78 お前が後悔する事になる



 母を使者として姮娥こうがに送り込み、月朝とはなるべく事を構えずに交渉に入る。おすくにはそのつもりでいた。それが最も民の命をけずらない。そう判断しての事だった。事を起こすつもりだったなら、そもそも母を送り込むなどしなかった。

 はじめ、素戔嗚すさのおとの交渉は難を極めた。母を使者に立てる事がまず彼の逆鱗に触れた。交渉役に志願したらいを行かせたが、なかなか帰ってこない。半月してから半死半生で帰還した臥雷の姿を見た食国は、己が直接交渉する事に転じた。それ程に臥雷の状態は酷かった。


 結果はまさかの即断であった。

 母と酷似した容姿に育った食国を、素戔嗚はひどく喜んだ。


 食国の祖父に当たるこの男神は、非常につかみどころのない人物だった。いや、人ではないのだから当然か。これが自身の係累けいるいであるかと思うと薄ら寒くなった。うまく言葉では説明がしがたいが、相対していると、身の内から震えが来るのだ。この目の前にいる存在に、自身と同種の生物であるという確信が持てなかった。

 異物には警戒と恐怖がく。

 しかし、彼は母を使者に立てる事を一先ず許し、その為の同行の護衛をいくら使っても構わないと言った。いくら母に似ていたとは言え、こうも容易たやすく許可を出した根拠は知れない。矢張り何を考えているのかが全く掴めない。それでもそれを僥倖ぎょうこうとした。せざるを得なかった。

 素戔嗚に対して戦慄せんりつが続くのには訳がある。

 彼の姿は、白浪はくろうにおいては食国と母にしか視認されない。その事実を知ったのは、妣國ははのくにに来て随分とってからだった。これが『神域』に関わる者にのみ得られるのうであると母から聞かされたのはその時である。臥雷がおもむいた時、彼の目に映ったのは激しく渦巻く光の色彩だけだったそうだ。改めて無理をさせたとびると、臥雷は苦笑しながら首を横に振った。

「俺が勝手に行きたいと志願してヘマしただけだ」



 事態が急転直下におちいったのは、全く身に覚えのない事をいんとしていた。



 卯月うづきに、白浪はくろうせいかい城をとしたという根も葉もない話がいたのは、弥生やよいにこちらから送り出した母や素戔嗚の兵達が帝壼宮ていこんきゅうに無事到着したという報を聞いてから間もなくの事だった。

 またしても白浪に激震が走った。濡れ衣を着せられたと理解した白浪が真っ先に疑ったのは矢張り仙山せんざんだった。

 その報せの意味を紐解ひもとけば、その目的はえいしゅうさんぽう合祀ごうしの奪取、あるいは破壊にあるとしか思われないだろう。聞いた食国達ですらそう判断する。

 実際のところ、白浪が使者を送り込んでまで最終的に目論もくろんでいたのは宮中にある『真名』の奪取だった。しかしそれは断じて破壊ではない。臥雷が一時、器の殲滅せんめつを検討したのは事実だが、それは既に食国によって却下されている。それ以降彼がその意に逆らおうとした事は一度足りとてない。

 『環』で繋いだ伊庭いば射干やかんからその事を知った臥雷が慌てて彼に指示を出して母と共に帰還させようとしたが、戻ったのは伊庭いばつないでいた『環』の切れ端だけだった。


 ほうとうで切られたのは明らかだった。


 急ぎ使者を飛ばしたが、伊庭と母の安否不明が長く続いた。

 白浪は急ぎ仙山大本営の状態を確認に走らせた。これは野犴やかんからのたっての願いでもあった。仙山が氷珀ひょうはくで機能しているのを確認したのは他でもない野犴やかんだ。師走しわすには確かにその目で視認したのである。しかし、再度野犴と「神域眼」を持つ兵を共に走らせた時には、既に氷珀のとりではその全様を粉塵ふんじんしていた。

 

 完全なる破壊である。


 瓦礫がれき更地さらちまだらを前に、野犴と兵は無言のまま立ち尽くした。既に、そこにはねずみ一匹存在しない。しかし戦闘の痕跡もなかった。つまりこれは仙山自らによって行われた大本営の遺棄いきであったのだ。


 またしても白浪は出し抜かれたのだ。誰しもがそう悟った。


 食国は血相を変え、宮廷内の確認をしようとした。しかし、食国が契約をした「神域眼」の者とどうしても繋がらない。つまり、その者の安否も不明だったのだ。母達の無事は確認できない。不穏をくつがえせない。

 食国は荒れに荒れた。

 広間で叫ぶ食国を見兼ねた臥雷が、その身体を担ぎ上げて己の自室に放り込んだ。なるべく使うつもりはなかった『環』をこの時だけは使わざるをえなかった。これ以上の醜態しゅうたいの前でさらさせる事は白浪内の不安を無駄に掻き立てるだけだ。寝台に放り投げると「とにかく一旦落ち着け!」と怒鳴どなった。


 その瞬間、食国の中で限界の糸がぷつり、と途切れる音がした。


 臥雷の目に映ったのは、自身の体をむしり、更に自らの腕に噛み付くというおのこうの姿だった。臥雷は血相を変え、必死でその腕を掴み抱き留めて抑え込んだ。それでも尚自身の腕に噛みつこうとするので、臥雷はそこに自分の腕を押し込んだ。全力で噛みつく痛みに「ぐっ」と息がれる。眉間に深い皺を刻んで見た食国の目には、これまでこらえ続けてきた涙があふれていた。

 馴染みの薄いその行為の意味を、臥雷も話しの上でだけは聞いていた。が、実際にそれを目の当たりにし、ようやく生物としての性質の違いを理解する。



 宇迦之うかのの言ったさが――すなわち、妣國ははのくにの民の持つ補食ほしょくの本能である。



 食国は、只々ただただ孤独に泣いた。それまで決してさらす事のなかったその激しい絶望の姿に、臥雷も自身が如何いかに無力かを痛感し歯噛みした。もう自傷を止める事しかできない己が悔しくてならなかった。食国はその胸にすがって泣いた。臥雷はそれをただきつく抱き締めた。二人は共に、自身の無力に全身が絶望でむしばまれている事を痛感した。

 目指した事のことごとくが裏をかかれてつぶされる。姮娥こうがを遠くから歯噛みして見詰める事しかできない。何か事を起こす度に誰かにそれをくじかれて、己の無能が白日の下に晒され続ける。それは恐怖だ。

 また、目の前にあると信じてきた八咫やあたとの再会は、近付いたと思うとすぐに指の間からこぼれ落ちてゆく。無力で無能で何一つ描いたように為せない徒労感、虚脱感、失望。全身がそれで満ちた。息をする事すら苦しかった。無様にも臥雷の腕の中で身を小さくする事しかできなかった。

 臥雷の手が食国の髪を静かに撫でた。その手と胸にただ縋った。泣いても泣いても涙が枯れない。こんなに全身が重いのに、どれだけ泣いても重苦しさはえない。

 きつく抱き留められる事でしか、体の輪郭を保てない。

 耐えられる限界を超えていた。

 今ここに生きている事を確かめたかった。

 臥雷の首に両腕を絡ませる。その時確かに食国は他者の肌を求めていた。臥雷は、苦し気に眉間を歪めると、微かに震えながら首を横に振った。


「――お前が後悔する事になる」

 

 臥雷は食国の頭の上から薄布を被せた。一枚を介して額に、瞼に、耳元に、幾つもの口付けが落とされる。布がするりと引き下ろされた後、臥雷は苦し気に、静かに食国の額に自身の額を合わせた。


「まだだ、まだ何も分かってないだろう。すいれいの事も、本当にうしなったと分かるまではあきらめるな。――奴の事も、ちゃんとにえとして終わったのを見届けた訳じゃないだろうが。俺は……悪いが俺は、誰かの一時の代役に甘んじていられる程安くも寛容にもできてねぇ。それに、お前が思ってるよりも我慢強いから、お前の心が本当に必要としてるのが俺だと確証が持てるまでは――そうだな、百年ぐらいなら待ってやるから――それまでちゃんと自制しろ」


 臥雷の右手首で『環』のついがかちゃりと鳴る。その右手で、食国の左足首をいましめる頭蓋とうがいを愛し気に苦し気にでる。あんなに憎んだ拘束が、今では食国の崩れそうな足元を地につけてくれる存在となっていた。


 部屋に辿り着くと、食国は、静かに後ろ手で扉を閉めた。

 母達の一先ずの無事は皐月さつきに確認が取れた。しかし安寧としてはいられない。


 その目は、ただ静かに近く迫りくる臨赤りんしゃくとの接見を見据えていた。

 もう崩れているいとまなど一切ないのだと、時が食国に告げていた。




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