81 離れたら駄目なんだよ。どうしても



紫炎しえん!」

 騎久瑠きくるの叫びにはっとしたかじおすくにが視線を大扉側にやる。今更ながらに食国は振り上げたままだった脚を下ろした。そして、目に入ったその光景に、両者共に瞠目した。


 勢いそのまま大扉の外にまで押し出したというのが瞬時に知れる。廊下に仰向けで倒れ伏したりょうの首に、すいが振り下ろした大矛おおぼこが狙いを定めていた。また、横からその矛のを掴む手がある。儀傅ぎふの右手だった。


「――おうすいか」

無沙汰ぶさたをしました、琅邪王ろうやおうりょう白皇はくこうのおこころざし、そのお綺麗なツラが張り付いただけのすっからかんの脳味噌からすっかり洗い流されてしまったようで」


 流れるように暴言をく翠雨を前に、臥龍はかすか青い顔をしていた。


「……息災だったか」

「お陰様で、妊娠出産育児と全部仕上げられるだけの御猶予ごゆうよたまわりましたわ」

儀傅ぎふではなく、君が産んだのか」

「ええ、何の因果か。―――為すべきは為した。これで心置きなく貴様をほふれる」


おうすい。やめなさい」

 声を発したのは梶火ではなく、儀傅だった。


「手を離して下がっていろ胡儀傅。これは忠義の問題だ」

「忠義を語るなら尚更。猊下の顔に泥を塗るような真似はしないで」


 自身の得物えものらえた男を見据みすえたまま身動みじろぎしない翠雨に、臥龍は溜息を吐いて自嘲じちょうの笑みを浮かべた。


「王翠雨。君の怒りはもっともだ。今の俺に、白皇に顔向けできる資格など一切ない」


 翠雨はなおも臥龍の眼を見てまばたき一つしない。そんな翠雨を儀傅はただ黙って待った。


無様ぶざま足掻あがくばかりで、何一つとして結果を残せなかった。白皇が守ろうとしたものは何も守れなかった。そんな五百年だった。あれ程必ず打ち破ると誓った素戔嗚すさのおに今はすがるよりないと言うこの為体ていたらく――今の己が生き恥以外の何物でもない事は、俺が一番よく分かっている」

「親父……」

 

 けわしい顔でらいは臥龍の言葉を聞いた。父のこんな本音を初めて聞いた。白臣として、地に落ちた自らの不遇を撤回すべく腐心してきた事は理解していたつもりだが、その根幹にこれ程までの白瓊環はくけいかんに対する忠心があったとは、ついぞ聞かされた事がなかった。

 ふと、臥雷は馬燦ばさんぎょぼうへと視線を向けた。そこにも矢張り、これまでに見た事のない物が浮かんでいた。

 そうか、とようやく理解した。彼等はこれまで、白瓊環はくけいかんに対する忠心を口に出す事すら許されない日々を耐えて生きてきたのだ。自分達には計り知る事も出来ない、あまりに多くの事を押し殺してきた五百年だったのだ。

 胸の奥が、ぎりと引き絞られるように痛んだ。


 と、翠雨が溜息を零した。大矛を収め、臥龍に向けて手を差し伸べる。


「――相変わらず、私より弱いんじゃ話にならないよおうせつがん

「耳が痛いな。とても一時引退した身とは思えんよ」

 苦笑すると臥龍は差し伸べられた手を掴んだ。引き上げられ立ち上がる。

「育児ってのはね、気力と体力を削る限界勝負なんだよ。飲まず食わず寝られずだ。戦場の方が交代がある分まだマシな時があるよ。――話を聞く余地がある事は分かった。何故白臣がこんな事になっちまったのか、きっちり説明してもらうからね」

「――話は済んだか」

 後方から声を掛けたのは梶火だ。翠雨が振り返り頭を下げる。

「勝手をして申し訳ありませんでした。お叱りと処罰は全てが済んだ後に如何様いかようにもお受けします」

「そんなもんはいらねぇから、向けるべき相手にだけ矛を向けるようにしてくれ。頼むぞ王翠雨少将。――あと胡儀傅。よく止めてくれた。腕は傷めていないな?」

 言われて、儀傅は苦い顔をしながら翠雨の大矛を掴んだ右掌を開いて見せた。赤く焼けただれ皮がけたあとがある。大矛が振り下ろされる間際に儀傅がを掴んで止めていなければ、本当に臥龍の首は飛んでいたかも知れぬ。確かに、の民であれば首と胴を泣き別れにしても寄せて合わせておけば癒着ゆちゃくさせられる。とは言え、苦痛でない訳ではない。止めてくれて良かった。

