第34話 氷姫

神の盾 ヴァヌヌの物語


 一人の少女が、ヴァルデス公国公立魔導アカデミーの高等部の廊下を強張った表情で歩いていく。

 はっと胸を突くような硬質な美貌の持ち主である。

色素の薄い栗色の髪は、ほとんど琥珀の色味に見えた。

 短く切り添えられた前髪は、まるで最前線で敵と戦う騎士のそれのようだ。

それが、氷の柱から削り出しかのような彼女の風貌によく似合っていた。

 少女が、アカデミー高等部一回生のA組の扉の前に立った。

強い意志を秘めた視線を左右に飛ばし、彼女は何かを探しているようだった。

「クロエ姉様」

 彼女の存在に先に気が付いたのは、アデリッサ・ド・レオンハルトだった。

アデリッサに「姉」と呼ばれる以上、この少女もまた、ヴァルデス公国の名門貴族、レオンハルト伯爵家の一員であることは間違いないことであった。

 アデリッサの戸惑うような視線を捉えて、少女はアデリッサに歩み寄った。

「アデリッサ」

 アデリッサの視線が、左右に泳ぐ。

「二回生のお姉さまがどうして、一回生の教室におられるのですか。私に何か、御用でしょうか」

 おずおずとしたアデリッサの問いかけに、姉であるクロエ・ド・レオンハルトは冷然と答えた。

「アデリッサ、用があるのは、あなたじゃないわ。あなたの友人、ヴァヌヌという子は、どこにいるのかしら」

 思いもかけない御指名に、ヴァヌヌは慌てて立ち上がった。

「ぼ、僕がヴァヌヌですが…」

 クロエの淡い蒼の瞳が、ヴァヌヌに注がれた。

薄青うすあおの双眸は、その血脈の起源を北方に持つ証拠である。

「あなたが?」

 クロエの表情からは、わずかな困惑が感じられた。

ヴァヌヌは、息を飲んだ。

 少女の美しさも特別なものであったが、彼女が身にまとう、自然な尊大さと威厳は、彼女が紛れもなく、この国の高位貴族であることを意味していた。

 アデリッサは、彼女を「お姉さま」と呼んだ。

アデリッサには、兄弟が二人いる。

 一人は、伯爵家の長男、エグベアート・ド・レオンハルト。

そして、もう一人が、長女、クロエ・ド・レオンハルトである。

 ならば、ヴァヌヌの前に不機嫌な表情で屹立する少女は…

「私は、クロエ・ド・レオンハルト。アデリッサの姉よ」

 ヴァヌヌを値踏みするような、クロエの視線が彼の身体に絡みつく。

「想像していたのと、大分、イメージが違うわね。まあ、いいわ。あなた、お昼休み、私と付き合いなさい」

 有無を言わさぬ口調である。

まさに命令することに慣れ切った権力者の物言いであった。

「あ、あのお姉様…」

 アデリッサが、不安そうな表情で姉の顔色をうかがう。

「アデリッサ、あなたには関係ないことよ。私は、このヴァヌヌに話があるの。

ヴァヌヌ、いいわね?」

「は、はい」

 クロエ・ド・レオンハルトの制服の袖を飾るラインは、「三本線」、つまり、青い血の流れる貴族であるという意味である。

 ヴァヌヌは、自分の制服の袖に目をやった。

「一本線」、これは彼が「平民」であることを意味していた。

 「平民」が、「貴族」の言葉に逆らえるはずはないのだった。


 ヴァヌヌは、あからさまな嫌悪と困惑の視線が自分に向けられていることを嫌でも実感せざるを得なかった。

 公立魔導アカデミーの生徒たちが昼食をとるダイナーには、貴族の子弟のみが使用できる専用のパワーラウンジがある。

 袖を飾るラインが、「一本線」、つまり、その生徒の身分が「平民」であることを意味する制服を着た人間が、貴族だけが利用できるパワーラウンジに入ってきたのだから、当然であった。

 いかにも驕慢な男子生徒が、舌打ちして椅子から立ち上がった。

しかし、すぐにその目が大きく見開かれ、少年は慌てて椅子に腰を下ろした。

 「一本線」の少年に同行しているのが、「三本線」、すなわち、貴族であり、しかも、軍務卿の重職を拝命する大貴族、オンハルト伯爵家の人間であることを認めたからだった。

 クロエ・ド・レオンハルトは、ちらと窓際の席に視線を飛ばした。

談笑していた女生徒たちが、あわてて立ち上がって席を譲る。

 小さく会釈して、クロエは、ヴァヌヌに着席を促した。

「座りなさい、ヴァヌヌ」

「……」

 クロエの口調は穏やかなものであったが、有無を言わさぬ威厳がこもっていた。

他者に命令することに慣れ切った人間が、自然に備える威風なのかもしれなかった。

 ラウンジのクルーが、クロエの元へ注文を伺いにやってきた。

貴族のためのパワーラウンジのみに配置されたスタッフである。

「紅茶を二つ」

 メイドスタイルのクルーは、一礼して引き下がった。

「ヴァヌヌ、単刀直入に聞くけど… あなたにとって、アデリッサはどういう存在なのかしら」

「ど、どういう意味でしょうか」

「お互いに好意を持ち合っている思春期の少年と少女… あなた、自分とアデリッサの事をこんな関係だと思っているのかしら」

 ヴァヌヌは、大きく目を見開いた。

「そんな! 滅相もない! ぼ、僕は御覧の通り、平民です。ヴァンゼッテイ男爵家で使用人として飼っていただいている人間です。男爵家の跡取りであるチェーザレ様の従者として、男爵家のお金でアカデミーに通わせていただいている身の上です。貴族様の… それもレオンハルト伯爵家のような大貴族のご令嬢と釣り合うような身分ではありません」

「自覚はあるようね。でも、あなた、いつもアデリッサと一緒に行動しているそうじゃない。あなた、あの子のことを憎からず思っているのではなくて?」

「アデリッサ様には、同じクラスの級友として懇意にしていただいているだけです。僕はあの方を、常にアデリッサ様と呼んでいます。青い血の流れる貴族様への敬意を忘れたことなど、一度もありません」

「…嘘ではないようね。まあ、いいわ」

 ヴァヌヌは、勢い込んで言葉を発した。

「クロエ様、僕がアデリッサ様と御一緒する機会が多いのは、僕とアデリッサ様でお互いの弱点を補い合って、魔術師マージとして一人前の存在となれるかもしれないと二人で考えているからです」

「補い合う? どういう事?」

「僕は、二つの『魔核』のうち、攻撃魔法を担当する『ボアズ』を喪失しています。僕は、防御魔法を使えるだけで、攻撃魔法を使えないのです。そして、アデリッサ様の方は…」

「アデリッサは、防御魔法を担当する『魔核』、『ヤキン』を損なっている。あの子は、攻撃魔法を使うことが出来ても、『ヤキン』が受け持つ防御魔法を使うことが出来ない… あなたと正反対という事ね」

「ですから、僕とアデリッサ様は二人で力を合わせて、攻撃魔法が使えない僕が防御魔法でアデリッサ様を守り、アデリッサ様が攻撃魔法で敵を撃つ… こんな戦い方が出来ないか、あの方と一緒にこれまで模索を続けてきたのです。アカデミーのヴァラカ・シャヒーン理事長からも、できる限りの協力はするとの言質を頂いています」

「……」

 クロエは、口を噤んで考え込んだ。

「差し支えなければ、教えてもらえるかしら? あなたが魔核『ボアズ』を失った経緯を」

「遠慮なさらず、ご命令いただければ、お話し致します、クロエ様」

 それは、ヴァヌヌにとって精一杯の意地の発露だった。

クロエは、一瞬、氷のような視線でヴァヌヌを見詰めた。

「まあ、いいわ。話しなさい、ヴァヌヌ」

 ヴァヌヌは、大きく息を吸った。

言葉を誤ったら、自分の身の上など、レオンハルト伯爵家の一族の気分ひとつで、簡単に吹き飛ばされてしまう事は、明白だった。

「お話ししたように、僕は平民です。カルスダーゲン亜大陸生まれでもありません。両親は、クリスタロス経由で亜大陸に流れて来た難民でした。当初、父はクリスタロスの造船所で工員として働き、母はかの地の商館で下女をしていました。僕が両親ともに、ヴァルデス公国にやってきたのは、八歳の時です。父は、公国の冒険者ギルドに登録して、最下級の冒険者として雀の涙ほどの生活費を稼いでいました。母もまた、冒険者として父ともに魔物や盗賊たちと戦っていました。そして… そして、僕が十二歳の時です。朝早く、笑顔で出かけた両親が、それきり戻ってこなかったのは…」

「……」

「父と母は魔物と戦って、命を落としたのだろうと子供心にも理解できました。父と母は、自分たちに万が一のことがあったら、僕がヴァンゼッテイ男爵家にご奉公できるように、手配してくれていました。涙が乾く間もなく、僕はヴァンゼッテイ男爵家で下働きとして働き始めました。両親は、ともに魔術師マージであったので、いつしか、この僕も父や母と同じ、魔術師マージとして身を立てたいと願うようになりました。ヴァンゼッテイ男爵家の使用人の中で、冒険者出身の方がいらしたので、その方から魔法の手ほどきを受けました。一日、骨身にこたえるほど働いて、日没までのわずかの自由時間の中で、僕は魔法の練習を続けました。ヴァンゼッテイ家には、僕と同じ年の男爵家嫡男、チェーザレ様がおられました。チェーザレ様は、男爵家の跡取りとして、行く行くは公立魔導アカデミーで学び、魔導騎士パラディンか、魔術師マージとして、ヴァンゼッテイの男爵号を受け継ぐであろう方です。ですが、チェーザレ様の生活態度はお世辞にも勤勉とは言い難く、優秀な指導者を付けてもらいながら、ろくに魔法の練習もしておられませんでした。ほとんど同じ時期に魔法の修業を始めたというのに、半年もすれば、僕の方がチェーザレ様より、ずっと高いレベルの魔法を行使できるようになっていました。あの方には、それが気に入らなかったのでしょう。ある日、僕はヴァンゼッテイ家の当主、ヴォルドー・ヴァンゼッテイ男爵から呼び出されました。男爵様は険しい表情で、僕を詰問されました。『ヴァヌヌ、そなたは習い覚えた魔法で、我が息子を傷付けたそうだが… それはまことか?』と。僕にすれば、寝耳に水です。『そのような事実はありません』と必死に抗弁しましたが、聞き入れてはいただけませんでした。僕はそのまま、中庭に引き立てられ、上半身を裸にされて、地面に這いつくばらされました。そして…」

「そして…?」

「魔法を使う者が数人がかりで、僕の身体に大量の魔力を注入しました。それによって、僕の『魔核』、攻撃魔法を司る『ボアズ』が破壊されてしまいました。その日以来、僕は攻撃魔法を行使することが出来なくなりました」

 クロエが顔をそむけた。

ヴァルデス公国の貴族たちの中には、平民を人間扱いしない者たちが大勢いる。

 貴族である事、その肉体に尊い青い血が流れていることを、誤って解釈していて、驕慢であることが貴族の証であると思い込んでいる愚か者が少なからず存在する事は、クロエも重々、承知していたし、彼女自身、それを激しく嫌悪していた。

「幸いなことに、防御魔法を司る『ヤキン』までは奪われることはありませんでした。その後、誰かが男爵様に進言してくれたのでしょう。僕がチェーザレ様を魔法で攻撃したことなど、全くのデマで、チェーザレ様の讒言に過ぎないことを。男爵様は、再び、僕をお召しになり、早合点で僕を傷付けてしまったこと、謝罪して下さいました。男爵様は、償いとして、金貨三十枚の謝金を与えようとおっしゃってくださいました。僕には目も眩むほどの大金です。ですが、僕は男爵様に申し上げました。チェーザレ様が公立魔導アカデミーに進学されるとき、このヴァヌヌをチェーザレ様お付きの従者としてアカデミーに同行させていただき、ともにアカデミーで学ばせていただけませんかと。そして、男爵様は、それを承知してくださいました」

 クロエは、呆れたように言った。

「あなたは、それで平気なの? あなた、魔術師マージとしての未来をほとんど奪われかけたのよ。その当人に従者として、忠実に仕えることが出来るの?」

「僕自身の将来のためです。僕だけでなく、僕の幸せを願って、できる限りのことをしてくれた父と母のためです。僕には、絶望する贅沢など許されてはいないのです」

「絶望する贅沢…」

 この言葉は、クロエの胸の奥へ届いたようだった。

「僕がアデリッサ様と行動を共にしている理由は、あの方も僕と同じ、『魔核』の半分を失うという運命を背負っておられるからです。アデリッサ様のご事情は分かりませんが、アデリッサ様も僕と同じ苦しみ、悲しさとともに生きてこられたことは、何もおっしゃらずとも分かります。だからこそ、僕はアデリッサ様と力を合わせて、深く傷付いた僕たち二人の人生を、一緒に修復していきたいと考えているのです。僕がアデリッサ様に感じている感情は、同じ傷を負って、それを克服するために必死で戦っている者同士しての共感だけです。流れ者の平民の子が、伯爵家のご令嬢をどうこうしようなどと、夢にも思ってはおりません」

