57 事情と感情


         *


 命を投げ打つ事に躊躇ためらいはない。

 そのつもりだった。

 すいどろは、そもそも一兵という身の上だ。多くの仲間がその身を戦場に散らし、みずからもその道にじゅんじる覚悟はあった。

 しかし、今この胸中をめる重苦しさは、その覚悟に相反あいはんする。


 ぴちぴちと、色付いた水滴が水面みなもたたく。


 鍛冶場の板の間の上。水泥はたらいを前にたんす。静かに溜息をいた。先日の、きよ香の吐息といきが落ちたのもまたこの盥だったのを思い出したからだ。散らばった刀鍛冶の道具。粉に砕いた道祖神。炭の崩れる微かな音。全身を襲う疲労と虚脱。――そして鼻孔びこうをくすぐる鉄臭さ。

 

 奥様方に、一番申し訳が立たない。きよ香は、そう言った。

 

 自らがあれ程なじられた事に対しては何もやり返さなかったのに、水泥に対する罵倒ばとうが発せられた途端、彼女は激烈な怒りをあらわにして男の喉を締め上げたのだ。そして、美しいその額を自ら傷付けた。

 ――そんな事、怒らなくったっていいのに。

 あざみにくいのも、おんなりなのも事実だ。

 居たたまれなかった。

 自らが蹂躙じゅうりんされる目前だった悪夢のような日の事を、助けてくれた人達に対する謝罪に当てるなど、そんな純朴な風に生きなくていいのだ。彼女は、彼女自身のために怒っていいし、怒るべきだし、自分は怒った。

 もっと、自分自身のためを思って生きてほしいと、心の底から思った。

 眉間に皺を寄せると、奥歯を噛み締めた。

 胸中を満たすものが、あまりに甘く、苦い。

 声が、眼差しが、笑顔が、指の味が、全てが鮮やか過ぎて眩暈めまいがする。こんなにも心を惑わされる。いっそ罪深いとなじりたいほどに。

 初夏が近付く。日の光にあぶられるかのごとく、その存在全てで水泥に熱を加える。

 やるせなくて、苦しかった。

 ぴちょ、とまた一滴がねた。



「――ご無礼いたします」



 ばさりと戸口のむしろけられた音が背後からした。一瞬だけ屋内やないに光が差し、瞬時にまた暗くなる。筵が降りたのだろう。

 水泥は、戸口に背を向けていた。声からおとなったのがきよ香だと分かった。

 耳に覚えがある。前にも聞いた言葉だ。いや、はじめて聞いた彼女の言葉がまさしくそれだった。かすれた、感情をおさえに抑えた声音こわねだった。

 「ふふ」、と水泥は笑った。

「急にどうしたんですか? そんな余所余所よそよそしい」

「――さっき、うちのすずがこちらへきたと思うのですが」

 きよ香の声は、硬い。今日は朝餉あさげを別の下女が運んできていた。まだ昼餉を運ぶには早すぎる時間だ。

「ええ、ええと、そんなお名前の方なんですね。存じ上げなくて」



「名前も知らない娘に、くるわがあるかないかを聞くような方だとは思いませんでしたが」



 ぴちょん、とまた一滴が落ちる。

 水泥の口の端に笑みが浮かんだ。

「そうですか。でも確かにぼくは聞きました」

「――鈴の代わりにお答えしますが、このむらにそんな上等なものはありません。個人で客を取る者はいますが、余所者の世話をする習慣はありませんので嫌がると思います」

「そうですか。それは、困ったな」

 感情のともなわない、ぼそりとした声が水泥の唇からこぼれる。

 きよ香の「うん」という微かな咳払いがした。背を向けていたから、水泥には、彼女が自身のくんと前垂れを握りしめていた事は、見えなかった。


「どうして、と聞くのも野暮やぼでしょうね」

「――まあ、ぼくにも少々事情と感情というものがありまして」


 ざあ、と風がむしろを揺らし、屋内を白く光らせ、

 ぴち、とたらいの内に、鮮血が落ちた。

 のを、きよ香はみとめ、その眼を大きく見開いた。



「君には聞かれたくなかったです」



「――ちょっと、何してるの⁉」

 まろぶように土間から板の間へきよ香が駆け上がる。盥の内には、満々と水泥の血が満たされていた。ざっくりと切り裂かれているのは左前腕内側だ。かたわらに落ちているのは、腕を割くのに使われたと思しき短刀だった。

「いやだちょっとっ……!」

 蒼白になったきよ香が自らのたもとを破る。それで止血をしようと前のめりになる。途端、彼女の肩先からずるりと長い黒髪がこぼれ落ちた。

 つるり、盥の内に髪がひたされる。

 漆黒の髪が鮮血をまとい、しっとりとした柘榴ざくろいしの色に輝いたのを目の当たりにして、水泥の形相が――変わった。

 がし、ときよ香の白い手首を握る。

 凄まじいまでの男の視線がきよ香を射抜く。思わず身の内がすくんだ。

さいさ……」

「どういうことだ」

 ぎり、と我知らず力がこもる。


「どうして色が変わらない」


 びくりときよ香の全身が強張った。息を呑み、見張られた目が、次の瞬間には泳ぎ、唇を曲げると、視線をはたに逃がした。

「何を……なにをおっしゃっているのか、わたしにはわからな」

「ぼくの血には死屍しし散華さんげが大量に含まれている。それに髪が触れて色が変わらないというならば――」

 「っ」ときよ香が顔を上げた。



 この娘は、『色変わり』しない、と言う事だ。



 二人、視線がからむ。言葉に出さずとも、両者、互いがその真実を知った事を共有した。

 水泥の身の内もまた大きくふるえた。

 思い至った事実は大きい。ならば――ならばこの娘がいれば、万一の時には保食うけもちの代わりになるという事か。

 そう思い至って、水泥の全身に怖気おぞけが走った。


 厭だ。

 それだけは絶対に厭だ。


 正直に、そうとしか思えなかった。

 そんな己の本心に驚愕した。自分は、保食よりもこのきよ香の安全をさきんじている。

 保食のために自分の命を投げ出す事はできる。しかし、保食の為にきよ香を犠牲にする事は断じてできない。そして、きよ香を隠しきるためならば、保食にすらこの事実を秘する事を己はいとわないと明瞭はっきり理解した。



 そう自分が思う理由に思い至らぬ程阿呆あほうではない。



 ああ、と下唇を噛み締めた。

 人間の心とは、なんとままならないものなのか。




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