて、さあどうしようか。

 まさか、———こんな汚い狭い港町の寄せコマセの小エビの臭い芬芬たる木壁道路に八尺様のいるはずは無い、また今下りて来た駅にしても山暗く崖の白壁にかかる野蔓の垂れる下、そんな場を八尺様に歩かせる訳にはいかない。その、斜面に立つ場も無く黒杉の影や野草が高く被ると云う点からしても……と思う。常の想像に八尺様は横を向きあるいは遠くを向いて白い平らな処を歩んでいる。山上の野原だろうか、山上の野原だろう、そう思うけれど、まず、まず、……そこは一直線に向かう場所柄とも覚えないし僕は一直線に向かう道も知らない、低地を徘徊する内に海路の潮風を越えてひょっこりと暗所から雲を抜けてその山上に実在する気のする八尺様の野原へ運ばれるのだと考えて。考え歩く内に胸の内に凝りもう動かせない確信となって。僕が港町の中で暗く動き回っていると考えると意識が興奮し胸がときめく、心臓が消えそうになる、自分の心の中のある部分が犬のように笑う。八、尺、様、それなのにあの明るく高い山に八尺様がいて僕を待つと云うのがどうしても想像しづらい、心がバラバラになりそうになっている。

 不思議だ、とにかくもう今日は昼間を過ぎている。こんな海辺の人気の無い山沿いはそんな神隠しを期待しながら人が何度歩いて回った道だろう、きっとそんな場所を辿る内にまだ高い日も落ちる、山に登るのは明日朝から行くことにしよう。

 旅館を出て外の道を歩きながら見ると白雲夏空晴れに晴れてばくりと海空を切り取る崖の色の白さが反対側の岬へ周り、蔓延る森が湾に薄く盛り上がり濃く垂れ下がる、日和の港町がやっぱり無人である。丈が軒並みに低い茶色い屋根の家々の横で、足元へ棒に丸の標識の影の大きいのが狭い道表に浮いていて、丁度ガードレールから見渡せる向こうの海を囲む崖の影と手移しに同じ程度の大きさで、海と空と大地とにあちらに黒こちらに黒。旅館の前に停めてあった自転車の車輪の影先を通って、何も猫さえ通らない海辺の道をズンズン進んで行くと、海に面して背後の山へ想いが憧れてしまうのを別としても、夏日の虚ろな田舎影列の暑さ静かさに次第にじっとはしていられなくなって行くようだった。

 歩き続ける横の公道一本向こうはずっと海で、砂浜の無いゴツゴツした湾内に漁港があって、その小さい船着き場まで来ると河があってトンビの声が低くかしましい。人は少ないか、いないか。明るい漁港の水は緑の表層と青の中身、死んだ魚が捨てられて海底に白く溜まっている。水の流れが無いらしく平らかに大きなものが触れられないところでしんしんとしている。鋭った白舟が多く浮かび並んでいる。海へ臨んだ街の背後には丘陵に大量の墓石が並んでいる。町にいないなと思っていたのが皆あそこにいたのかと驚く程日が丘一面に明るく光っていた。けれども勿論石の大群である。小さく遠く寺の屋根様の端も見えた———黒々と影して聞いた噂通り山の上に。寺かしら、石は町の面積より大きいんじゃないかと思ったが、それは、御影石が陽光に黒い斑点も混ぜて燦然と反射し合っていたらしい。それで広く見える、こうして昼と夜との時間が交互する限りは、列になって山の段段から海と町を見ては日毎の日照を拝み続けるのだろう。海辺ののたりのたり水底の魚の死体や色の抜けた白子が浮かび上がる。死魚の崩れが細切れになって漂う青さを思うだけで胸を潰されるような気がして噎せて、明日のことだとも思いつつも、あちらへ昇って行きたくなった。