「ヴァヌヌ?」

 クロエは、ヴァヌヌの双眸から銀色の涙が伝い落ちているのを認めた。

「何も泣くことはないでしょう。これじゃ、私があなたをいじめているみたいじゃないの」

 ヴァヌヌは、指で涙を拭った。

「失礼しました…」

 ただ、確かにヴァヌヌの涙は、クロエの心を揺り動かしたようだった。

「ヴァヌヌ、あなたの気持ちはよく分かったわ。あなたがアデリッサに… 私たちの大切な妹に不埒な感情で近付いている訳ではないことは、理解できました」

 ヴァヌヌは、これまでずっと気にかけていた疑問を投げかけてみる時だと感じた。

「あの、クロエ様」

「何かしら」

「差支えがなければ、アデリッサ様が『魔核』、『ヤキン』を喪失することになった経緯を教えていただけませんか」

「それを聞いて、どうするつもりなの」

「アデリッサ様の身に何が起こったのか、それを知っておけば、アデリッサ様のお力にもなれますし、アデリッサ様の古傷に触って、あの方に不快な思いをさせることもなくなると思ったのです」

 クロエは、うつむいて思考の海に沈んだ。

「…いいわ。あなたの事情だけ聞いて、こちらの情報は明かさないのなら、不公平になるものね」

 クロエは、貴族に珍しく、身分が下の人間に対しても公正な価値観を持った人間であるらしかった。

 これが普通の貴族たちなら、平民風情には関係ない話だと一蹴するところだ。

「あれは、私たちがまだ、ほんの少女であった頃、私はお父様の誕生日を祝うバースディケーキを飾る野イチゴを摘みに森へ出かけたことがあったの。大人たちからは、子供だけで森に入ってはいけないと言われていたけど、お父様をびっくりさせたかったから、私とアデリッサは、二人だけで森の奥へ野イチゴを狩りに出かけた。その森は、下級のモンスターたちが出現する場所であったのだけど、私は幼いながら、自分の『風』系魔法に自信があったし、アデリッサは、その頃はすでに、魔法の天才の片鱗を伺わせていたから」

「魔法の… 天才…?」

「私たち、レオンハルト伯爵家の人間が、それぞれ、優秀な魔法の使い手として、二つ名を持っていることは、知っているわね、ヴァヌヌ」

「存じ上げております。クロエ様のお父上、ガレオン・ド・レオンハルト伯爵閣下は、『地』系魔法の魔術師マージで、『土鬼』の異名をお持ちです。嫡男、エグベアート・ド・レオンハルト様は、『炎帝』の異名をお持ちの魔導騎士パラディンで、火炎魔法の天才でいらっしゃいます。そして、ここにおられるクロエ・ド・レオンハルト様は、まだアカデミー在学中でありながら、すでにいくつかの実戦を経験しておいでで、『風使い』の二つ名をお持ちの『斥候スカウト』であらせられます」

 

 こんなことは、公国の人間ならば子供でも知っていることだ。


ヴァヌヌは、そう考えて、改めて目の前にいる水晶を削り出したかのような美貌の少女が、ヴァルデス公国にあっても、全く特別な存在であることを再認識した。

「アデリッサも… あの子も、アカデミー入学前は、私たちと同じ、二つ名を持っていたの。その名は、『氷姫』」

「氷姫」

「魔法の名手として、内外にその名を知られるレオンハルト伯爵家の人間の中でも、アデリッサは、まさに隔絶した逸材だった。私はおろか、父や兄ですら、あの子の魔法の才能には全く及ばなかった。アデリッサ・ド・レオンハルトは女性の身ながら、ヴァルデス公国の魔導の未来を担う英才となるであろうと言われていたものよ」

「アデリッサ様が…」

 ヴァヌヌが知っているアデリッサは、防御魔法を使えない劣等感に悩み、苦しみ、何とか、それを克服して魔術師マージとして、自分の人生を切り開いていきたいと願って必死に戦っているけなげな少女であった。

 クロエは、窓の外を流れる白い雲に漠然と視線をやった。

「あの日、なかなか、野イチゴが見つからないことに焦った私は、もっと森の奥まで行ってみましょうと、アデリッサを誘った。大人たちからは、強い魔物が出る可能性のある森の深部には足を踏み入れないようにと言われていたから、アデリッサは私を止めたわ。でも、幼いながら、自分の魔法に自信があった私は、アデリッサの懇願を無視してしまった。いざとなれば、私よりずっと強力な『水』系魔法を行使できるアデリッサが一緒にいるのだから、相当に強力な魔物が出現しても、二人なら何とかなると高をくくっていた… その判断の甘さが、悪夢をもたらすことになった訳だけど」

