61 上邪


 それから数日後。みずかった腕の傷がふさがる事もまたず、水泥は長鳴と共に白玉はくぎょくの祠に上がった。

 山の中腹へ向かう階段をのぼりながら、長鳴が水泥の背に声を掛ける。


「――あの、つかぬことをうかがいますが」

「はい」

「『神域しんいき』の方というのは、やはりこのむらが桜の花弁に沈んで見えるのでしょうか?」


 水泥は思わず長鳴のほうへと振り返った。

「ご存知でしたか」

「――はい、兄がそう言っていました。それから八重も」

「八重くんも?」

 長鳴は数段先を行く水泥を見上げて頷いた。

「彼女は、白玉と密接につながっています。彼女からそう伝え聞いたと」

 水泥は「ほう」、と感嘆の吐息を漏らした。

「さすがですね。全く『色変わり』しない女性というのは、そうでないものよりも余程『神域』に近いのでしょう。保食うけもちでもこうはいかなかった。あの娘は七割なのですよ」

「七割」

「三割は色が変わった、と言う事です」

 水泥の右手には布で包まれた神度剣かむどのつるぎたずさえられていた。ふ、と微笑むと、彼は再び中腹へ向けて歩みを進め始めた。

「おっしゃるとおり、ぼくにもえいしゅうは花弁に沈んで見える。ここは圧巻ですね。まさしく白玉の屍が散る地だ」

 今日は、水無月の二十日。

 水泥が瀛洲を訪れたのが皐月の末日であったため、丁度その日数が瀛洲に滞在した期間となる。

 今日、彼はここをつ事になっていた。故に現在の彼が身にまとっているのは長期間の旅路を想定した旅装である。えいしゅうにいる間は草履を使っていたが、その足元を固めるものは、彼の使い慣れた革の靴だ。

 その靴が、最後の一段を上り、石畳を踏む。

 二人の眼前が開ける。六間程に切り開かれた広場の中心には、木製の小さな祠がひっそりとたたずんでいた。ざあと一陣の風が吹き抜ける。それはわずかばかりの木の葉をまとい、海の方へと流れて行った。

 それを見送って後、長鳴の視線は水泥の腕の傷口にそそがれた。

「出立のお支度は」

「全て済ませてあります。馬にも荷を乗せ終わりました。道中の水と食料までお世話になってしまって、ほんとうにすみません。ありがとうございます」

 長鳴は、逡巡しゅんじゅんしたのち口を開いた。

「――詮無せんない事とは分かっているのですが」

 水泥は無言のまま祠の前に立つ。


「きよ香に何も言わずにたれますか」


 水泥は微かにうつむいて、ふうわりと笑った。

「余計なものを残すべきではないでしょう。これ以上」

「しかし」

「それは――」

 ざあっと風が吹き、枝が激しい音を立てた。

「それは、所詮しょせんぼくのためのなぐさめでしかない。残る女性ひとには、ただの荷物でしょう。我儘わがままを言いますが、もし彼女が望んだなら、一振りは彼女に。それから神州しんしゅうへ送ってやってください――ぼくが頼んだとは、決して言わないで」

 思うところがあるのだろう。強い断言に、長鳴はそれ以上何も言えなくなった。

 するりと刀から布がすべり落ちる。水泥の大太刀がようの構えにされた。隙のない、ただ只管ひたすらに静かで美しい構えだった。



 事は一瞬だった。



 返された刀が八相はっそうに上がったかと思った刹那――音もなく踏み込まれた一歩と共に祠は斜めに断ち切られた。

 白く激しい閃光せんこうが、長鳴の目を焼く。思わず「ぐっ」とうなって腕でまなこを覆う。薄眼を開けてあたりをうかがうが、光はいつまでも収まらない。

 どれ程時間がかかったろうか。

 ようやくその白が落ち着いてきた頃、恐る恐る長鳴が腕を下げると、そこには銀髪の女性を腕に抱えた水泥の背中があった。

 長鳴は息を呑んだ。



 白玉が、本当に、祠の外へ出ていた。

 


 水泥の首に両腕を回してかじりついたその顔は、肩にうずもれていて見えないが、きっと変わらず黒い穴が穿うがたれているのだろう。


「ああ、やっと会えた」

〈――水麒すいき


 長鳴にも聞き覚えのある、若い女性の声がした。その左足首からは、じゃらりと石の鎖が垂れ下がっている。

「うん」

〈ほんまに、あんた、やるんやな〉

「うん」

浩宇こううも阿呆やけど、あんたも、ほんまに阿呆やなぁ〉

「知ってる。ごめんなさい。貴女が自由になったって知ったら、保食うけもちもきっと喜ぶよ」

 顔はなくとも、そこに涙の気配がある事は長鳴にも分かった。

「『環』は、もう少し待ってね。必ず自由にしてあげるから」

 水泥は、白玉を抱えたままくるりときびすを返した。晴れやかな眼差しで長鳴に視線を向ける。

「あの、蔡さん……彼女が――木花之このはな佐久さくひめ、なんですか?」

「いえ、ちがいます」

 水泥の手が、やさしく白玉の髪をなでた。



佐久さくは神代に現世うつしょを離れ、以来自らの『神域』を出る事はありません。この世に反映されるのはその力である死屍しし散華さんげのみ。――彼女は、佐久さく瓊瓊にに、双方の力を継承し、顕現する事のあたった唯一の皇尊すめらみこと――名を、たから女王といいます」



