88 これは、五百年なんて話じゃない



じょえん、が?」


 おすくにの唇からこぼれた問いに、悟堂ごどうは短い嘆息で返す。

「赤玉を異地に奪われる事になったのは、あいつが赤玉を「つき」から追い出したからだ。赤玉の八咫瓊やさかにの勾玉まがたまは赤玉自身の寿命、いてはこの「月」に生きるの民の生命のかなめだ。そうと知りながら赤玉は、これを半分に割り、異地いちの帝の下へ残してきた。そのせいで、姮娥こうがの民という種にひずみが生じた。これまでのように三交さんこうでしか子が生されなかったものがそうではなくなってきたんだ」


「それは」


 かじの脳裏に過ぎったのは、儀傅ぎふたち親子の顔だった。

 悟堂は、やはり視線を向けもせず言葉を紡ぐ。


五邑ごゆうのように成長がいちじるしく早いもの、二交で生命が為されたもの、寿命が短いもの――隠れているから発覚しないだけで、他にもあらゆる異変が発生している。如艶は、この危険を看過かんかできなかったんだ。だから取り返してこいと赤玉を異地に落とした。そして、降りた赤玉は異地の帝に捕縛され、この「月」に帰れなくなった」

「――ちょっと待て師範」

 梶火がさえぎる。

「赤玉が異地で、ええと、白玉の八咫瓊勾玉を受け取っていて、それを食国の母親に渡していて、それが今、この食国の耳についてる奴だっていうなら――赤玉と白玉は、一体いつ出会ってるんだ? 赤白ってのは、異地の帝と如艶に強制的に交換されたもんじゃなかったのか? あいつらは、一体、いつどこで――一体、どの段階で出会ってるんだ? いや待て、そもそも今、赤玉の核を半分に割って異地に残してきたと言わなかったか? 赤玉は核を一体いつどこで割ったんだ?」


 梶火の目が目まぐるしく動く。これは、違う。これは自分達が今まで理解し、想定してきた話とはまるで違う。五百年の間続いてきたと信じてきた根幹が――大きく崩れる音が聞こえた。



「いいか梶火。これは、五百年なんて話じゃない。赤玉が異地に繋がれたのは、今から七百五十年も前なんだよ」



 悟堂がその言葉を紡ぐが早いか、食国の「らい!」と叫ぶ声が響いた。



「申し訳ない、紫炎しえん殿」



 瞬間、梶火の左足首に熱が走った。弾かれたようにそこへ視線を送ると、そこに光が走ったのが見えた。光は高熱を放ち足首の周りをおおう、これは本当にまずいと思った時には既に遅かった。


 がちん、と重い音と共に、そこにかせはまる。


「おい‼ 待てお前ら⁉ これ、これまさかっ……!」

 次の刹那、全身の力が抜け、がくんと床に身体が落ちた。右腕を背後に捻り上げられる。梶火は、臥雷に抑えられていた。その左足を捕らえていたのは――『環』だ。

「梶紫炎⁉」

 叫んだ騎久瑠きくるに「動くな‼」と臥雷の怒声が飛ぶ。騎久瑠も紅炎こうえんも、梶火の喉元に突き付けられた刃を見て動きを停めざるを得ない。

 梶火に背中を向けたまま、食国は大きく息を吸い、そして吐いた。それからやや間を置いて、横顔だけを梶火に向ける。


「聞かせた以上は返せなくなった。――梶火。意味は分かるよな?」

「おい食国こら!」

「僕は八咫やあたにえにする。これを撤回する事は、この命に誓って絶対にない。その妨害をする可能性が高い以上、もう、お前達を自由にはしておけない」

「――お前、正気か?」

「ああ」

「八咫を見す見す殺していいってのか」


 食国の視線が、微かに下がった。

「―――梶火。お前は僕に玉座の器ではないと言ったな。そして僕自身もまた姮娥を治めるに足る資格はないと言った」



 ふ、と軽い笑みが漏れる。



「統治はしない。そんなものは人たるお前等がやれ。民草の生きるか死ぬかなど個々人の持って生まれたものによってまちまちだろうが。食わねば死ぬなら食えるようにしろ。病にたおれるなら療養をほどこし薬を作れ。上手く生かし、上手く使い、国土を富ませて安定させろ。僕は、お前達人間が足掻あがく様をその上から見守るんだよ。僕を何だと思っているんだ? 素戔嗚すさのおの、神の後継だぞ。姮娥こうがの正統も妣國ははのくにの正統も、全ては僕の中にある」



