59 欠伸



         *



 水無月も半ば。

 すいどろえいしゅうに来てより、既に二十日はつか近くが過ぎている。

 さても月日の流れるのは早い物か。半ば呆れながら、長鳴ながなき欠伸あくびを噛み殺す。疲労のにじ襟元えりもとを正しながら、草履ぞうりに足を入れた。

 

 下女に見送られ、一人ゆうちょう邸の表門をくぐる。


 だらだらとゆるい表の上り坂を行きながら、ちらと西のかたへと視線を向けた。その先に水泥の滞在している鍛治場がある。鍛冶場は、この坂をのぼり切った先で左折し、多少の蛇行だこうて更に勾配こうばいを行った先にあるが、丁度雑木に隠れて視界には入らない。

 来邑らいゆう以来鍛冶場かじばに入りびたり、そこからがんとして動こうとしなかったすいどろだったが、最近になってようやく邑長邸にも顔を出すようになった。昨日などは風呂も借りに来たらしい。

 人間らしい生活を見せるようになったのだ。

 良い事だ――と、長鳴などは思うのだが。

 苦笑交じりに腕を組む。

 さても職人とはおのれの仕事に傾注するものか。自身にも身に覚えがあるから余計に笑ってしまう。

 が、その笑みはぐににがみに取って代わられる。


 ――凄まじいまでの没頭だった。


 鍛冶場へ様子を見に行くたび、長鳴を出迎えたのは、諸肌もろはだを脱いだ水泥と、その後背こうはいで隆起した僧帽筋そうぼうきんだった。炭ので鼻まで黒くしていた時も、水から引き揚げたばかりのはがね小槌こづちで叩いていた時も、彼の表情は、ただいでいた。

 のぞむ職が異なるとは言え、あの透徹にみずからが及ぶものかと、そう問わずにはいられない。

 しかしそれすなわち、自信の薄さが現れた卑屈であろう。こうべの一振りで気を取り直した。


 その辻は、角に最早もはや用をなしていない一つの道祖神を有する。そこで長鳴は右へと折れた。


 本物であるが故に、妥協も出来ぬ。それもまたさがか。

 邑にも鍛冶師がないではない。最初は手伝いを寄越そうかと申し出たのだが、さすがの職人気質。細かなところで不慣れな手が入る事を嫌がり、結局は衣食住の世話だけを頭を下げて頼んでくるにとどまった。

 食べ物は邑長邸で作ったものを、八重やえや下女に運ばせていた。着物は、彼がまとっていた短褐たんかつに多少似た物を新しく用意して鍛冶場におき、汚れものがあれば配膳を下げる時にまとめて引き上げるようにした。なにせ長鳴に匹敵する上背である。加えて仙山せんざんの兵でもあるからか体格がまるで違った。その身幅みはばに合う着物が、そもそも邑になかったのである。

 その内、水泥の世話をする下女にかたよりが出ていると八重が気付いた。最初は四人で順に手伝わせていたはずだが、気付けばほぼ一人の専任のような状態になっている。

 八重から話を聞き、もしかしたら警戒と偏見があるのかも知れないと長鳴がこぼした。なにせ、あの体格と顔の痣である。女の性格によってはそうなる事も無理からぬとは思う。しかし、それはよくない兆候だ。八咫やあたの計画に合わせて、贄という重大な任についてくれている人物である。粗略に扱ったり失礼をしていいはずがない。

 逆に八重は、その一人が余所よそから来た人間に興味でも覚えて入り浸っているのかも知れぬと言った。そうであれば、それはそれで邪魔になってはいけない。話を聞いてみなければならないなと夫婦で話し合っていた矢先だった。

 昨夜、北方のある家の奥方が三人目の子を上げた。思いがけぬ難産で、南辰なんしんと共にかかりきりになり、長鳴はここ二日、邑長邸に泊まり込んでいたのである。つまりようやくの帰宅である。

 あふり、ともう一つ欠伸を零してから、悟堂ごどう邸の門をくぐった。

「ただいま」

 言いながら、「ん」と眉根を寄せた。普段ならば、この時点で八重が出迎えに飛び出してくるはずなのに。

 留守にはしていないだろうしと、歩を進めた。いぶかしみながら戸を開ける。と、土間で八重がしゃがみ込んでいた。必死に縮こまりながら、その口元を両手でおおっているではないか。

「ちょっと、八重? 大丈夫?」

 慌てて駆け寄ると、びくりとこちらへ顔を向けた。

「あ、ご、ごめん、おかえり。お疲れ様。どうやった?」

「うん、母子共に健康そのものだよ。ねえ、何かあった? 体調が悪いの?」

 八重は眉間に皺を寄せながらふるふると首を横に振った。

「――あの、あのな、うち」

「うん?」

「あの……あの人のお世話、もう、ちょっと遠慮さしてもろてええやろか」

 言わずもがな、それは水泥の事だろう。

「――どうした? 何かあった?」

 八重がこんな事を言い出すのは至極まれである。険しい顔をして長鳴は八重の視線に合わせた。と、口元を両の手で覆っていたその下の肌が心なしか赤らんでいる。困惑の目で長鳴をちらと見てから、視線をそらしてしまう。