 水泥は、瞼を伏せて微笑んだ。

「ぼくはね、ほんとうの自由をあげたかったんだ、彼女にも」


         *


 かじとこの崖の上で別れたのは、先月の事だ。

 あの日のように海をひとしきり見下ろしてから、水泥は唇を微かに尖らせた。長く高い口笛を水泥が吹くと、天空を統べる一羽の鷹が姿を現した。巌雅がんがである。彼は水泥の腕に止まると、嬉し気にえさ強請ねだった。その口にねずみ欠片かけらを与えてから、脚に文をくくりつける。高臼こううすに飛ばすものだ。と、巌雅がんがが餌をついばみ終わったところに、水泥は懐から取り出した小さなものをませた。そこから軽く助走をつけて腕に止まらせていた巌雅がんがを飛び立たせた。

 すぐ横にいる馬上には、外套がいとうを目深にかぶった白玉がいる。彼女を隠しながらの旅路は容易たやすいものではないと分かっていたが、それでもどうしてもこの道しか選べなかった。

 勝手をしてごめんね、八咫やあた麻硝ましょうも、保食うけもちも。

 でも、ぼくも自分の命と体の使い道は選びたいんだよ。

 空をすべってゆく巌雅がんがの羽ばたきを見詰めてから、一度深く眼を閉じ、そして開いた。

「さ、行こうか」

 白玉からのいらえはない。ただ、ゆっくりとその頭がうなずいたのが見えた。

 白玉を腕の内側に抱え、あぶみを踏むと、水泥はし方へと馬を進めた。馬上の人となった水泥の左手の手首で、球数の足りない水晶の数珠が、きらと虹色にまたたいた。


         *


 長鳴と八重の二人は、穿うがあなむら側にたたずんでいた。

 水泥が見送りはここまででいいと断ったのだ。

 八重は、少しだけ苦しい眼でその向こうを見詰めていた。

「――あの人は、ほんまに、自分のやらなあかん事だけを見詰めてたんやな」

「ああ、そうだね」

「計画通りにやらへんのは、兄々に影響されたんやろか」

「――そうかも知れないね」

「うちらも、やらなあかん事を、ちゃんとしよか」

「うん」

 荒い波が飛沫を上げて、どうどうと体の奥底まで海鳴りを響かせた。


         *


 瀛洲の上を確かめるように旋回すると、目的の物を見つけたのか、がんはその向かう先を山の中腹に定めて高度を下げ始めた。

 空中を滑り巌雅が目指した先は、水泥によって真っ二つに切り裂かれた白玉の祠だった。そこに一つの人影がある。巌雅は人影の上をぎる間際に、その人物の足元に何かを落とし、そのままはるか彼方へと飛び去って行った。


 人影は、きよ香だった。


 足元に落とされたのは、小さな巾着袋だった。拾い上げて、中身を取り出す。

 それは、金属で作られた指輪だった。その中心には、内に虹のきらめきを湛えたひびの入った水晶が埋め込まれている。そして、その環部分には、布の切れ端がくくりつけられていた。

 きよ香は布を解くと、広げて見た。書き付けられた短い一文に、ついに耐えていた物があふれた。指輪と布をきつくきつく握りしめると、きよ香はその場にしゃがみ込んだ。苦しく険しい顔を、最後まで彼に見せずに済ませた自分を、きよ香はめてやりたかった。

 二十日はつかだ。

 たったの二十日間だけだった。彼が瀛洲にいたのは。



「――ほんとに馬鹿な人……! あなたが誰より一番馬鹿よ……っ」



 彼は知らなかったのだろう。瀛洲の民が、ゆうから教えられて文字が読める事を。そして、きよ香は勉強する事がすごく好きだったから、白文も理解できたことを。




 上邪

 我欲與君相知

 長命無絶衰













************************************************


これにて『第七節 上邪 完結』となります。

末文にて使用させていただきました上邪とタイトルは古楽府よりの引用になります。



 上邪(天よ、転じてあなた)

 我君と相知れり

 とこしへに命絶え衰ふること無からんと欲す




こちらのサイト様を参考にさせていただきました。ありがとうございます。

https://chinese.hix05.com/Gafu/gafu03.joya.html




「あなた。あなたと出会って、ぼくは、もっと長く生きたいと思ってしまった。」


 君が代と対比させると、とても興味深く思われます。

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