 食国はゆっくりと立ち上がると、その場にのぞんだ全員を穏やかな微笑みで見下ろしながら、静かに告げた。



「僕がするのは君臨だ。お前達は僕の血肉と名をいただき、支配を受ける事で護られる。恩恵を受けるならば責任を返せ。それが民に課せられた責務だ。恩恵だけをむさぼるなど赦さない。責務を果たさずそれ以上の物を分不相応に求める事は逆罰さかばちだと民に理解させろ。それが僕の麾下となる者に与えられる責務だ。果たせぬ者はいらん」



 次の瞬間、食国の姿が陽炎かげろうのようにらいだ。梶火が我が目を疑い瞬きした次の瞬間。その姿が――騎久瑠の背後に立ちのぼった。

「騎久瑠‼」

 騎久瑠の首の後ろで、食国がたおやかに微笑んだのが梶火からは特によく見えた。

「ねぇ、君。しょう瑠琴りゅうきん――と言った?」

「は、」

 騎久瑠は硬直したまま、身動きすらできずにいた。そのあごから冷や汗が伝い落ちる。

「――君、八咫を喰ったの」

「――は、はい」

「そう」

 食国の眼が――丸く見開かれる。



「騎久瑠逃げろおおおお‼」



 梶火が叫ぶが早いか、騎久瑠と食国の間に紅炎が割り入った。食国が紅炎の首筋に獣の如く喰らい付く。ばりばりばり! と生々しく筋の裂ける音とともに、紅炎の血肉と皮が食い破られた。

 血相を変えた騎久瑠が紅炎の名を叫び、その身体を掻き抱きながら首を抑える。だが、どれだけ止血しても血飛沫が止まらない。


「――ほんとだ。こっちからも八咫の味がする」


 食国は――全身を返り血で赤にらしていた。白銀の髪も、白磁のような肌も、赤い衣も更に赤黒く染まってゆく。


 ただ、その瞳だけがにごりなく、青白く、途方とほうもなく美しかった。

 

 恐怖、畏怖、絶望、そして憎悪に満ちた目で見上げる騎久瑠を、食国はただ静かな目で見下ろしていた。それがふわりと膝を付く。同じ目線でじっと騎久瑠を見据える。


「おいしかったでしょ、八咫は」


 ぼそり、とつぶやかれた言葉に、梶火の全身がざわりと粟立った。

「お――食国、お前」

「一体誰の許可を得て人の物に手を着けたの。だめでしょう? あれは頭の先から爪の先、骨の髄まで僕のものだ。僕以外があの血肉をむさぼるなど赦されないんだよ。八咫が許可をしても赦されないの。――覚えておいて。次はないから」

 さらりと赤い衣を鳴らして食国は立ち上がった。臥雷に抑えられた梶火の横を通り過ぎ様に、一瞬だけ立ち止まった。

「ねぇ梶火」

 自身の名を呼ぶ食国の横顔が、僅かに俯いていたように梶火には見えた。



「――お前も、完全な『色変わり』だったらよかったな」



 食国はそのまま静かに歩を進めた。その後にりょう滔瀧とうたつが付き従う。食国達は謁見の間を抜け、大扉を潜り、廊下に出た。ゆっくりと静かに大扉が閉ざされてゆく。

 重い音を残して閉ざされたそれは、揺らぐ事のない食国の決断を暗示しているように思われた。




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