「八重? 心配になるから言って? 言ってもらわないと僕もわからないから」

「――きよ香がな」

「きよ香?」

「あの人のとこからの帰りがあんまり遅いから、ちょっと気に掛かって、うち鍛冶場まで様子見に行ったんよ。あの子、朝餉あさげ持ってって、そのまんまやったからさ」

 今は既に午の刻を越えている

「――いやあの、ええんやで? べつに、悪い事とか、そういうんやないんは、うちも分かっとるんやけど――そんなんは、ほら、個人同士のことやし?」

「……うん?」

「――びっくりしてしもて、うち」

 八重は、ついには完全に顔をおおってしまった。小さな悲鳴を上げて顔を横に振る。



「ほら、あの、うちら、そういうのは――なしにしてるやん?」



 さすがに、察した。

 取る物も取り敢えず、長鳴は鍛冶場へ向かった。鍛冶場は北西寄りのゆるい高所にある。歩を進めるたびに、乾いた砂が舞い上がった。それだけ気もいていた。

 鍛冶場のすぐ目の前に来たところで、入り口のむしろを横によけて出てくるきよ香の姿が見えた。長鳴の姿を認めると、彼女は一瞬険しい顔をしたが、軽く頭を下げてゆっくりと歩いてきた。こちらの方が困惑している隣を、無言のまま、そしていつも通りに、やや脚を引きって通り過ぎて行く。

 藤籠を抱えて歩いてゆく彼女の背中を見送ると、それどころではないと長鳴は鍛冶場の表に立った。


さいさん、入りますよ」


 一応声を掛けてからむしろを上げると、果たしてそこには、いた胡坐あぐらの上で、ろうたげに頬杖をついている水泥がいた。上裸の肩に、申し訳程度に短褐たんかつが掛かっている。

 彼は眠たげな視線を長鳴に向けると、ふうわりと笑って見せた。

「ああ、長鳴くん。どうしましたか」

 長鳴は嘆息した。

「あの、文句を言いたい訳ではないのですが、ひる日中ひなかからでは――さいが……困惑しております」

「ああ、八重くんがこちらに来られていた?」

「――はい」

「中には入ってみえませんでしたけど。外に聞こえていたのかな」

 水泥は胡坐を解くと片膝を立てた。

「申し訳ないことを。でも、同意はとりましたよ」

「それは――それでしたら、本来口を挟むべきではありませんが……」

 ふ、と小さな吐息が聞こえた。それは長鳴には笑ったように聞こえた。

「あの、蔡さん」

「はい」

「僕は、貴方のお立場や任を知っているからこそ――何と言えば良いのか」

看過かんかして下さればいいんですよ」

「それは」

「必要だったので」

 ぼそりとしたその一言に、違和感があった。

「どういう意味ですか」

じきにわかります。確認のためにも、ぼくは誰かを抱く必要があった。えいしゅうの風紀に関わるようであれば、どうかご寛恕かんじょねがいたいです」

 長鳴は険しい顔で拳を握る。

「きよ香は――遊びでこういったことが出来る娘ではないはずなのですが」

「知っています。ぼくの話を真剣に聞いてくれたのは彼女だけだった」

「話って――」

「いいお嬢さんです。重々承知している。彼女には、ずいぶんたくさん助けてもらいました。彼女がゆるしてくれた理由は、ぼくにはよくわかりませんが、できれば今後のことを考えて、内密にしておいてあげてくださいね」

「それは――無論そうしますが。きよ香自身がどういったつもりなのか、貴方には話していないのですか? 貴方はそれをどう理解されているのですか?」

 眠たげな眼で前髪を掻き揚げながら、「彼女の気持ち、ですか」と欠伸あくびを噛み殺した。

「同情、ですかねぇ」

「同情って」

「ええ、優しい女性ひとでしょう? 彼女。……あ、大丈夫ですよ。子はできませんから。だからあとくされもない。彼女も、来年には忘れていますよ」

 長鳴が困惑していると、水泥が「はあ」と深い溜息をいた。


「しかし、こんなに眠くなるものなんですね。知らなかったな」


 長鳴が「え」と顔を向けると、水泥はもう一つ大きな欠伸をして、両手で顔をこすった。

沙璋璞さしょうはくが警戒するはずだ。これで寝込みでも襲われたらたまったもんじゃない。……いやでも個人差はあるのかな?」

 後半は、恐らく長鳴に聞かせるでもない、独り言のようなものだったのだろう。やおら立ち上がると、水泥は奥に向かった。先には刀掛台があった。片膝を付いて何かを取り上げると、水泥は微笑みながら振り返った。



「打ち上がりました」




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