57 事情と感情
*
命を投げ打つ事に
そのつもりだった。
しかし、今この胸中を
ぴちぴちと、色付いた水滴が
鍛冶場の板の間の上。水泥は
奥様方に、一番申し訳が立たない。きよ香は、そう言った。
自らがあれ程
――そんな事、怒らなくったっていいのに。
居たたまれなかった。
自らが
もっと、自分自身のためを思って生きてほしいと、心の底から思った。
眉間に皺を寄せると、奥歯を噛み締めた。
胸中を満たすものが、あまりに甘く、苦い。
声が、眼差しが、笑顔が、指の味が、全てが鮮やか過ぎて
初夏が近付く。日の光に
やるせなくて、苦しかった。
ぴちょ、とまた一滴が
「――ご無礼いたします」
ばさりと戸口の
水泥は、戸口に背を向けていた。声から
耳に覚えがある。前にも聞いた言葉だ。いや、はじめて聞いた彼女の言葉が
「ふふ」、と水泥は笑った。
「急にどうしたんですか? そんな
「――さっき、うちの
きよ香の声は、硬い。今日は
「ええ、ええと、そんなお名前の方なんですね。存じ上げなくて」
「名前も知らない娘に、
ぴちょん、とまた一滴が落ちる。
水泥の口の端に笑みが浮かんだ。
「そうですか。でも確かにぼくは聞きました」
「――鈴の代わりにお答えしますが、この
「そうですか。それは、困ったな」
感情の
きよ香の「うん」という微かな咳払いがした。背を向けていたから、水泥には、彼女が自身の
「どうして、と聞くのも
「――まあ、ぼくにも少々事情と感情というものがありまして」
ざあ、と風が
ぴち、と
のを、きよ香は
「君には聞かれたくなかったです」
「――ちょっと、何してるの⁉」
まろぶように土間から板の間へきよ香が駆け上がる。盥の内には、満々と水泥の血が満たされていた。ざっくりと切り裂かれているのは左前腕内側だ。
「いやだちょっとっ……!」
蒼白になったきよ香が自らの
つるり、盥の内に髪が
漆黒の髪が鮮血を
がし、ときよ香の白い手首を握る。
凄まじいまでの男の視線がきよ香を射抜く。思わず身の内が
「
「どういうことだ」
ぎり、と我知らず力が
「どうして色が変わらない」
びくりときよ香の全身が強張った。息を呑み、見張られた目が、次の瞬間には泳ぎ、唇を曲げると、視線を
「何を……なにを
「ぼくの血には
「っ」ときよ香が顔を上げた。
この娘は、『色変わり』しない、と言う事だ。
二人、視線が
水泥の身の内もまた大きく
思い至った事実は大きい。ならば――ならばこの娘がいれば、万一の時には
そう思い至って、水泥の全身に
厭だ。
それだけは絶対に厭だ。
正直に、そうとしか思えなかった。
そんな己の本心に驚愕した。自分は、保食よりもこのきよ香の安全を
保食のために自分の命を投げ出す事はできる。しかし、保食の為にきよ香を犠牲にする事は断じてできない。そして、きよ香を隠しきるためならば、保食にすらこの事実を秘する事を己は
そう自分が思う理由に思い至らぬ程
ああ、と下唇を噛み締めた。
人間の心とは、なんと
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます