83 二の舞



紫炎しえん! お前――」

 騎久瑠きくるが梶火の胸倉むなぐらつかんだ。紅炎こうえんが「よせ」と騎久瑠の肩を掴む。

「お前、それは話が違うだろうが!」

 騎久瑠が梶火をする。梶火は苦し気にうつむくとまぶたを伏せた。


「わかってる。わかってるんだ。騎久瑠、済まん。ずいくうとは城で話をつけてきた。――俺は、これだけはどうしても譲れん。済まない、どうしてもなんだ」

「そんな事は分かってるよ! でも、なんで先に私らに言わなかった⁉ 親父と話がついてりゃいいって、それはっ」

 がん、と騎久瑠の拳が梶火の肩を突いた。


「――それは、私に対する最大の侮辱ぶじょくだとわかってやってんだろうな」


 梶火は、苦しさを隠さない顔で首を横に振った。

「騎久瑠。済まん、わかってる。――だが、これは臨赤の宗主としてじゃなく、えいしゅうかじとして食国に頼ませてくれ。個人を先んじて済まん。本当に済まん。だが、これを後に回して俺は後悔したくない」

 あまりに重い梶火の言葉に、食国もまり兼ねて口をはさんだ。

「梶火――それは、どういう事なんだ?」

 梶火はうつむいてきつく歯を食いしばった。

「――食国、他の事は、民の安寧な暮らしの約束をのぞいては、全てそちらに一任してもいい。無理を言う対案も必ず出す。俺の命も立場も全部、何でもくれてやる。だからお願いだ。助けてくれ」

 その取りつくろいの一切ない懇願こんがんに、騎久瑠はきつく眼をつむると顔をそむけて紅炎の肩にひたいあずけた。紅炎もまた厳しい表情で騎久瑠の肩を抱く。

 梶火の辿たどった荊棘けいきょくの道が分かるからこそ、苦しく居たたまれなかった。

 そして食国もまた理解する。かつて臥雷が言った、本心が違った場合土壇場でくつがえす事がある、という言葉の意味を。


「俺は、せい瓊瓊にに顕現けんげんさせなければ無事に済むと思ってたんだ。白玉はくぎょくの継承をさせなければそれでいいと。とにかく瓊瓊杵を封じたままにしておきたかった。だが、どうやらそれではまずいらしい」

「どういうこと?」

「いいか。瓊瓊杵の力である破砕はさいは、八年前の――あの時に道が繋がってから、ずっと青の中に流れ込み続けてるんだ」


「――なに?」


 悟堂がびくりと顔を上げた。その顔はそれまでの静けさをよそおった物とは明らかに違う本音をにじませている。ひど青褪あおざめた顔を引っげながら、壇上だんじょうより駆け下りた。

「梶火、お前、それどういうことだ」

 壇上から降りた悟堂と梶火が間近に対面する。かつては大きく体格差のあった二人だったが、今やその上背に大きな差はない。寧ろ八年の眠りでおとろえた分、悟堂の方が全体として一回り小さい。

 相互に、その変化に、歳月の重さを痛感した。

 梶火の眉間に深い皺が刻まれる。

「あの災禍さいかの夜の後――帝壼宮ていこんきゅうから戻った青が初めて白玉の参拝を果たした時から、あいつは、白玉――木花之このはな佐久さくの拒絶と、瓊瓊杵の『神域』への到達の最中さなかにある」

 そこで悟堂が一歩踏み出した。顔色は青色を超えて既に紙の如く白くなっている。

「待て、いま、帝壼宮からと言ったか?」

「ああ。言ったよ」

「何故ゆうが? 帝壼宮に、通わされていたのは、長だろう? 東馬とうまの、はずだろうが」

 ぎり、と梶火の歯噛みが響いた。



「――青がこの八年、どんな目に合ってきたか、てめぇ知らねぇだろうが」



 食国は息をんだ。梶火が何を言おうとしているのか悟った。

「ちょっと待て、かじ――!」

「八年前の火災の責任をとって東馬とうまは帝壼宮にられたままだ。以来、青が邑長を任命され、年二回の参内を義務付けられている」

「―――なん、だと」

「瀛洲邑長としての心得、作法、最低限の知識、それから帝壼宮での礼法、立ち居振る舞い、そんなもの、何一つとして知らないまま放り込まれた。青の教育係に付けられたのが四方津よもつ芙人ふひとだ。――奴に青がどれ程の苦渋をめさせられたか……テメェなら、想像がつくんじゃねぇのか⁉」