 じきに、町の中に河が干上がったような水溜まりが深く広がっておりコンクリートの平橋まで架かっている場所に出た。橋のここも明るかったが、町の裏。ヘドロの上に水が伸びてその上をカラスがピョンピョン跳ねている。大雨が降れば波を打って海へ溢れる泥なのだろう、茶色い青い鋭い欠片が沈められ捨て落ちた大枝が突き出し、群れた緑の多年草さえ汚らしい。天水増減の汚い跡を残した白いコンクリ壁の上には風に錆びた赤家トタン屋根が縁へすぐ並び始めヘドロに下から煽られるだけで無く見るだけで潮臭いと言うか磯臭いと言うか……。平橋もこの水溜まりも家並みに隠されていたのだった。道から家と家の間に入るとこの不図開いた四角い箱の穴である。橋の上で左右泥の沼。緑の長草の間を白い海風の手が延びて来て、低い赤い殺風景な家並みが前と後ろ……突然心が練られたように苦しくなり、その場で足と身体がクルクル回った。踵で一周して低い地面に白い空……白い空……誰一人影も見せていない港町、窓には擦りガラスに挟まれるように半ば閉まったカーテン……明るい明るい夏の暑い昼日中……呆れるような、妙に物事が虚ろに響くような気がして、白い明るい世界で無意識にピョンピョン跳ねていた。また海風がザラザラと吹いて来て、泥の中から砂塵とカラスの尾羽根が舞い上がったらしかった。目を開けて見ると風も止み日が白ら白らと照る沼地の上に、濡れ黒の羽根が輪のように広がり乾いて鳥の体の蹴距が飛んだ気配が、たった今と云う風に残っていた。粗末な欄干から振り返り見上げた橋奥の詰まりの先に脇毛のように黒い森が山が盛り上がっているのが唐突で、日が明るくて、影が濃くて、緑で、喉からこみ上げる楽しさに腕も足も舞うようになって、何か嫌だ嫌だと思いながら日照の下の橋の上をその森の影の涼やかなところへとっとと走って行った。

 山裏の翳が張り回して来たとこを見るらしい……橋を渡り切ったところでも団地角の裏をつついて道が伸びている。大きな電柱がやっぱり夏の明るい様子で、短い握り棒がじぐざぐに付いている。その上に森から濃緑が茂っている。包まれて包まれてしんしんと音も無く、日の明るさに、道先に見えるのはゴミ袋が積んであるので、もう昼過ぎなのに回収されていない、今日は可燃ゴミの日なのだから大盛りに積んだ、けれど誰一人の姿も見かけられない、曲がり角を主催する電柱の横から山に入って行く道は、つまり神社へ登る石段である。

 町外れで山に喰い付く神社……噂では不確かながら八尺様が出没るのは神社ではなくて寺のはずだった。山表の旅館や港町・海からは丘の上にそれらしきものがあるのも見えていたでは無いか。ここまではそこで確認した港町から近場の森が見える下へ進んで、山と町との暗い縫い目と、その、見えていた墓列が頭の上へ来るように見当を付けて道をとっていたつもりが、何せ、町は小さくても木々は身体に暗く森は茫茫として山は巍巍として大陸は雄大だから、足を踏み入れた端影だけでも、ほんの一時間程度風に吹かれて歩いただけでも、暗壁沿いをもうどこに連れて行かれていたか分からない。思わずたまたま辿り着いた神社だ。知らない町だそう云うこともあるだろう方向を誤ったか、と……石段に近寄ると、港町や山の姿が載っている地図の立看板が設いてあった。杉落葉で濡れ汚れる白面に大体の筋と線と絵で、足場が定まったような気がして、この看板が無ければ多分町の中にいる間に外に出ないようにと焦り慎しんで来た道を引き返していただろう。

 妙だ……地図の中に寺の簡略な印があるが、それが妙に山の中深くに示されている。港町から見えた、町の崖上丘陵縁辺に位置する燦然と輝く淡い影、あそこの場所では無かった。この印、これは、地図のこの位置だとすると、坂も渓谷も越えてよほど山を昇って行かなければ着かない山中に寺はある。

 妙だ……。

 が、待て、頭の中の記憶の通りの寺が丘の上にもある。地図の、鳥居と階段を仰いで今この場所、地図の神社の印が、山森の広大な塗り分けと小さな狭い町の白抜きの端境いに鳥居の絵で刻してあるそのすぐ横に———近過ぎて気付きづらい———神社から道を示す短い線が少しだけ昇り、二つ目の、記憶通り推論して当たりが付く場所へも寺がある。それならそうだそこが港町から見た平らな丘の上。

