82 無花果


         *


 謁見えっけんの間には、ひどく重い沈黙がれ込めた。

 いっそ悲愴ひそうな程に切羽詰せっぱつまった顔をしたかじに対し、悟堂ごどう只々ただただ静かなたたずまいをくずす事なくそこにいた。

 二次性徴をおすくににも、梶火とゆうの関係が以前とは違う事が分かる。それは、これまで食国が目にしてきたこうとはまるで違う強固さだった。


 における交は、直観的に多く嗅覚きゅうかくからそれがっている事を見極める。判別に使われるのは、しゅせきと「しき」だ。嗅覚に干渉かんしょうするのは種石の方になる。種石は個人によって匂いが異なり、交が成れば自身に相手の匂いが加わり、相手にも自身の匂いが加わる。複数の匂いが感じられれば交は成立していると言う事だ。そしてこれは交となった年数に従い混ざり合ってゆく。

 そして、この交を決定するのが「識」である。どちらか一方でも「識」が拒否をしていれば交は成立しない。これは種の拒絶としょうされた。「識」では薄く色彩で知覚される。拒絶されていれば、色彩が混ざらない。つまり種が混ざらない。

 しかし五邑ごゆうの場合は少し違った。夜見における嗅覚判断の元は種石だが、五邑のこれに該当するのはのうだ。五邑は脳によって意思決定し、統制される。生物種としての決定が脳で行われるからだろう。そして、交を決定するのもまた脳だった。脳が決めた事、すなわち個々人の意志決定によって繁殖相手の選択に大きく作用するというのは、食国からすればとても示唆しさ的に思えた。

 種に翻弄ほんろうされるのか、それとも学習と環境に作用されるのか――この違いは凄まじく大きい。こちらもまた嗅覚でその有無が知覚された。

 そして、五邑の交が成った時に「識」に現れるのは色彩などではなく、より具現化された映像になる。



 かじゆうのそれは、まるで植物のようだった。



 真っ直ぐに伸びる大木に、ぎっちりとからみついた木がある。つる植物だ。癒着ゆちゃくした部分は相互の色に染まり、もう元の各自の色が分からない程だった。

 食国の目は、絡みついている方の木を無花果いちじくと類して見た。細い何百とも知れぬ幾本もの枝――否、つるが、じりじりとじわじわと大木に絡み付いている。決して離さぬように、離れないように、そのどれかが千切れても構わないように、そして、他の何物をも寄せ付ける事が無いように、まるで包み込むように――紫の大木に、青い無数の蔓が巻き付いてた。



 俗にめ殺しの木と呼ばれるこれが――こちらのほうが――熊掌の「識」の具現だった。


 いたたまれず、食国は奥歯を噛み締める。

 「識」、それ即ち魂が支える個の意志と同義。そして魂とは心気だ。

 夜見は、魂で相手を定め、それが核に反映される。

 五邑は、脳で相手を定め、それが魂に反映される。


 食国は、実際に五邑の交が成っているのをこれまでに見た事がない。二次性徴前には見てもその判別が付かないからだ。だから、この二人が他と比べてどれ程に強く結びついているのかの比較は出来ない。しかしそれでも尋常の物ではないというのは分かる。

 そして、それを目の当たりにした悟堂ごどうがどう受け取るかなど明白だろう。彼の熊掌に対する執着はあまりに深く、あまりに重い。しかし、今目の前にいる悟堂は、例えようもなく静かだった。まるでいだ海のようだ。その異様なまでの落ち着きが、食国には理解できなかった。その目の奥に何をたたえているのか、何を思い、何を考えているのかが全く掴めずに、食国は困惑した。


「食国」

「――なに」

 