「悪夢… ですか…」

「野イチゴ探しに夢中になっていた私たちは、日が傾き始めたことに気が付かなった。オレンジ色の夕日に照らされて、私たちは夜闇が忍び寄ってきていることを知った。その時、大人たちの言葉を思い出したわ。夜は魔物の世界だ。日没とともに森の中には強い魔物が溢れ出すのだと。慌てて屋敷に戻ろうとして、私たちは来た道を見失っていることに気が付いた。遠くから、魔物の遠吠えが聞こえ始めて、私は恐怖で足がすくんで動けなくなった。その私をアデリッサが励ましてくれた。うかつに動き回るのは、かえって危険だから、安全な場所を探してそこで朝を待ちましょう。きっと、屋敷の者たちが探しに来てくれますとね。アデリッサは、幼い頃から私なんかより、ずっと強い人間だったわ…」

「……」

「私たちは、大きな樹木のうろの中で、夜をやり過ごすことにした。野イチゴを摘みに行くことは、家のものには誰も伝えてなかったから、私はすっかり絶望して、魔物に食べられてしまうことを確信して声を放って泣いたわ。それが良くなかった。当然よね、夜の森の中で泣き声を上げれば、魔物を呼び寄せてしまうのは。案の定、私たちを狙って、魔物が樹木のうろの周りを徘徊し始めた。アデリッサは、その頃、防御魔法も得意だったから、無属性の『プロテクション』を張り巡らせて、私たちを守ってくれた。日暮れから、翌朝の払暁までね」

「一晩中ですか。そんなことをしたら、『魔核』が」

「…日が昇って、レオンハルト家の人間が私たちを見付けてくれた。私は泣き疲れて泥のように眠っていたけど、アデリッサは私を守って、一晩中、防御魔法を行使し続けていてくれていたわ」

「ですが、それでは、『魔核』が持ちません」

「ええ、家中の者たちが魔物を追い払ってくれた時、アデリッサはその場に崩れ落ちた。そしてそのまま、あの子は失神してしまった。屋敷まで運んで、医者に診てもらった時、医者はこう言ったわ。『誠に残念な事ですが… 幼い肉体であまりにも長時間、防御魔法を使い続けたために、アデリッサお嬢様の『魔核』『ヤキン』が焼き切れています。お気の毒ですが、お嬢様はもう、防御魔法を行使することは出来ないお体になってしまわれていると、申し上げるほかありません』と」

「……」

「アデリッサが、防御魔法を永遠に失ってしまったのは、他ならぬ私のせい。だからこそ、私には、あの子を誰よりも幸せにしてあげなくてはならない義務があるの」

「はい」

「ここまで話したのだから、ついでにあなたに知っておいてほしいことがあるわ」

「な、何でしょうか」

「アデリッサは、とても真面目な子だから、『魔核』『ヤキン』を喪失した後も、何とか、防御魔法を使うことが出来ないか、必死に模索していた。でも、駄目だったわ。『魔核』が完全に損傷しているのだから、当然よね。私はアデリッサの苦衷に責任を感じて、あの子を懸命に応援した。あの子は私の願いに応えようと、防御魔法を使うために、血のにじむような努力をしていた。アデリッサからすれば、私が余計な罪悪感を抱かないように、何が何でも防御魔法を回復させたかったのだと思う」

「アデリッサ様らしいですね」

「でも、結局、あの子の中で防御魔法が回復することはなかった。あの子は、次第に笑わなくなった。人間は本当に残酷で、世知を知らない子供は特にそんな傾向がある。『水』系魔法の天才と呼ばれ、幼くして『氷姫』と謳われたアデリッサ・ド・レオンハルトがスターから星屑になったことが楽しかったんでしょうね。アカデミー中等部で、あの子は、同級生たちから酷い苛めを受けるようになった…」

「そんなことが…」

「暫くして、あの子に接近してくる少年がいたの。子爵家の三男坊で、爵位を継ぐ資格は持っていない子だった。その少年は、同輩から苛めを受けているアデリッサを常に庇ってくれたそうよ。アデリッサもその子を信頼して、いつか、その子に恋心を抱くようになった。でも…」

