77 父さんって、どんな人だった



 「ふぅ」と一息いてから、おすくには苦い顔で宇迦之うかのを見た。

「――それ、それも聞こうと思ってたんだけど、母さんは僕の事息子だと思ってたんじゃないの? 小さいときはよく息子って言われてた気がするんだけど」

 宇迦之は更に小首をかしげると、「ええと」と続けた。


「便宜上ね、二次性徴が来て雌性しせい雄性ゆうせいがはっきりと表れるまでは、宮中って子供の事を全部息子と呼ぶのよ、普通」

「――そうなの?」

「雌性と判断されると幼年からこうの争奪がはじまるから」

 その言葉の意味をあやまたず理解した食国はぞっとした。眉間に皺を寄せていると、「だから」と宇迦之は遠い目をしてみせた。



「だから――ぼくらんは異常」



 その声は、矢張りひやりとしていた。

「あの子は、の事を娘としか言わなかったの。余程雄が嫌いだったか、もしくは早々に我が子の傾向を見抜く目があったか、どちらかなんだけど。それでもやはりね」

「じゃあ、雌性の僕でも、よかった?」

 そこではじめて宇迦之は明るく笑った。

「何言ってるの。そんな事はどちらでもいいのよ。あなたはあなたなんだから。あなたがちゃんと、あなたの人生を勝ち取ってくれればそれでいい。わたくしは、あなたの親になれた事を誇りに思っている」

 思いも寄らない率直な宇迦之うかのの言葉に、おすくに歯噛はがみした。

 どちらかと言えば苦手な母だった。それでも、矢張り母だったのだ。胸に湧いたじわりとしたものに押されるように、これまで聞きたくとも聞けずに来た事を、しぼり出すようにして口から出した。我知らず、逼迫ひっぱくした眼差しを母に送っていた。


「――父さんって、どんな人だった」


 宇迦之は、じっと真っ直ぐに食国の事を見た。そのあまりの実直さに食国は居たたまれなくなり、思わず視線を下げた。長く、聞いていいものだとは思えずに来た。そして、その正体を知って尚更聞けなくなった。それが食国にとっての父だった。

 矢張り聞くべきではなかったか、いやしかしと、一抹いちまつの後悔とぬぐい得ぬ父という人への関心が胸に去来きょらいした刹那せつな、ふ、と母の吐息が聞こえた。

「不思議ね」

「え」

「やっぱり、育ちって大きく影響するものなのねと思ったの。貴方はすっかり感性が五邑ごゆうだわ。瓊環けいかんを父と認識しているのだものね。まあ、わたくし達の場合は完全雌性と完全雄性だったから、それも間違いではないのだけれど、夜見においては十分に異端よ」

「そう、なんだろうね。確かに」

 苦笑していると、母は再び自身の指先をそのあごに触れさせた。やや悪戯いたずら眼差まなざしで微笑む。


「あなた、人の話を聞かない男が好みでしょ」


 唐突なその指摘に食国は一瞬せたが、すぐに無理矢理持ち直させた。

「――否定はしない」

「馬鹿みたいに明るくて、言い出したら聞かなくて、失敗してもへこたれなくて、よく泣いてよく笑ってよく怒る。身内の事をとても愛していて、疑う事を知らない。そして、一度決めた事は余程の事がない限り絶対に撤回てっかいしない」

 食国はばつが悪そうに後頭部を掻きながら視線を外した。

「それ、なんで分かるの?」

「そりゃ、わかるわよ」

 宇迦之は困ったように遠くを見て笑った。


「――わたくしと同じだもの」


 複雑な顔をして黙った食国に、宇迦之は肩から零れ落ちた自身の髪を背後に流しながら、やはり小首を傾げた。しかし今度は笑ってはいなかった。

瓊環けいかんについてあれこれ言わずに来たのは、あなたから聞かれなかったからだけれど、何よりも、わたくしがあの人について語れるのは、為政者としての白瓊環はくけいかんではなくて、一個人としての彼になってしまうからよ」

「個人として――か。考えた事もなかったな」

「そう?」

「――周りの人間が父について僕に語るのは、常に統治者としての白瓊環だったから」

「そうね。そうかも知れないわね」

 宇迦之は、しばらくの間窓の外に目をやってから、真顔で溜息をついた。

「母さん?」

「最初はね、なんて七面倒臭しちめんどうくさい雄に目を付けられたのかと辟易へきえきしたのよ」

「ぇえ?」


 思わぬ罵倒ばとうにおかしな声が出た。


「何度断ってもこうになれって、人が仕事してる現場のあっちこっちに言いに来るの。一人でよ? とももつけずに。あまりにひどいから、己の分も立場もわきまえないような人間の交なんて御免ごめんだって言ったら、あの人どうしたと思う?」


 その瞬間、宇迦之は頭痛をこらえるような顔をした。母のそんな顔を見るのは初めてで、食国は話の内容以前の衝撃を受けて息を呑んだ。


「なに、したの?」

「人が氷珀ひょうはくとりできずいてた時に、三万の隊を率いて求婚しに来たのよ。皇帝らしい分をわきまえたですって。信じられる? しまいには応じるまでここで陣を張るって言いだしたのよ、あの人。三万の兵がいたのによ? 前線の、戦闘のど真ん前に皇帝が三万の兵を引き連れて求婚しに来たって言うのよ? ――これ以上は設営に難がでるし、皇帝の御身に万一何かあったら国家の一大事だからって追い出されたのよ、わたくし。仕事場をよ? 自分が設計をした砦の現場からよ?」


 どうしても朴訥な語り口であるのに明らかに当時怒髪天どはつてんいていたのが分かる。何より見開いた目が本気だった。食国は自分の口元が引き攣るのが分かった。

「――退路をふさがれたってわけね」

 宇迦之は真顔に戻るとゆっくりと首肯した。

「言ったでしょ。一度決めた事は余程の事がない限り絶対に撤回しない人だったって」

「こう言ったら身もふたもないけど、よく逃げ出さなかったね」

 宇迦之は苦笑した。

「ほんとね。でもね、そこまでやってくれたから、一度ははかってやってもいいかなと、そう思ったのよ」

はかる?」

 怪訝けげんな顔をして小首を傾げた食国に、宇迦之は微笑みながら椅子から立ち上がると、ゆっくり歩み寄った。そして、食国の前にひざまずくと、母親らしい表情で我が子を見上げた。

 そっと手を差し伸べる。

 そして、さらりと指先で食国の髪をき揚げる。



「あなたも分かるでしょう。あなたにも、他害と自傷のさががある」



 食国は眉間を険しくして、微かにうつむいた。

でそれを受け入れてくれる雄性は少ないの。――瓊環は、わたくしにそれを許してくれた唯一の人だった」

「そんな理由で……」

「十分なのよ、そんな理由でもひとつあれば」

 母は、心から困ったように笑った。



 その時の彼女の顔が、今でもまなうらに焼き付いている。





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