 悟堂を真っすぐに見据えたまま名を呼ばわってきた梶火に、食国もまた視線を向けずに応えた。

帝壼宮ていこんきゅうがお前を迎えるという話は、もう届いているな」

「……それも知っているんだな」

「だから言っただろうが。お前等も悠長な事を言っていられる事態じゃねぇって事は先刻承知しとると」

「――交渉事は皆無だなんて生温い事をいう気もない、とも言っていたな」

「よく聞いてるじゃねぇか」


 ふっと笑うと、梶火は腕を組んだ。


「八年だ」

「――ああ」

「八年かけて俺達は外堀はめた。今主力を握る姮娥こうがの集の内、赤玉のいただき高臼こううす員嶠いんきょう蓬莱ほうらいせんざん帝壼宮ていこんきゅうを掌握した鸞成皃らんせいぼう率いる禁軍。俺達臨赤りんしゃく。そしてお前達白浪はくろう――この全てが、お前を玉座にけようという一点において合意している状態だ。八年前の葉月はづきに、えいしゅうで俺達が事を起こした時に目指したのは白玉の継承を終焉しゅうえんに導く事。――これに関しては、現在姮娥こうがにおいて最大武力を掌握下に置いた禁軍大将軍様が決定した。最早くつがえりはしない。つまり食国、お前が鸞成皃の招きに応じ、帝壼宮で王位をつかめば俺達の本懐は達成されるという事だ」

 ぎろりと、鋭い眼が食国のそれを射る。


「――だがな、もう事はそれじゃ済まねぇ」


 低く静かな声が、ゆっくりと語り上げて行く。

「各集ごとにその思惑おもわくは異なる。何を優先するのかもまちまちだ。ただ一点、玉座に就くのがお前だという点だけが変わらない。分かるか、最早誰の中にも唯一不変の皇帝像や大義なんてもんは存在しないんだよ。誰しも正しく、誰も正しくない。完全じゃない。現状から導き出されるけようのない流れ――これが意にそぐわなかった者が足掻いて足掻いて、力を着けた結果が今だ」

 梶火は両の拳をぐっと握った。

「問われるのは誰が玉座にいるかではなく、実質の天意を掌握できた者が誰か、だ。そいつこそが本当の覇者になる。――それが誰になるのか、誰が覇権を握れるのか、それを決められるのは実際に動いた奴だけだ。そいつだけが本当の意味での本懐達成に至れる。俺は――」



「――それはつまり、僕に治天ちてんの能がないと言っているんだな」



 食国の、その静かな問いかけを、梶火はただ静かに聞き、そして「そうだ」と肯定した。

「お前に真にそれがあったなら、八年前に全てを利用する覚悟で事を決していたはずだ。それこそ、仙山せんざんに罪をなすり付けられる前に、お前が素戔嗚すさのおの係累だと判明する前に、意にそぐわぬ白浪はくろうとらわれ道を敷かれたと激怒して拒絶する前に――あの時にしか、お前自身が天意を握れる瞬間はなかったんだよ」

 厳しい断言に、食国はふっとわらった。


「そうだな」

「公⁉」


 食国のいらえに声を上げたのはらいだった。しかし食国は一瞬だけ鋭い視線を彼に送ると、その首を横に振った。その視線の意味は分かる。だから臥雷は――黙った。

「僕はもう、己がの国土の統治を引き継ぐ正統な資格と能を持っているなんて言わないよ。そんな事は僕自身が一番理解していたさ。どう足掻あがいても、否定したくとも、これ程何度も己の無能を突き付けられ続ければ厭でも分かるさ。――だがな、それに甘んじてただの御輿みこしに乗せられたのでは、生死を賭けて付いてきてくれた白浪の民に申し訳が立たないんだよ」

 梶火は、大きく息を吸い込み、吐いた。

「分かってる。民の命を守りたいのは俺も一緒だ」

 ややあってから、梶火は食国の方へ向きを変えた。

「――交渉事があると、俺は先に言っておいたな」

「ああ」

 紅炎こうえんが「紫炎しえん」と名を呼ぶ。それ程、あまりにひどしんせまった顔をしていた。厭な予感がした。そしてそれは的中した。



「なあ食国。相手がお前だからこそ、俺はもう腹芸はせん。俺は――せいうしないたくない。そのための交渉にきた」



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