64 本来であれば


「猊下」

 隣を駆ける馬影から、すいが声を掛けてきた。

騎久瑠きくる様達は、今」

「すでに難海なんかい城で出立の支度を整え終えたと使役鬼から報せがあった。俺は城でずいくうと話があるから、それを終えてから白浪はくろうへ向かう」

「白浪までは、およそどれ程の日程となりますでしょうか」

「天候と、あとは薜茘へいれいとの遭遇次第だな。東の国境は空が荒れやすい。それに目覚めの影響が出た者とも遭遇しやすいと聞いている。まあ順当にいけば難海から先遣隊がいるしょくめいとりでまでで十日。触明から白浪本拠地までは二十日程ってとこか」

 現在、騎久瑠は難海城に留まり、そこで臨赤の兵二万の師団と共に妣國へ向かう支度を済ませていた。神州で隊を整えた場合、この行路は長引く上に目立つ。国土の最東端にある難海城で隊を整えるのが最も人目に付かない。当然の配備である。

「先遣隊には、紅炎こうえんが使者として向かったとか」

 翠雨の問いに、梶火の眉間が歪む。

「ああ。――民と行き会っている」

 翠雨が僅かに息を止めた。

「無事到達できたのですよね」

 梶火は僅か俯くと首を横に振った。

「百取られた。それで済んだと言うべきかもな」

 現在、梶火の使いとして紅炎率いる五千の旅団が白浪との交渉に臨むべくしょくめいの砦にて女王に入国許可を願い出ている。この内から百がその命を食い荒らされ散らしたという事だ。

 あやふやな状態で敵陣にならぬとも限らない白浪におもむく難を、紅炎は自ら負ってくれた。いつものあの笑顔で梶火の頭をぽんと叩く姿が思い出されてならない。

 翠雨が厳しい声で「猊下」と今一度呼ばわった。

「今一度、猊下のお考えをうかがっておきたいのです」

「ちょっと、翠雨」

 声音の重さに、儀傅ぎふがさすがにいさめようとしたが、梶火は首を横に振って止めた。

「俺の考えか」

「はい。一時は六百万を数えた臨赤の兵も、せんの華州の難を契機とし、総計百万を失いました。現在の総軍は五百万。この内から、どれ程を削る事を想定――ないし、お覚悟なさっておいでか」

 梶火はふ、と笑った。

「どうなさいました」

「いや、本当に頼もしい事だと思ってな」

 翠雨の鋭い眼光に、往年の戦士の本質を見た気がした。梶火の見知る彼女は儀傅ぎふの交でありしぃしぃの親だ。常に守り育てる側の立場を守っていた。しかし今梶火の眼の前にいるのはまごう方なきつわものだ。

 翠雨はもうそこに養育者としての顔をさらさない。親以前の、本来の自身の姿を取り戻しつつあるのだろう。梶火にその良し悪しを判じる手はない。心穏やかに我が子と過ごす前線を退いた暮らしの方が幸福なのではとも思われるが、それもまた個人の性情に因るものだ。余計な所感で口を挟むべきではないだろう。

 翠雨は微かに笑った。

「わたしは前線を離れて長いですからね。――妣國ははのくにに、白皇が何故進軍したか、その本当の理由を知る者はもう多くない。伊弉冉いざなみ素戔嗚すさのおに対するわたしの感情は今でも憎悪以外の何物でもありませんが、そんなものよりも何よりも、往時を知るはずのはくしんの多くが白浪に残存している事のほうが余程重要なのです。知っていて尚奴等と手を結ぶ事を何故良しとしたか、何故そんな事を選択できたのか――わたしには、その方が余程承服しかねるのです。奴等の真意によっては、わたしは同胞であろうとこの大矛を振るう事を厭いませんよ。特にそれが琅邪王ろうやおうりょうであれば尚更だ。あれの決断が生半であったならば、決して赦す訳にはいかない」

 あえて白皇に下賜された字名あざなせつがんではなく臥龍と称した翠雨に、その怒りの集約を梶火は見て取った。鋭い眼差しが語る本意に、梶火は首肯して見せる。

「分かっている。しかしくれぐれもはやってくれるなよ。その本意を探るために俺達はこうして敵地に乗り込もうとしているんだからな。最早、仙山せんざんが把握していない情報が方丈ほうじょうのものに限られる以上、宮城内での事は禁軍大将軍様に請け負っていただくのが最善だ。寧ろ放っておいても勝手にやってくださるさ。だから、俺達は白浪が抱えている情報の方に照準を向ける。この先一切の取りこぼしもあってはならないからな。臨赤としては、赤白の置き換えが起きた本当の理由を把握して後、白日の下にさらす事を第一とする。我々は、民に真実を返さねばならんのだ。このまま真実を隠しおいて事なきを得たなどと、そんな結末で民が納得してくれるような悠長な事態ではないだろう。それこそ次代に残る火種となりかねん。――翠雨、俺は兵をこれ以上一人たりとも喪いたくはないが、それを、後の禍根を取り除く事を躊躇う理由にはせん。どうかこれで意図を汲んでくれるか」

 翠雨は「はい」と眉間に皺を寄せた。

「猊下のお心承知いたしました。それに沿うべく、わたしもなるべく無益に矛を振るわぬように善処致しましょう」

「――ありがたい」

 梶火はその含みある言い回しに苦笑した。向こうでは儀傅が溜息を零している。

 ややあって「それにしても……」と、翠雨が溜息を零した。

「白皇の真意を――「あれ」は間違いなく知っていたはず。それでどうして白玉などを呼び寄せて皇を討ち、あまつさえ易姓革命まで為す事ができたのか――停戦などと生温い事を」

