85 それが鸞成皃の正体だ



 その言葉の意味を最初に理解したのはらいだった。

 その唇が――音もなく「まさか」とふるえる。思わず自身の口元を覆う。そして、そんならしからぬ息子の様子にりょうもまたその顔色を変える。

 今、臨赤りんしゃく宗主が語った事は、自分達の知る事とは食い違っている。しかし何故だろうか、とてつもない不安にられるのは。

 臥雷の耳の奥に、あの日の少年の叫びが黄泉よみがえる。



 ――いっ、厭だ! 止めてくれ! 食国と一緒に行くんだって、俺達はっ……



 悲痛な顔で、絶望の眼差しで臥雷を、おすくにを見詰めていた。あの日の少年が、今絶大な力を手にして目の前に立ちはだかっている。そこにあるのは恐らく執念と、臥雷に対する憎悪だ。

 そのあまりの危うさに震えた。

 万一――万一この臨赤りんしゃく宗主の言う事が本当なのであったならば、万一あの少年があの日の憎悪を忘れていなかったら、否、寧ろ月日を経て育んでいたら――白浪はくろうがどうなるか知れない。己の保身は捨て置くとしても、白浪に類が及ぶ事だけは、何があろうと避けねばならない。

 一瞬でそこまで考えた臥雷が食国の名を呼ばおうとして視線を向け――そこで止まった。

 食国の表情には――一切の色がなかった。

 それに気付かずか、かじなおも言いつのる。

「お前、まさか本当に知らなかったのか? 鸞成皃らんせいぼうは――あれは、あいつが八咫だぞ?」

「――馬鹿な事を言っているのはお前の方だろう、梶火」

 ぼそりと、何の感情も含まれない、あまりに冷たく暗い言葉に、臥雷の肝がぞっと冷えた。

「は?」

 食国の眼が――更に暗く淀む。



帝壼宮ていこんきゅうには僕の間諜が入っている。知っているか? 「神域しんいきがん」というのはな、使役鬼を使って共有できるんだよ。つまり間諜の見た光景を僕は直接目にしているんだ――白玉はくぎょくの『真名まな』を捕らえている月の宮の中に、八咫が贄として入ったのを僕が見たのは、もう四年以上も前の事だ。以来八咫は月の宮から一歩も出ていない」



「な―――なに?」

 食国は、ひどく冷えた眼差しで梶火を見詰める。

「確かに、相応に年を取ったんだろうな。多少面立ちは変わっていたよ。でもな、赤銅しゃくどう色に焼けた肌。硬い質感の漆黒の髪と、同じく漆黒の双眸そうぼう。――この特徴を、お前、八咫以外に知るか?」

 その、あまりに独特で特徴的な容貌ようぼうの説明に、梶火は言葉を失った。

 この食国の報は、自分がこれまで聞き知っていた事とは明らかに食い違っている。しかし「神域眼」の能を疑う事はできない。視認したと言うならば食国は確かにそれを見たのだ。

「――なあ梶火、お前、千鶴ちづる方丈ほうじょうへ『妻問い』される前に、員嶠いんきょうで子を産んでいたというのは知っていたか?」

「千鶴って、りょ家のか?」

方丈ほうじょうでは知らぬ者はない事らしい。そいつは名前をな、千尋ちひろというのだそうだ」

「千尋……って、そいつが何なんだ?」

 ぎり、と食国が歯を食いしばる。

「員嶠が崩壊した後、その残党が身を寄せたのはどこだ?」

 梶火は瞬きをしてから、すっと息を呑んだ。それはつまり寝棲の辿った道のりだ。即ち。


「――仙山せんざん、か」


 食国はこくりと首肯してから、酷く冷たい眼差しで虚空こくうにらんだ。

「千尋は、ずっと仙山にいたんだろうよ」

 そこで食国は、ふっとわらった。

「――少し考えれば、簡単に思いつく事だった。千鶴の夫だったのはじょなにがしとかいう寝棲の叔父だろう? 隠した子なんだから、寝棲がおいそれと僕達にその存在について語るはずがない」

