雨人 〜あまびと〜

太刀山

第1話 雨の日に

 人は皆、何かしらの欲求に突き動かされている。「生理的欲求」、「社会的欲求」、「安全欲求」、「承認欲求」、「自己実現欲求」これらが満たされないと不安や孤独に苛まれる。



今日も1人悩める者がいた。


「何度言ったら分かるんだ!このポンコツが…」

今日も怒号が飛ぶ、俺の上司にあたる人だ。

最近仕事が上手くいってない…毎日が憂鬱で早く帰って寝たい。


「やっと終わった…」


デスクから離れ、少し重たくなったカバンを持ちタイムカードを押す。


「俺…今の仕事向いてないのかな」


ため息をつきながら会社を後にし、交差点の先にある自宅のアパートへ向かう。徒歩で帰れる距離だ。


交差点の歩行者信号が赤くなり立ち止まる。


─ポッ、ポッ

「…ん、雨か、参ったなぁ傘持ってないぞ…天気予報では晴れだったのについてないな」

カバンを頭に乗せて立っていると、横断歩道の向こう側にぼんやりと青年が見えた。



信号が青になり、一斉に人が歩き出す。

その青年は自分のすぐ隣を横切り…呟いた。


「満たされてないね」


目を見開き、後ろへ振り返った時にはもうすでに彼の姿はなかった。


———

ドアの鍵を開けて中に入る。

スイッチを押し、真っ暗な玄関に明かりが灯る。濡れた体が冷たい。カバンにしまっていたハンカチを取り出そうと視線を落としたその時、男の声が前の方から聞こえた。


「雨が降ってるね」


目の前にあの青年が立っている。

今だから分かるが、二重の瞼に青色の瞳。

小さな顔に真っ黒な髪が眉毛までかかっている。服装は、青の敷地に黒い横線が入ったレインパーカーを着ており、黒のズボンに厚底のスニーカーと若い格好のようだ。フローリングの上で靴を履いているのが気になるが、しかし、何よりも気になるのは。


「なんで…鍵…かかってたのに、君は一体…何者なんだ…」


驚きはしたが不思議と恐怖は湧いてこなかった。青年から漂う霞のような雰囲気がそうしてるのだろうか。動揺を隠せない自分に彼は真顔で答えた。


「私は人ならざる者、故に私が見える貴方は飢えている」


あまりにも非現実だ。お化けだとでも言うのだろうか。


「俺が何に飢えているって言うんだ、馬鹿馬鹿しい、どうやって中に入って来たのかは知らないけど警察を呼ぶからそこに…えっ…」


とある事に気づいた。

「影がない」


青年は不敵に笑い、俺の顔を覗き込むように一歩、二歩と距離を詰めた。そして俺は自然と小さな下駄箱の扉に備わっている鏡へと目線を移した。映っているはずの彼の足がそこには無かった。


「信じてもらえたかな?」


その言葉に俺は首を縦にゆっくり振る。

だがやはり、何故か彼からは恐怖を感じなかった。


体が濡れているから寒い。

俺は一度深呼吸をし、彼に言った。


「とりあえず、靴は脱いでくれ…あとリビングで待っていて欲しいです。風呂入るんで。あと…家事もしなきゃ」


お互いクスクスと笑った。


——


「さっき言っていた、飢えているってどういう事なんだ?」


彼は手に持った湯気の立つお茶をすすり、テーブルに湯呑みを置いてから説明した。

「君は気付いていないかもしれないが、相当疲れている、このまま過ごせば取り憑かれて病んでしまう。暫く休んだ方が良い」


意味がわからない。疲れているのはいつもの事だし、ましてや取り憑かれてるなんてオカルトじゃあるまいし。


「取り憑かれている?休むなんてとんでもない!生活はギリギリだし…それに休んだら会社になんて言われるか…ただでさえ上手くいってないのに…同僚や家族にも頼れる人なんてもう…」


ザーッと雨が酷くなった。


「服を脱いで、自分の胸をよく見てごらん」


彼があまりにも真剣な表情だった為、言われるがままに服を脱いだ。


俺は目を丸くした。

お風呂に入った時は何もなかった胸の間に手の平ほどの真っ黒なアザのようなものがあったのだ。そしてそのアザには口が付いていて囁くように喋る。「疲れた…」、「怒られたくない…」、「認められたい…」