 その「あれ」、というのがじょえんを指している事を梶火は知っている。名を口にしたくない程に嫌悪している事も同様にだ。

「猊下。わたしを妣國側へ連れ出して下さってありがとうございます。これが帝壼宮へ向かう隊などに加えられていたら、私は間違いなくあれの首を獲りに飛びましたでしょう」

 梶火は苦笑した。

「――だからだよ」

 本音を語らせた時のこの苛烈かれつさに、これは何があろうと帝壼宮側へ向かう隊には加えられないと判断した。何人にも制御しきれる気がしない。

 これは、王雪厳も扱いに難渋したろうと梶火は小さく苦笑する。

 翠雨が少将であった時分に、上官としてあおいでいたのが琅邪王ろうやおうりょう氷珀ひょうはくおうせつがんだった。氷珀は妣國ははのくにとの闘いの最前線だった。彼等はかつて身命を賭して共に戦った仲である。如艶による簒奪さんだつが成り、行方が知れなくなった上官や仲間達の事を、翠雨はずっと気に掛け心を痛めてきた。

 それが蓋を開けてみれば許し難き仇敵きゅうてきと手を結んでいたのである。

 最初にその事実が明らかとなった時、彼女が見せた荒れようは筆舌に尽くし難かった。歯を食いしばり、目を見張りながら赤玉廟を出ると、直ぐ近くにあった巨木を大矛で一瞬のうちに薙ぎ払った。両肩から立ち昇る憤怒を、荒い呼吸で必死に抑え込もうとしていた様が、未だ目に焼き付いている。

 翠雨は、その外観に反して激烈苛烈な性状の人物だ。

 そして、臨赤で梶火に引けを取らないほぼ唯一の強者でもある。あの黎曜れいようですら翠雨には敵わなかった。

 騎久瑠や紅炎の強さも間違いのないものだが、戦の経験と姮娥こうがの民である点を考慮しても、実戦の場では彼女に勝るものはないだろう。希希は護りとして臨赤の要だが、こと戦闘に関しては翠雨こそがその要だ。これを家族に持つ儀傅ぎふが梶火を臨赤に誘い入れた事は、もはや引きが強いなどという簡単な言葉で済ませられるような物ではない。

「翠雨」

「はい」

「妣國側には、臨赤はそもそも妣國の民の血を引く者を多く抱える集であると伝えている。お前がこれに対しても本来複雑な感情を抱えていた事は理解しているつもりだ」

「――それに関しては、各自の事情がある事は理解しているつもりです。さすがにもう飲み込みましたよ、わたしも」

「ああ。ありがとう。今回の目的は、我々の側に妣國に対する害意はないという事を知らしめる事。並びに、白の遺児を抱える白浪に対しては、姮娥へ使者を送りこんだその本意を確認する事。加えて、現在この白の遺児に対して、鸞成皃が玉座を明け渡すべく入城を交渉してきているはずだが、これに対しいささかでも警戒があるのであれば、臨赤は国内における後ろ盾としての協力を惜しまないつもりだがどうするかの確認――この三点だ」

 翠雨の眉間に深い皺が刻まれる。

「――素戔嗚の目的と対応は変わりませんか」

「のようだな。まあ、神の考える事はわからん。そもそも考えてすらいないのかも知れんがな」

 ちっと翠雨が舌を打った。

「あの下衆め」

 希希が傍にいないとあって、遠慮する事もはばかる事もないのだろう。事前に儀傅から聞いていたとおりの様子に、流石の梶火も苦笑を禁じえない。

 本来であれば、母体を担当するのは翠雨ではなく儀傅の予定だったと聞いている。翠雨が雄性二種で、儀傅が雌性二種。相互に交とする事は決めていたが、残りの一交が定まる前に、酒が過ぎてたわむれた。結果の授かり物が希希である。人生とはどうなるものかわからないと、険しい顔で嘆息していた翠雨を見た時には流石に吹いた。以降、山に隠れ住み、儀傅が出稼ぎ、翠雨が一人で希希を育てた。希希が立ち上がるまでに掛かったのは五十年である。これをほぼたった一人で育てた。通常の姮娥ならば三人で育て乗り切る苦行をたった一人で勤め上げた。正に発狂寸前だったそうだ。さすがの梶火も考えるだに恐ろしかった。絶対に嫌である。


 弱き者を死なせぬために昼夜を問わず気が抜けぬのを五十年、正に地獄であろう。


 一行はやがて海を抜けた。危坐きざ州はこれをおさめるしょうずいくうの気質も手伝い、異質なものに対して基本的に態度が寛容だ。これが他の州であればこれ程堂々と隊を率いて空を行く事はできない。上空を見上げて騎影を認められてしまえば必ず騒動になる。

 臨赤は長く世に名をさらさずにここまできた。これまではこれが優位に働いたが、白浪と関わると決めた以上、もう世に隠れはばかる事はできない。麾下達とも話し合いは済ませた。紅炎が使者として白浪に入った以上、この事実は瞬く間に人口に膾炙かいしゃする。

 もう、後には引けないのだ。

 梶火ら一行は、一路危坐の難海なんかい城に急いだ。



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