 やっぱりあれは寺だったんだ。

 港町の道や橋がどんなふうにぐるっとして回って寺と神社がこんな近接しているのだか地図を見ていても分からない。僕はどうしてこんな神社へ来たのかな。

 この僕がこうして見上げている急な石段の先の鳥居の向こうにある神社境内のどこかから道が伸びて右へ行った方の、頭上鬱蒼とした森を出て至る丘の上に近場の寺の見当は付いたぞ。…………そこが心の執く目当ての寺、丘を見上げて真っ直ぐ光ったあの一面の光包み。墓地。こう云う田舎では、敷地と敷地間は往来自在だから、寺と神社とに引かれて森から丘陵に出る山道が結ばれているのだろう。

 それから、山奥にあるもう一つの寺も山端の寺も、二つを示す印が同一であるから、あるいは本院と別院、もしくは坊さんが修行する建物などであるかも知れない。二つ共に印の横に寺名など書かれてもおらず、ただ、高い山中の寺には横から黒い―――破線が地図外へ飛んで、白に黒活字で小さく洞窟とだけ記されていた。他に説明文の一文字も無い。もうしばらく地図の上を丹念に探していると、図の外の全く見当違いの始点から迂回してその山奥の寺へ向かう太い道もあることに気が付いて、道中の線に直接書き込まれて鍾乳洞行トレッキングコースと青い文字が山深く登っているのがあるから、建物ですら無い、それは鍾乳洞なのだ。寺……寺……とは云っても鍾乳洞、大きな洞窟なのだろうなと何と無く。青文字の白く太い線に比べて、山の繁みと谷の底を行く獣道なのだろう二つ目の寺印から一つ目の寺印への線は細筆で撫でたような頼り無い黒い線だった。何故だか地図の外へ出て一度切れて途中で戻っている細い線だった。

 観光地ででもあるのか、寺所有の洞窟か、洞窟のことなど八尺様の噂話では突拍子も無くて出て来るのを聞いたことが無い、がそれも良い、明日は丘のこの寺へ行って話を聞くだろう、その後に時間が余れば洞窟まで登るのも良いかも知れない。明日の楽しみだ。看板の下に積もり、山の重みの端で呼気を吐く杉色の土もおいでおいでと誘いを掛ける。

 見上げた森総体の黒みから漏光もきらりひらりと波間のように動いている。———上を見渡すと家の屋根を覆うような杉の木高く、頭上から地面まで、黒い山の陰から赤い幹が降って来て樹液の香りが玉のように小粒に尾を引いて目に見えるようだった。

 目の前の杉の葉は黒い雲のようになっているところへ、触ろうとして指先を伸ばすと森全体がザワついたようでゆさりゆさりと揺れたようで、それをどこかで見ていた脳みそが木々を過ぎたものと勘違いしたらしい———昇ろうとして階段一つ踏み外したような感覚で石段へ駆け昇り吸い込まれそうになった。待て、明日のことだ、明日の……。その日はそれで宿へ帰った。

 その夜の妄想、光刺すように鮮やかで、暗い布団で一人寝る見知らぬ室に重い気配が甘くも充満したこと、目の裏が丸く張って眠られない桃色を、言うまでも無く知られよう。昼の疲れもあるのに夜中外で物凄い風が膨らんでいる苦しさ、妄想さえ胸を踏み潰されたようで暗い中に何一つ形を取らずに夜が明け朝明けが来るのを待った。

 次の日は、昨日の思い通り旅館を早朝出て寺へ行った。

 旅館の外へ出て朝焼けの海上に変な雀が鳴き飛んでいた。上にはまだ小さく月のある青、下には山と岬のある桃色、中間には薄いコントラストの水色。波が堤防下の溝へ吸い込まれる音の凄まじい港で朝陽で照るのを見てから、同順の道を通りまた昨日の石段下に着いて、それから昇って、神社の境内の、寺へ行く道を探した。探している内に日が高くなり、早くも昼前の明るさになってしまった。

 神社は社殿こそ古く小さいが小綺麗にされていて田舎らしく土地が余る境内が不思議なくらいに広かった。石段の上に昇った森繁る山の内にあるのに、階段の方角が海に開いて日が入る。石段を昇り切った先に鳥居があり、鳥居の側に紫地白文字の旗が傾いていた。振り返り目を下ろすと最上段にかかる足元から急な石段は奈落落ち、見上げると向かう境内の奥の古びた神社本殿は白い空を押し上げているようであった。

 眩しくて挙げた指先が上がったまま自分の顔の前に残っている。隅にペプシ色の古錆びたベンチがある、社殿が小さいからここは御神輿を木組みで地面に据えてあるだけの仮場の神社と云う気がする、もう一度振り返ると、鳥居の向こうに海と港が見える。山と森の傾斜は海際まで押し寄せている、狭い土地に漁をする町が小さく見え、町の上型にハメたような海は真っ正面である。