「何…だ…これ…」

俺は洗面所へ駆け込み、タオルを濡らして、その黒いアザを拭き取ろうと鏡を見た。


「なんでだよ…何で…何なんだ!悪い夢でも見てるのか…俺は」


確かに自分の目に映っているその不気味なものは、何度見ても鏡には映っていなかった。


「それはね、君の心の叫びだ。負の塊…次第にそれが全身に広がり…人でなくなり死に至る…」

いつの間にか俺の横に来た青年は、真顔で言った。


「ハハ…冗談じゃない」


「…………」


沈黙が暫く流れた後、青年が口を開いた。

「明日は出かけようじゃないか、仕事は暫く休んでさ」


俺は携帯を手に取り、明日から暫く休む事を伝えた。上司は突然の報告に怒っていたが、消化しなければいけない有給を一つも使っていないからそれを使えと言ってくれた。


時計の針は夜の7時を指していた。

急に眠気が襲い、俺は倒れ込むようにそのまま眠りについた。


——目を開く、雨音が聴こえてくる。


「よく眠れたようだね」

背中の方から青年が声を掛ける。


「さぁ、早く着替えてご飯を食べて」

その声は優しく温かく感じた。


着替えをすませ、食パンを焼いてマーガリンを塗り食べる。レトルトのコーンスープも作った。それをテーブルを挟んで見ていた彼は笑いながら言った。


「久しぶりじゃない?こんなゆっくり朝食を食べるのは」


「そうだね…こんな事ができて無かったんだね…」


雨が少し弱まったように感じた。


「さて、朝食も終わったし出かけるとしよう、どこか行きたいところはないかい?」


「行きたいところ…んー…映画館とかかな観たい映画があって。でもお金に余裕ないし贅沢な事はできないよ」


「なら早速行こうじゃないか、お金の心配は不要だ」

そう言って彼は札束を自らの手の上に出現させた。——それを見た俺は深く考えるのをやめた。


映画館に着き、「聲の形」という映画を観た。不覚にも感動して泣いてしまった。

ポップコーンの塩加減が強く感じる。

映画に集中していたからか青年の姿はいつの間にか見失っていた。


映画館を出ると彼が入り口に立っていた。

すかさず問いかける。

「今までどこにいたんだい?」


「ずっと君の傍に居たが?それよりあまり人混みで私に話しかけない方が良いんじゃないか?」


周りの目線が痛い。どうやら俺にしか青年の姿は見えていないらしい。俺が独り言を喋ってるように周りの人からは見えるのだろう。


「おいおい、一本木じゃないか!」

肩を叩かれ振り返ると同じ職場の斉藤が声をかけてきた。


「皆忙しいのにお前だけ何日も有給取って、体調でも崩したのかと思ったら、初日から映画を満喫してるなんて良いなぁ?ん?罪悪感とかないわけ?」


ザーッと雨がまた強くなった。


「大体、仕事できないくせに一丁前に休み取ってんじゃねぇよ〜、今度の会議の資料、お前のデスクに置いといたから変わりに作っておいてくれ。休み明け直ぐに取り掛かれば間に合うだろ?ハハッ、じゃあな」


胸のあたりから声が聞こえる。

「嫌われた」、「迷惑をかけた」、「わかって欲しい」、「無能、無能」


下を向いてため息をついたその時、青年が斉藤に足をかけた。巨体が床に転がる。


「…!?何もないところで…クソッ」

「見てんじゃねぇよ!」


青年が口角を上げて微かに笑う。

ちょっとやり過ぎではと思ったが、内心はスッキリとしていた。


駅へ向かう。


「明日、明後日はどこに行こうか?」

青年がこちらを向きながら言った。


「釣りに行こうかな、押し入れの奥にある釣竿をまずは綺麗にしなきゃ…埃被ってるだろうし」


「なんだ、良い趣味持ってるじゃないか」


雨は駅に着く頃に止んでいた。


——4日後の夜


札束は休みの最終日には既に数枚になっていた。


「あれからアザの声は聞こえるかい?」

青年がベットの横から尋ねる。


「いや、全く。それにアザも薄くなってるんだ」


「そうか、なら明日に備えて早く寝なよ」


テレビから天気予報が流れる。

「明日は朝から曇り空で午後から次第に晴れるでしょう」


ピッ…、ガチャ…

テレビと電球を消して眠りについた。


——


朝起きると、いつも居た彼の姿はなかった。

着替えて、朝の支度。朝食は食パンに苺ジャム、ブルーベリーのヨーグルト、クラムチャウダーだ。美味しい。

「ご馳走様」


家を出て、玄関の鏡を見る。

顔色がいつもより良い感じがした。


交差点の歩行者信号は赤。立ち止まる。


「おはようございます、一本木さん!」

自分の肩ほどのところに頭がある小柄な女性だ。確か後輩の朝日さんだ。

「おはようございます」と返す。


「一本木さん、何か雰囲気変わりましたね!あ、このスーツ新しいやつですね!新調したんですか?」


「あぁ、前のスーツ入社してからずっと着ててそろそろ変えなきゃなって考えてたから」


「そうなんですね!似合ってますよ!そう言えば斉藤さんが自分の頼まれた仕事、一本木さんのデスクに置いてましたよ。期限が近かったので私の方で作成しちゃいました!まぁ、友達にも手伝って貰ったんですけど」

片目をパチパチさせている。あまり話した事なかったけど結構、明るい性格だったんだなと心の中で呟いた。


「え、別に良かったのに…ごめんね。ありがとう朝日さん」 


「いえいえ、毎日仕事に追われてるの知ってますから、困った時は頼って良いんですよ」


信号が青に変わる。


俺はどうやら人に頼るのが苦手だったらしい。自分を見ている人はちゃんと居たのだ。


曇り空から光が差した。

雨音は聞こえない。


ただ、誰かが横を通り過ぎた気がした。


「ありがとう」














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