61 上邪
それから数日後。
山の中腹へ向かう階段を
「――あの、つかぬことを
「はい」
「『
水泥は思わず長鳴のほうへと振り返った。
「ご存知でしたか」
「――はい、兄がそう言っていました。それから八重も」
「八重くんも?」
長鳴は数段先を行く水泥を見上げて頷いた。
「彼女は、白玉と密接に
水泥は「ほう」、と感嘆の吐息を漏らした。
「さすがですね。全く『色変わり』しない女性というのは、そうでないものよりも余程『神域』に近いのでしょう。
「七割」
「三割は色が変わった、と言う事です」
水泥の右手には布で包まれた
「おっしゃるとおり、ぼくにも
今日は、水無月の二十日。
水泥が瀛洲を訪れたのが皐月の末日であったため、丁度その日数が瀛洲に滞在した期間となる。
今日、彼はここを
その靴が、最後の一段を上り、石畳を踏む。
二人の眼前が開ける。六間程に切り開かれた広場の中心には、木製の小さな祠がひっそりと
それを見送って後、長鳴の視線は水泥の腕の傷口に
「出立のお支度は」
「全て済ませてあります。馬にも荷を乗せ終わりました。道中の水と食料までお世話になってしまって、ほんとうにすみません。ありがとうございます」
長鳴は、
「――
水泥は無言のまま祠の前に立つ。
「きよ香に何も言わずに
水泥は微かに
「余計なものを残すべきではないでしょう。これ以上」
「しかし」
「それは――」
ざあっと風が吹き、枝が激しい音を立てた。
「それは、
思うところがあるのだろう。強い断言に、長鳴はそれ以上何も言えなくなった。
するりと刀から布が
事は一瞬だった。
返された刀が
白く激しい
どれ程時間がかかったろうか。
ようやくその白が落ち着いてきた頃、恐る恐る長鳴が腕を下げると、そこには銀髪の女性を腕に抱えた水泥の背中があった。
長鳴は息を呑んだ。
白玉が、本当に、祠の外へ出ていた。
水泥の首に両腕を回して
「ああ、やっと会えた」
〈――
長鳴にも聞き覚えのある、若い女性の声がした。その左足首からは、じゃらりと石の鎖が垂れ下がっている。
「うん」
〈ほんまに、あんた、やるんやな〉
「うん」
〈
「知ってる。ごめんなさい。貴女が自由になったって知ったら、
顔はなくとも、そこに涙の気配がある事は長鳴にも分かった。
「『環』は、もう少し待ってね。必ず自由にしてあげるから」
水泥は、白玉を抱えたままくるりと
「あの、蔡さん……彼女が――
「いえ、ちがいます」
水泥の手が、やさしく白玉の髪をなでた。
「
水泥は、瞼を伏せて微笑んだ。
「ぼくはね、ほんとうの自由をあげたかったんだ、彼女にも」
*
あの日のように海をひとしきり見下ろしてから、水泥は唇を微かに尖らせた。長く高い口笛を水泥が吹くと、天空を統べる一羽の鷹が姿を現した。
すぐ横にいる馬上には、
勝手をしてごめんね、
でも、ぼくも自分の命と体の使い道は選びたいんだよ。
空を
「さ、行こうか」
白玉からの
白玉を腕の内側に抱え、
*
長鳴と八重の二人は、
水泥が見送りはここまででいいと断ったのだ。
八重は、少しだけ苦しい眼でその向こうを見詰めていた。
「――あの人は、ほんまに、自分のやらなあかん事だけを見詰めてたんやな」
「ああ、そうだね」
「計画通りにやらへんのは、兄々に影響されたんやろか」
「――そうかも知れないね」
「うちらも、やらなあかん事を、ちゃんとしよか」
「うん」
荒い波が飛沫を上げて、どうどうと体の奥底まで海鳴りを響かせた。
*
瀛洲の上を確かめるように旋回すると、目的の物を見つけたのか、
空中を滑り巌雅が目指した先は、水泥によって真っ二つに切り裂かれた白玉の祠だった。そこに一つの人影がある。巌雅は人影の上を
人影は、きよ香だった。
足元に落とされたのは、小さな巾着袋だった。拾い上げて、中身を取り出す。
それは、金属で作られた指輪だった。その中心には、内に虹の
きよ香は布を解くと、広げて見た。書き付けられた短い一文に、
たったの二十日間だけだった。彼が瀛洲にいたのは。
「――ほんとに馬鹿な人……! あなたが誰より一番馬鹿よ……っ」
彼は知らなかったのだろう。瀛洲の民が、
上邪
我欲與君相知
長命無絶衰
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これにて『第七節 上邪 完結』となります。
末文にて使用させていただきました上邪とタイトルは古楽府よりの引用になります。
上邪(天よ、転じてあなた)
我君と相知れり
こちらのサイト様を参考にさせていただきました。ありがとうございます。
https://chinese.hix05.com/Gafu/gafu03.joya.html
「あなた。あなたと出会って、ぼくは、もっと長く生きたいと思ってしまった。」
君が代と対比させると、とても興味深く思われます。
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