 広い明るい世界の中の境内のベンチの上に白光が輝いていて小っぽけである。無数の木の葉の薄い影が地面の上にも斑点明るくて揺れている。白ら白らと明るい山の境内の光は度合いを強め増して行くようだった。見ると明るい影がチラチラする宙に太い木の枝が突き出していて、真昼のあやふやな空の白さの中でそれ一本が殊更太く、社殿などよりかずっと大きいように見えていた。頭上に張り出したその枝へトンビが飛んで来て停まった。空でクルクル遊んでいた時から鳴き出していた声を、枝の上でも首を伸ばして鳴き立てて、竹の笛のような音がして、両羽を拡げてバッサバッサとした。見ているとその大きな影がスっと再び空へ浮き出して一周して戻って来る。今度は枝の上でも、木に止まった鳥の形をしたまま黙っている。

 そんなものを見ていたから道を探すのに思わぬ時間を食ってしまった。社殿の裏にある、山積みにされた、土の匂いのする、暗がりの苔生した、小石垣まで見て回ったのだから。

 もう一度境内へ出て戻ると、トンビがまだ木の上にいる。山の上に空があり、山の隣に海があり、日は暑く照る、白く白く白く青く青く青く、大気の間を風ものったり動いている、その時竹藪の方からカサカサと音するのが聞こえて、それで。———。


 神社の境内の隅は一つ子どもの小山が迫り出して来たような竹林がありすぼまっていて、ここは誰も掃除をする人がいないものだから竹の皮が渋くなって積もり、垂れ、茶色く、ペロンペロンと透けている。黄色い葉隠れ。白い板。竹の明るさ杉の明るさ。苔までが黄色い。直角ブリキの雨樋。日明るい高いところで竹の幹がカンカンと打ち合って鳴っている。鳩か何かいるらしく、低いところで得体の知れない何かがずっとカサカサやっている。軽いものが笹の上を小さく歩き回るらしい、嘴で落ち葉をほじくり散らしていると思っていると不意にピタリと止んでしまった。もうそちらは山の内だけれども、見えている限りはまだ明るいようだった。———日光の下で気にも付かない土の色の違う一筋がそちらまであると分かるのが、その、丘陵の寺の、あるいは鍾乳洞まで行くのにそこを通る、道なのだった。

 …………。

 それからは長く竹藪の道を歩いた。竹藪は森の中に細長く分け入って分布しているようで、しばらく歩いても止まない。始めは節に銀鱗さえ帯びそうな真っ蒼な男らしい太竹だったのに、奥まで来ては弱竹と云うのだろう、生えているのは上品な白い皮の竹である———それだから周囲の葉もハゼの子のように小さい、細かく無数にある、低いところに竹箒に束ねるような小枝が肺の細かさで渡っている、明るい日の光にはたかれて手前の竹葉、さらに奥の竹葉まで引き込んで行ってチラチラする、かと思うと頭の上の渋皮が茶色く溜まった水で重たくぶら下がったまま重なったのは……昼か、夕か、まだ昼か……。

 明るい日差しの光が竹の葉の向こうに薄く透けて来てはまた遠ざかって行くことが何度かあった。鉄道汽車が通るようで斜めに光走りその度にようやく竹林が切れるのかと思うと……ちょっと裏の畑へ出るための屈み道と云った細道なのに、驚く程途切れず続いて行く。……その明るさ。これ以上進んでいたら目の内まで竹の葉の色で三角になりそうだと思い始めた頃になって、やっと抜け出た竹藪から視界に入ったのは開けた大虚空を背負う寺院の黒門。否、その門の前に、突如足元に現れた石を踏むと向こうに落ちそうな、ゴツゴツした先に沢が流れているのだった。

 橋がある。小橋で沢を渡った彼岸にすぐ寺の門が見えていた。門からは馬鹿に高い寺の塀が続いていて切れ目が無く、左右へ伸びる色は漆黒である。黒い壁の上には薄曇りするようで猛烈に明るい空が白く見えていた。そして、小橋が架かる沢の中には何かの種類の低木が植えられているらしく、下は一面の黄色だった。