 叔父の子ならば、それは従兄弟にあたる。つまり血縁だ。尚の事その存在は軽々しく語られるはずもない。

「それとな梶火。八咫が高臼こううすへ向かった時に、一緒に抜けた仙山が一人いる」

「おい、食国それは」

鸞成皃らんせいぼうがそもそも仙山と関わりがあったという事、これは奴を禁軍へ送り出す時に、げっとう大師長がじょえんに語った事だ」

「――そうだな」

 梶火は歯噛みした。それは確かにずいくうともやり取りした事である。鸞成皃は仙山と結んでいた。そしてそれを知った上で、げっとう大師長は仙山の大虐殺を実行させ、寝棲の首を獲らせたのだ。


 ざわりと悪寒が走った。


 今初めて思い至った。

 あの時、梶火は確かに八咫の事として隋空と語り合ったが、もし、もしも隋空が語っていた者が自分の描いていた者ではなかったとしたら?


 ――なかったとしても、筋は通るのだ。

 通ってしまうのだ。


「そう――それが鸞成皃らんせいぼうの正体だ。たい輿露涯ろがいの人間なんてのは嘘っぱちだ。仙山だぞ? 寝棲が言っていたのをお前忘れたか? 岱輿が生きていたなら千鶴が喜んだかも知れないなって。仙山に岱輿の末裔はいないんだよ。ここまでの――ここまでの事を成し遂げるのは並大抵の事じゃない。それこそ、邑を奪われ母を奪われでもなきゃ――ここまで狂えないだろうが」



 改めて青褪あおざめた梶火に、食国もまた青い顔をしてわらった。



「あいつは――千尋はな、自分の禁軍の麾下達だってだましてるんだよ。梶火、お前が、鸞成皃が八咫だなんて話を誰から吹き込まれたのかは知らないが――恐らく仙山せんざんの誰かだろうが――そいつがお前を騙したんじゃなきゃ、そいつもまた鸞成皃に騙されてるんだ」



 食国のその内心に去来するものは如何いかばかりであったろうか。古き友である千鶴。それがひっそりと員嶠で産んでいた子がいた。それは仙山に至り、やはりひっそりと――手段を選ばぬ憎悪と狂気を育んでいたのだとしたら。

 梶火の顔が更なる困惑に歪む。万一食国の言っている事の方が事実であったならば、その子供が寝棲ねすみの首を獲り、今また八咫をその手に捉えていたという事を意味するのだ。その報せを受けた食国がどれ程の衝撃を受けたか、想像に難くない。


 その種をいたのは――食国なのだから。


 梶火が言葉を失っていると、背後から「公」という声が届いた。臥雷だ。

「――あまてらすが鸞成皃ではないというのは、推測か? それとも」

「事実だ」

 再びの食国の断言に、皆が息を呑んだ。

「あれ程までに似た他人がいるというならば親族だろう。確かに八咫と八俣やまたはよく似ていた。だが、仙鸞の係累が絶えている事は皆知っているはずだ。最後の一人だった八俣の兄は贄となったと寝棲から聞かされた。――そうだろう、梶火」

 確かに、その通りだ。梶火が「そうだな」とつぶやく。

「――なあ梶火。つまりお前は、ゆう瓊瓊ににの顕現として奪われない為に、瓊瓊杵を餌として素戔嗚すさのおを釣るのではなく、素戔嗚を捕縛する別の道を共に模索もさくしろと、そう言っているわけだよな」

「……ああ。そのためにも俺は直接この妣國ははのくにの地を踏まなきゃならんかった。素戔嗚というのが何者なのか、それがどれ程の脅威なのか、俺はこの手で、この眼で、掴まなきゃならんかった」

 食国は、酷く難しい顔をして両腕を組んだ。

「――素戔嗚は、神、つまり『神域』の存在だ。だから神の係累でなければ、そもそも視認自体ができない」

「見えない、のか」

「ああ。そして接触もできない。五邑では、五感に関わる事であの存在を捕らえ理解する事は絶対に無理だ。つまりお前達は実体としてあれと併存し得ないんだよ。ただあちらの絶大な力だけがこちらに影響を及ぼす。あのあらみたまが力を振るえば容易たやすく大地も海も吹き飛ぶ。冗談でも比喩ひゆでも何でもないんだ――僕には、あれを捕縛する術など到底思いつけない」



 と、突然、広間の内に、さざなみのように空気をふるわす微かな笑いが響いた。





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