 翠雨は苦い笑みを浮かべると、会釈して大扉をくぐり謁見の間を出て行った。梶火が視線を儀傅に送り、小さく首肯して見せる。儀傅もまたその意図を解し、うなずくと翠雨の背を追った。その後に馬燦が続く。彼等は共に氷珀で臥龍の下に付いていた。無難な人選だろう。

 それまで黙って様子をうかがっていた食国が、ちらと梶火を見上げた。梶火も気付いて食国を見下ろす。


「えらく強いのが麾下に付いてるな」

「先の禁軍少将だ。臨赤では俺の次に強い」

「へえ、あれより強いって断言するんだ?」

「強いぞ。――強くならざるを得なかったからな」

 その低い声色に、食国は一瞬言葉をつぐんだ。

「食国、お前、あんまり縦には伸びてねぇな」

「二次性徴で雌性しせいが出ると伸びなくなるんだって。お陰で周りの見晴らしが悪い事悪い事」

 梶火が「ぶはっ」とき出す。

「確かに、お前の周りもでけぇのばっかみたいだしな。あ、さっきの替え玉は小柄だったか」

「も、って言うって事は、梶火もチビなほうなの?」

「もうちょっと言葉選んでくれよな……これでも気にしてんだから。壁だらけだぜ全く。長鳴ながなきなんか六尺五寸もありやがる」

「――山じゃないか」

「山だよ、ほんとに」

 梶火は苦笑にゆがめていた顔を、瞬間涙をこらえるようにけわしくした。梶火の右腕が食国の肩を引き寄せる。

 ぐ、と強く力がめられた。


「――本当に、無事でよかったっ……!」


 梶火の言葉と行動に、食国は一瞬目を丸くした。そして我知らず浮かんだ涙を誤魔化すようにぎゅっとつむり、ゆっくりとうなずいた。食国も同じく右腕で拳を作り、梶火の背中を二度叩いた。


「あの時は本当にありがとう。まあ、ヘマをした結果こんな事になっているが、お陰で生き延びた。梶火も、みんなも、本当に、生きててくれて、よかっ……!」


 もうあふれ出るものをこらえられず、食国は梶火の背に両腕を回してしがみ付いて声を上げて泣いた。梶火も同じく両腕を回して矢張り泣いた。

 先般の絶望の涙とはまるで違う、凝り固まった心が氷解してゆくような、そんな涙だった。

 あの日、信じて別れて、えいしゅうの外の世界に翻弄ほんろうされ、思った物とはまるで違う道を歩んで、姿形もまるで変ってしまって、だけれど今ようやく、その道が繋がった。


 生きて繋がった。

 これ以上に確かな物などなかった。


 ややあって梶火が食国を腕から放した。互いに若干まずいものはあったが、感傷にひたり旧交を温めている場合でもない。

「食国。単刀直入に聞くぞ。――四方津悟堂は何処にいる」

 梶火の低い声の問いかけに、食国が酷く難しい顔をした。一瞬目元を伏せてから顔を上げると、無言のまま玉座へとその視線を向けた。

 梶火がその視線を追って目を向けると、玉座を覆う天蓋の片隅から、酷くせた人物がゆっくりと姿を現した。


 そのあまりの変わりように、梶火は己の眼を疑った。


 明らかに三貫以上は肉を落としている。邑にいた頃は粗雑に伸ばされていた髭鬚ひげはきれいに当たられていた。結果、そもそもが寧ろ柔和で流麗な部類の面立ちが強調され、あからさまにさらされていた。たおやかな骨格と立ち居振る舞い。三十前後とみられた年齢は、寧ろこの八年で若返ってすら見えた。

 ともすれば女としか見えないその華奢な人物は、ゆっくりと腕を組んだ。ふわりと柔らかくまなじりを下げ、小首を傾げて微笑む。


「俺より強くなったって?」


 梶火はぎりと歯噛はがみしながら、両の拳を握りしめた。

「――ああ。あんたを超える為だけに費やした八年だ。がっかりさせんじゃねぇぞ糞師範」

 悟堂は――ふっと笑った。微かに、苦し気に。

「人が寝てる間に――やっぱりお前に持っていかれちまったか」

 梶火の視線が一瞬外され、しかしすぐにそれは悟堂の眼を真っすぐに射た。悟堂の眼が、嗅覚が何を見抜いたのか、梶火も理解していた。していて、敢えて言った。



「離れたら駄目なんだよ。どうしても」




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