 橋を渡り終えた時、背後で沢へ落ちる腹が黄色い鳥があったらしい。高くピイと鳴いて消えた。振り返っても影も無い。

 門の内にも人の気配がしなかった。門の前にぽつんと立つと、この真っ黒な高い壁は異色だった。八尺様へ焦がれる僕の心の期待も高まる。地面から抜いたらこの形が空へ残るだろう。空も大地も軟かい、流れて行った白曇りの皮膚がこの角でザリザリと毟り取られる。白さ広さ、周りに何も無いことが際立つ。ここは明るい丘の上、もう町も海も見えない。

 するりと門の内へ入った。


 一直線に門からは植込みの紫陽花の影るのと光るのとに細切れの規矩整えられた砂利道であり、道の終わりは一本の木柱の裏から曲がって本堂の開けた外正面へ出た。

「もし……もし、そっちは入っちゃダメですよ」

 砂利の海に日が照る、白い庭の彼方に浮いている巨大本堂。端端の間に人の影が無い砂利の陽光に揺られ近付けば、長い廊下が暗い藍色の印象で魅き付けて、八尺様を想う胸騒ぎがこの時に堪らない。砂利へ紙のように立つ黒い本堂へ———僕の後ろで声がした。

 広く白い庭から暗いところへ目を凝らし、背を照らされるダニになって小さく柱の裏へ這入った僕は無人無音の神仏に敬畏しつつも本堂奥を覗こうとして自分でも恥じらう動物的格好だったから、その時に不意を突かれた。光る一砂に脚を立ち、縁廊下に双手を突く背筋弓なりの反った姿勢で、身をもぐり込ませるや白面が退き内で膨らむ巨大寺院の影が頭上高くにある、小さい四つん這いの背後に澄んだ外気を残し、尻と脚までは陽の当たる明るさに出ていると、見る見る聳える寺院の影が庭の白面に当てられて丁度僕の小さな腰のところで大輪切りになる。二分かれして影くらみ光強く落ちるその温みさえこたえられず尻尾があればその場で振っていただろうそんな動物的な———瞬間に。大きい外の明るさから声を掛けられて———、咎められた?

 恥ずかしい動物の姿勢から突いていた手を上げ腰を伸ばし振り向くと、明るい中に、背の低い人が立っている。

 綺麗で美しい小僧さんだった。優しそうに痩せていて膚が白い。濃い藍色の作務衣のようなものを着ていて、単純な筒が二股に分かれたようなズボンを履いている。明るい日の内に立っている姿は上下とも真っ黒に見えていて、白い首や足首がチョンチョンと一針ずつ縫い付けてあるように細く出ている。ズボンの紐を結んで作務衣が締まっている場所がぴったり身体の半分目でくびれているのが黒い切り紙のようで、余計な髪を落とした青い頭をしている小僧さんの、いかにも寺に慣れた人の雰囲気だと思った。可愛らしいながらも涼しげな目が大きく静かな気配である。

 砂利の、熱せられた白い小石の一粒一粒が照り輝く庭の横の、舟の底じみた長い黒影の内で小僧さんに叱られて、本堂前の太い角柱に影と光が分かれた立ち話。美しい小僧さんが立っているのが、一歩か二歩分だけこちらに近いようだった。

 大きな寺院だった。大型木造建築独特の影の暗い冷たい滑らかな木触りの、と思う真昼中の闇の……巨大な気配の奥にまだ廊下は伸びているらしかった。しかし無人で。仏堂どころか庭や境内の隅々に至るまで、この小僧さんの他誰かがいる影も形も無い。

 僕は、八尺様を探しに来たのですよと言った。すると小僧さんは暗がりへ廊下が消えて行く巨大な後ろへ細い首を向けてものを考えていた後、それなら、和尚様に会わせてくれると言った。

 手を引いて奥屋敷まで案内してくれると云う。小僧さんの背中の藍色が向かう廊下の奥の暗さと同じだった。擦り減って内側へ傾いた板、夜半に湖面を内から外へ岸まで滲んで来るような艶光沢は頭上へ何かが、夜中に屋根の裏で騒ぎそうな。小僧さんは首や頭や肩が同じ形のまま下に縮むように先に行ってしまう。暗いところを水平に平明に進むのだ。長々と巨大な建物の一本廊下を進んだ後、小僧さんが振り返り一礼した。どうぞと言うところを追い越して室に入ろうと思ったら、小僧さんが先にスっと室の内へ這入ってしまった。



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