「梶火、それは」

 ぎり、と握りしめられた拳が、梶火自身の心臓の前で震えていた。



「――汐埜しおのの二の舞だ。八年掛かりのな。これで十分伝わっただろうが」



 ――しん、と間の空気が冷えた。


 おすくにの肝がざわざわと冷えていく。無意識の内に自身の左上腕をつかんでいた。いつの間にかそばに立っていたらいに触れられるまで、皮膚に爪が食い込んでいるのに気付かなかった。


 ひどく長い沈黙を経て、悟堂ごどうがぽつりと「公」と声を発した。

「知っていたんですね」

 食国は眉間を険しくする。

「ああ。知っていた」

「どうして、黙っていたんですか」


 あまりにはかない、静かで小さな声での問いに、食国は即答できなかった。出来るはずもなかった。たまらず、眉間に深い皺を刻むと視線を外した。


「確かに、迷った。――口に出すのもがたかったのも事実だ。何より、目覚めたばかりのお前に言っても仕方がない事だと……時期を見計らっている内にいっした。それも否定しない――だがな、だが」

 ぎり、と歯を食いしばる。

「――今のお前に、熊掌の苦界くがいを知るだけの価値があるか? 日々のお前の振る舞いを見てきた僕には、とてもそうは思えなかった」

 

 重い――重すぎる沈黙が垂れ込めた。

 梶火は、小さく苦い溜息をこぼす。


「いいか四方津よもつ悟堂ごどう。勘違いするんじゃねぇぞ。青は、自分の為の報復は自分でやれる。他人の横槍は一切許さない。あれはそういう男だ。んな事はあいつを育てたテメェが一番知ってるだろうがよ。だから俺も手出しはしてねぇ。――だがな、その因となったのはテメェらしいぞ。だから知らせておいてやる」

「……芙人ふひとが俺を憎んでいるから、熊掌はその報復に使われたと、言う事か」

「そうだ」

「――そうか。わかった」


 梶火は苦々しく舌打ちした。


「テメェらの間に何があったかはもう聞かん。しかし、テメェの不始末で青が巻き添えを食った気分はどうだ。ちっとは蔓斑つるまだらの時の青の気持ちがわかったかよ」


 騎久瑠きくるは拳を握るとそれを自身の心臓に押し付けた。その上から紅炎こうえんが手を添える。あまりのたまれなさに吐き気までもよおしてくる。場の空気はあまりに重く、まるでし掛かってくるようだ。

 自分達の寿命から比すれば、五邑ごゆうのそれなどまたたく間に等しい。彼等の今の年齢の頃ならば、自分達はまだ襁褓むつきも取れるか取れぬかといった頃だ。だというのに、これ程までに残酷な日々をこの八年の内に彼等は集約して過ごしてきた。それを確かに自分達はそばで見守り、その叫びに寄り添ってきた。

 つもりだった。

 今、梶火が、白の遺児が、そして四方津よもつが直面している絶望は、ただ一人の知己がいためつけられ奪われ続けた日々に対する怒りと衝撃と悲しみだった。



 またたく間の地獄。

 しかし永久とわに失われない地獄。

 そして、一片いっぺんたりとも関与させてもらえない地獄。



 梶火は、さらしてきたようで、実はその抱えた苦しさのほとんどを自分達には見せていなかったのだ。共に抱え寄り添ってきたと思っていたのは、ただの思い込みに過ぎなかった。

 ずっとこらえて、堪え続けて、為すべきのみに生きようと努めてきた。否、そうしなければ息をする事さえできなかったのだ。

 こらえ切れずに騎久瑠きくるの眼から落ちた涙の理由を、一つにはしぼれない。ただ一つ確かなのは――信仰が如何に無力か、という事を痛感したが故だった。


 信じる事が間違いだとは言わないし思わない。しかしそれは、信じる物が共通するという共同体においてのみしか機能しないのだ。それは倫理でも規範でも何でも構わない、同じ事だ。梶火を臨赤りんしゃくに受け入れて、これを頂点に頂いて、騎久瑠は、信念は種を超えると確信した。


 しかしそれは同時に、種が同じでも理念が通じなければ、それは絶対的な断絶となって人間じんかんを隔てるという事実を裏に包括していた。




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