8 赤心

62 腹を括れ



 えいしゅうを遥か眼下に見下ろしてから、かじは東のはてへ視線を向けた。眼が陽光に焼かれるのを嫌い、わずかにその双眸をすがめる。

 眼を眇めるのは陽光の為ばかりではない。海上の風は何処どこも強いというのが、天馬をるようになって梶火が覚えた事の一つだ。それでももう随分と単独の飛行に慣れた。全身を風にあおられても馬上で体勢がぐらつく事はない。


 皐月さつきの末という時節。天候によってはその身に受ける日差しによって肌も焼かれる。しかし現在の梶火は、外套でその肌を執拗しつようおおい隠してはいない。風防ふうぼうはずしている。

 衣服の風になびくのが心地よかった。

 全ての決着がせまっている今、これ以上その本身である五邑ごゆうを隠し、紛れる必要もない。長くなまじろかった肌に久方ぶりの日焼けを許すのもまた爽快だった。


 一羽の鳥が視界のはし滑空かっくうしてゆく。それをちらと見送り、眼をもうわずかばかり開いた。


 蓬莱ほうらいから来た男との出会いは、梶火にとって僥倖ぎょうこうだった。

 知るべきでありながら知れず、あるいはそんな事実があった事すら思い至らずに、全体をまだらにしか把握できていなかった世界は、彼からの伝聞のお陰でその全貌をあらわにしてくれた。

 蔡水麒さいすいきという男は、人当たりはやわらかいが、その本質は丁寧に鍛錬たんれんされたはがねの如くしなやかで鋭かった。「贄となる」。単純明快な一言だが、その現実に起こる事は禍々まがまがしい。彼を待ち受ける運命は決して容易たやすいものではないはずなのに、その振る舞いは静かだった。それが表すのは、覚悟に有した歳月の長さだろう。


 彼は自身の任にじゅんじる。ならば己もそうするまでだ。


 卯月うづきかじが瀛洲を出る間際、熊掌ゆうひも間もなく帝壼宮ていこんきゅうへ向かうと言っていた。悟堂ごどうの件があるので当然そうなる。場合によっては八重やえに同行したかも知れないし、あちらで八咫やあたと合流する可能性が高い。


 そう。八咫が既に帝壼宮にいる。


 梶火の頬に皮肉な笑みが浮かぶ。

 禁軍大将軍様の蜂起ほうきにより、玉座ぎょくざ簒奪さんだつされ、じょえんは五百年のいただきから引きずり降ろされた。これも道中に届いた使役しえきからの報せで把握できている。白玉はくぎょくの継承はこれ以上続かない。八重の無事は保証されたも同然だ。梶火は密かに胸を撫で下ろす。長鳴ながなき八重やえを見る目に気付かぬはずがない。あの二人には、穏やかな未来を生きて欲しいと心から願っている。

「――ほんとうにな」

 我知らず、小声が漏れた。

 何時の間にかうつむいていたか。視界に入った海面の一部で、群れる魚影の銀沙ぎんさがギラギラとまたたいていた。気付いて背筋を伸ばし、前を向く。

 白玉の継承に付随する懸念は、当然熊掌にも付きまとっていた。

 瓊瓊杵ににぎ顕現けんげんとなるあまてらすの男児。これに該当するのが熊掌ゆうひである以上、彼が白玉の継承に選ばれる危惧は確かに残っていた。が、すいどろとの邂逅かいこうによって、熊掌が白玉はくぎょくの継承を果たす可能性は限りなく低いだろうと梶火は結論付けた。

 何故か。


 それは、黄泉比良坂よもつひらさかを繋げ開く事の本質が示す事にった。

 

 かつてじょえんが結んだ異地いちの帝との誓約とは、貴人きじん黄泉よみがえりと、素戔嗚すさのおの捕縛及び、彼等の異地への送還に相違ない。

 この帰還のためには黄泉比良坂を繋ぎ、道を開く必要がある。繋ぎに必要なのはあくまでも「天照の命令とその受諾」でこれは達せられた。瓊瓊杵の顕現は必要ない。これを欲しているのは素戔嗚すさのおだ。ヤツがこれを得てしまえば姮娥こうがは破壊され太陽へと取り逃がす事になる。誓約通り五貴人と素戔嗚を異地へ引き渡し、白玉はくぎょくせきぎょくを本来あるべき場所へ戻すには、寧ろ避けねばならぬ展開なのだ。すなわち熊掌の継承はかん案外あんがいとなって当然であり、それは熊掌自身も承知しているはずだ。それが分からぬほどにぶい男ではない。また自ら余分な火中に飛び込むおかさないはずだ。