「でも?」

「その少年の狙いは、レオンハルト家の権勢と財産だった。あなた、知っているかしら? ヴァルデス公国では、貴族同士の婚姻は,同じ爵位の持ち主か、精々、一つしか爵位が違っていないか、つまり家格が釣り合っているのが条件であることが、貴族社会の慣例とされていることを」

「寡聞にして、存じ上げません」

「その少年の家は、子爵家だから、三男坊とはいえ、ぎりぎり、我がレオンハルト伯爵家の令嬢と結婚できる資格を有していると言える訳ね。その少年は、同級生から苛めを受けているアデリッサを庇うことで、アデリッサの歓心を買って、レオンハルト伯爵家の家門を手に入れようとしてたって事。その少年は、とても甘いマスクをした美形の子で、中等部の頃からプレイボーイとして有名だった。世間知らずのアデリッサなんか、手玉に取るのは簡単だったでしょう。遊び仲間に、伯爵家の令嬢をゲットしたぜ、これで俺の将来も安泰って訳だ、と自慢しているのを他人に聞かれて、それはアデリッサの耳にも入った。その日から、あの子は、完全に笑わなくなった…」

「……」

「その少年がどうなったか、知りたい? 抹殺されたわ、残念ながら生物学的にではなく、社会的にね。事実を知って、私も兄のエグベアートも、父のガレオンも激怒した。その少年が属する子爵家は、公国の社交界から排除されて、役職を全て失って、地方へ落ち延びて行ったわ。覚えておきなさい、ヴァヌヌ。私たちは、大切な妹を傷付ける輩を決して許さない、その事をね」

「……」

「あなたが、その少年の様に卑しい動機で、アデリッサに近付いているのではないことは、分かりました。でも、もう一度、強調しておくわ。レオンハルト家は、アデリッサを悲しませる者の存在を決して認めない。あなたが、アデリッサの魔術師マージとしての将来のために有益な協力をしてくれるというのなら、家族としてそれを嬉しく思い、有難いと感じます。でもね、ヴァヌヌ…」

 クロエは、ヴァヌヌの制服の袖に目をやった。

「あなたは、一本線、つまり、平民の身分。その事実を噛み締めて、決して過ぎた願望や野心など、抱かないことね。あなた自身のために、その事を忠告しておくわ」

「胸に刻みます」

 クロエは、レシートを手に取って立ち上がった。

「話はそれだけよ。教室に戻りなさい」

 クロエは、ラウンジのスタッフにレシートを渡し、「レオンハルト家のツケで」と告げた。

 そのまま、ヴァヌヌを振り返ることなく、クロエはラウンジから立ち去って行った。

 ヴァヌヌは、首を垂れた。

胸の奥でひどく熱いものが暴れていた。

 心の中で嵐のように荒れ狂う炎に耐えるのは、死ぬ思いだった。

「おい」

 ヴァヌヌの後ろから、悪意に満ちた声が聞こえてきた。

振り返ると、三本線の少年たちがヴァヌヌを睨み付けていた。

「用は済んだんだろう、さっさと出て行け、平民」

 ヴァヌヌは、ゆっくりと立ち上がった。

貴族の子弟である少年たちに視線を返すと、彼らは後ずさりしてたじろいた。

 ヴァヌヌの目が、泣き腫らした後の様に血走っていたからだ。

ヴァヌヌは、振り絞る様に言った。

「レオンハルト家の御用向きを伺っていました。お話は済みましたので、すぐに出て行きます…」

「お、おう」

 貴族の少年たちは、気まずそうな表情で顔を見合わせた。

 

 そうだ、ずっとこうだったじゃないか。


これまでこんな思いを散々、させられてきたではないか。


 ヴァラカ・シャヒーン理事長にも言われただろう。


ずっと一緒にいられるわけではないのだぞ。


 君たちの運命は、ほんの一瞬だけ、ここで交わっただけなのだ。


これまで、何百回も、何千回も、心の中で繰り返してきたことだった。

 「一本線へいみん」の少年が、「三本線きぞく」の少女に恋をすることなどあってはならないのだと。

 だが、アデリッサの親族から、救いようのない冷酷な事実を突きつけられたことで、ヴァヌヌは改めて、強く自覚させられることとなった。

 自分がどれだけ、アデリッサの事を本気で愛しているのかを。

思春期の少年である自分の心が、あの栗色の髪の少女で満たされていることを。

 そして、その愛が決して成就することはないであろうことを。

悲劇であった。



  

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曠野にて ~in the wilderness~ @farfarello2

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