59 欠伸
*
水無月も半ば。
さても月日の流れるのは早い物か。半ば呆れながら、
下女に見送られ、一人
だらだらとゆるい表の上り坂を行きながら、ちらと西の
人間らしい生活を見せるようになったのだ。
良い事だ――と、長鳴などは思うのだが。
苦笑交じりに腕を組む。
さても職人とは
が、その笑みは
――凄まじいまでの没頭だった。
鍛冶場へ様子を見に行くたび、長鳴を出迎えたのは、
しかしそれ
その辻は、角に
本物であるが故に、妥協も出来ぬ。それもまた
邑にも鍛冶師がないではない。最初は手伝いを寄越そうかと申し出たのだが、さすがの職人気質。細かなところで不慣れな手が入る事を嫌がり、結局は衣食住の世話だけを頭を下げて頼んでくるに
食べ物は邑長邸で作ったものを、
その内、水泥の世話をする下女に
八重から話を聞き、もしかしたら警戒と偏見があるのかも知れないと長鳴が
逆に八重は、その一人が
昨夜、北方のある家の奥方が三人目の子を上げた。思いがけぬ難産で、
あふり、ともう一つ欠伸を零してから、
「ただいま」
言いながら、「ん」と眉根を寄せた。普段ならば、この時点で八重が出迎えに飛び出してくるはずなのに。
留守にはしていないだろうしと、歩を進めた。
「ちょっと、八重? 大丈夫?」
慌てて駆け寄ると、びくりとこちらへ顔を向けた。
「あ、ご、ごめん、おかえり。お疲れ様。どうやった?」
「うん、母子共に健康そのものだよ。ねえ、何かあった? 体調が悪いの?」
八重は眉間に皺を寄せながらふるふると首を横に振った。
「――あの、あのな、うち」
「うん?」
「あの……あの人のお世話、もう、ちょっと遠慮さしてもろてええやろか」
言わずもがな、それは水泥の事だろう。
「――どうした? 何かあった?」
八重がこんな事を言い出すのは至極
「八重? 心配になるから言って? 言ってもらわないと僕もわからないから」
「――きよ香がな」
「きよ香?」
「あの人のとこからの帰りがあんまり遅いから、ちょっと気に掛かって、うち鍛冶場まで様子見に行ったんよ。あの子、
今は既に午の刻を越えている
「――いやあの、ええんやで? べつに、悪い事とか、そういうんやないんは、うちも分かっとるんやけど――そんなんは、ほら、個人同士のことやし?」
「……うん?」
「――びっくりしてしもて、うち」
八重は、
「ほら、あの、うちら、そういうのは――なしにしてるやん?」
さすがに、察した。
取る物も取り敢えず、長鳴は鍛冶場へ向かった。鍛冶場は北西寄りのゆるい高所にある。歩を進める
鍛冶場のすぐ目の前に来たところで、入り口の
藤籠を抱えて歩いてゆく彼女の背中を見送ると、それどころではないと長鳴は鍛冶場の表に立った。
「
一応声を掛けてから
彼は眠たげな視線を長鳴に向けると、ふうわりと笑って見せた。
「ああ、長鳴くん。どうしましたか」
長鳴は嘆息した。
「あの、文句を言いたい訳ではないのですが、
「ああ、八重くんがこちらに来られていた?」
「――はい」
「中には入ってみえませんでしたけど。外に聞こえていたのかな」
水泥は胡坐を解くと片膝を立てた。
「申し訳ないことを。でも、同意はとりましたよ」
「それは――それでしたら、本来口を挟むべきではありませんが……」
ふ、と小さな吐息が聞こえた。それは長鳴には笑ったように聞こえた。
「あの、蔡さん」
「はい」
「僕は、貴方のお立場や任を知っているからこそ――何と言えば良いのか」
「
「それは」
「必要だったので」
ぼそりとしたその一言に、違和感があった。
「どういう意味ですか」
「
長鳴は険しい顔で拳を握る。
「きよ香は――遊びでこういったことが出来る娘ではないはずなのですが」
「知っています。ぼくの話を真剣に聞いてくれたのは彼女だけだった」
「話って――」
「いいお嬢さんです。重々承知している。彼女には、ずいぶんたくさん助けてもらいました。彼女が
「それは――無論そうしますが。きよ香自身がどういったつもりなのか、貴方には話していないのですか? 貴方はそれをどう理解されているのですか?」
眠たげな眼で前髪を掻き揚げながら、「彼女の気持ち、ですか」と
「同情、ですかねぇ」
「同情って」
「ええ、優しい
長鳴が困惑していると、水泥が「はあ」と深い溜息を
「しかし、こんなに眠くなるものなんですね。知らなかったな」
長鳴が「え」と顔を向けると、水泥はもう一つ大きな欠伸をして、両手で顔を
「
後半は、恐らく長鳴に聞かせるでもない、独り言のようなものだったのだろう。やおら立ち上がると、水泥は奥に向かった。先には刀掛台があった。片膝を付いて何かを取り上げると、水泥は微笑みながら振り返った。
「打ち上がりました」
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