 と、梶火の隣を、一羽の鳥が高速ですり抜けて行く。名も知らぬ鳥だ。一瞬の動揺が走った。


「大丈夫か?」

 右隣から問うてきた儀傅ぎふに、梶火は小さく頷いた。一時期敬語に改めてきた儀傅だったが、梶火が厭がって止めさせた。始まりがああだったのだから、今更他人行儀なのは止めて欲しかったのだ。

 大きく息を吸い込む。

 ――今までは思考の俎上そじょうに上げたくなくて、きちんと向き合わずに来たが、この天照の一連の事というのは、恐らくあの夜、熊掌が悟堂に体を許した事を指す。八年前に何かしらあった、四方津よもつの関わる大きな変化など、梶火にはこれ以外に思いつけない。熊掌自身がこれをゆるし命じ要請し、四方津の悟堂がこれに従った。構造から推察すればそういう事になる。あの時自分が選ばれなかった事で、結果的には自分達が進むべき道が開かれた事になった。

 身を切るような思いだが、皮肉にも幸甚こうじんだったと言わざるを得ない。無論、今でも歯噛みする程に厭で厭で仕方がないが、過ぎた事を蒸し返すのは自身をえぐけずるだけだ。

 白玉を繋ぐ五つの『かん』が贄によって外されれば、それは五貴人として黄泉返り、これらは素戔嗚を捕縛する。そして、黄泉比良坂を開く手段が明らかとなれば、これらは素戔嗚を異地へと連れ帰る。彼等と共に開放した白玉が異地に帰還できれば、赤玉もまた姮娥こうがへ帰還する事ができる。

 そう。あと知るべきは、如何にして黄泉比良坂を開くか。この一点なのだ。

 そして得るべきは、瓊瓊杵の関与なしに素戔嗚を引きずり出し、これを捕縛する手段だ。これこそ正に、今回梶火が白浪はくろう行きを決めた最大の理由だった。長く妣國ははのくにとどまり素戔嗚と関わってきた白浪である。あの神に付いて、何かしらの情報を得ていないはずがない。


 つまり、熊掌に関わる事は全て終わっている。白玉の継承はもう不要な事となった。八重は無論の事、熊掌も白玉に獲られる事はないはずなのだ。


 未だ五邑に把握されていない情報が残るのは、最早もはや方丈ほうじょう白浪はくろうしかない。さらに五邑の文書が残るのは方丈に限られる。大将軍様がじょえんから玉座を奪う事に成功し帝壼宮ていこんきゅうを制圧した以上、仙山が方丈の文書を手に入れるのは時間の問題だ。だから自分は、やはり予定通り白浪へ向かう事が最良最善なのである。そこには悟堂ごどうが、食国おすくにが、過去の真相を見知るはずのはくしんがいる。


 そうすれば、黄泉比良坂の開け方もどちらかで必ず分かる。

 

 梶火は自らの師の顔を思い出し、密かに歯噛みした。

 あれが本当に方丈の四方津なのであれば、そこにある文書に何が記されていたのか知っていたはず。であれば黄泉比良坂の開き方も知っていたに違いない。七年の眠りは確かに大きく影響したが、そもそもあれは四百を生きた人間のはず。つまりは知っていて沈黙を守ってきたという事だ。

 これを問い質さぬままではいられない。

 梶火はもう、熊掌を失わずに済むならば他の多少の事には目をつむると決めている。無論、それは国土が維持され、彼が安息の生活くらしを手に入れ生涯を送れる事を前提とした上だ。その為に神州しんしゅうの開拓も進めた。多くの民の暮らしが維持され守られれば守られる程、そのための分母は大きくなる。絶対多数の安全こそが、彼個人の安全に繋がる。国家と国民の安寧において、これ以上の真理はない。


 ――そのはずだ。


 微かに口の端を曲げる。しかしそれでも、ついてゆかぬ感情がある事もまた否定できない。あの二人の再会が近いという事実が、理性でつぶしたはずの何かをじ開ける。

 いい加減、しんから腹をくくれ。

 そう己にかつを入れた。



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