86 黄泉比良坂を開くには



 こらえようとして、堪え切れずにこぼれ落ちたかのような笑いが、途切れず続いている。一体どこから、誰のものかと見回すと――行き着いた先は、悟堂ごどうだった。

 かじの眉間が険しさを増す。ばかりか、こめかみに青筋が浮いた。


「師範、あんた、何笑ってんだ」

 悟堂は拳の下で笑いを堪えながら、「なるほどな」とつぶやいた。


「つまり、お前の希望を叶えるためには、瓊瓊にになしで素戔嗚すさのおを捕まえ、何時になるかわからんが『真名』の贄にできる男を八咫以外に探し出して説得して自ら贄にさせて、それから黄泉よもつ比良坂ひらさかを開いて素戔嗚すさのお貴人きじんと白玉を異地に返し、赤玉を取り返す、と」


 それだけの事を一息で言ってのけると、悟堂は、その深くうつむけていた頭を、ふ、と上げた。

 その目はもう、一切の嗤いを棄てていた。

「――非常に申し訳ないが、お前の言っている黄泉比良坂を開く手立てはもう存在しない」

「存在しないとは、どういう意味だ」

 きつい声音で問いながらも、梶火の背筋には薄ら寒い物が伝う。

 悟堂は、明らかに様子がおかしかった。見開かれた目が、梶火を見ているようで見ていない。どこか、はるか遠い何かを悟堂の目は映していた。


あまてらす四方津よもつの許可は、下りると同時に両者に『神域』の格を附帯する。俺も熊掌も既に『神域』の格を有する人外の存在だ」


 悟堂の瞳に浮かんでいたもの。それは、絶望というよりも寧ろ、あわれみを含んだ蔑視べっしだったのかも知れない。

「いいか、じょえんは履き違えたんだよ。四方津が絶えれば天照の男児が生まれても黄泉比良坂を繋げ開く事は出来なくなる。だからぼくらんに命じて姮娥の血を混ぜた四方津の人間を作った。それが俺だ。つまりな――」

 そこには――憐憫れんびんと狂気の笑みが浮かんでいた。

「それが盛大な間違いだったんだよ」

 笑みが、歪む。堪えるように歪む。その目が赤くなっているのは果たして落涙を堪えているからか、それとも憤怒が噴き出すのを必死でおさえているからか。

 そしてその唇から、溜息のような嗤いが零れた。その手が悟堂自身の額に導かれる。

「――――師範」



「もういいや……いいよ。教えてやるよ梶火。よく聞いとけ。黄泉比良坂を開くにはな、天照の許可を得た四方津をほふればいいんだ。つまり俺を殺せば道は開く」



 悟堂は額に手を当て目を隠したまま、皮肉な嗤いを零し続けた。

「残念だったな。俺は既に『神域』に入っている上に姮娥こうがの混血だから「まがい」では切れない。五邑ごゆうの血を引くから死屍しし散華さんげでも死ねない。そして純潔でもないから「しん」の寶刀でも切れない。――俺を殺す事ができる手段は、すでに存在していないんだよ。だから、黄泉比良坂を開くことは、できない」

「悟堂」

 ぽつりと静かに食国が名を呼んだ。「悟堂」と再び呼ばわったが、悟堂はもう、食国に視線を向けなかった。


「やっぱり、方丈ほうじょうに文献がないっていうのは噓だったんだな」

「―――……ああ、ねぇ」


 悟堂はゆっくりと手をおろすと、皮肉な嗤いを浮かべたまま、漸く食国と目を合わせた。

「そうですねぇ。嘘でしたね、あれ。本当に申し訳ありません、公」

「四方津っ……貴様――‼」

 食国の隣で臥雷が腰を落とし抜刀しかけた、怒りのあまり肩が震えている。食国が「よせ!」と止めた。

「しかし公!」

 食国は首を横に振る。

「まだだ。最後まで喋らせろ」

 皮肉気に片頬を歪めながら悟堂は「お優しい殿下に感謝いたしますよ」と呟いた。


「まあ、ざっと二百年前までだったら本当だったんですけどね。――方丈に残された文献は、ひらがなでも、カタカナでも、白文でも書かれていない。あれは神代文字だ。神の文字だ。だから『神域』に入った者にしか読めない。――あんたら知ってるだろ? そもそも俺が神代文字なんぞを読めるようになった二百年前の経緯をさ」


 臥雷が一瞬詰まる。食国は――野犴へと目を向けた。野犴は、ずっと玉座の天蓋の影にいた。それは悟堂が控えていた場所の反対側だ。そこから、その表情を一切変える事無く、ただ静かに悟堂を見下ろしている。

 それに気付いているのかいないのか、悟堂はゆっくりと自身の両掌を見るように掲げた。

「他の四邑に伝わったものは、異地の帝の手の者が用意した文献だが、方丈のものだけは違う。――あれはな、異地の帝とその手の者がたくらんだ、この巫山ふざた五邑構造と素戔嗚奪取の策略に反対し、それが原因で政治の表舞台から退しりぞけられ、追いやられた先で死んだ官が書きのこしたものだ。己の不遇に対して何とか一矢報いようとした――つまり逆賊によって俺達に残された遺言なんだよ」

「あちらも丸きり一枚岩じゃねぇ、という事か」

 梶火の呟きに、悟堂の顔が――ぎらりと鋭い光を目に浮かべた。

「その通りだ。――なあ、お前、あの時聞いてただろうが。俺はもう、青を側においておければそれでいいんだ。赤玉も白玉も、瓊瓊杵も素戔嗚も知ったこっちゃねぇわ。『神域』に入った者の寿命は五邑のそれからは逸脱する。お前があと五十年だかそこらでくたばった後も、俺と青は死なねぇ。――残念だったな。待つ事にかけちゃ俺は執念深いんだよ。些末さまつな寄り道なんざ物の数にも入りゃしねぇ。交の絆はあっても「識」が浄化されりゃ記憶は残らねぇ。対して『神域』の者は自身の交がどこに転生しようが見付けちまう。お前がどこぞで生まれ変わって適当な女見繕って青の事なんかすっかり忘れ去ってよろしくやってんのを、俺がしっかりあいつに見せつけて心の底から失望させといてやるから安心してくたばれ‼」

「四方津悟堂‼」

「臥雷‼」

 叫んだ臥雷をまだ食国が止める。流石の臥雷も小刻みにくびを横に振った。

「公。これ以上は駄目だ。白浪として認められん」

 食国は険しい眼差しのまま、無言で臥雷を睨んだ。

「好きにしろ」

 言うと、食国は臥雷に背を向けた。

 二人のやり取りを目をすがめて眺めていた悟堂は、やがて、全てに関心が失せたかのような顔で首を横に振るうと、きびすを返して玉座の段にどさりと腰を下ろした。



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