55 筍、蛤、瓜、果実
*
「ほらあった」
竹林の中、喜色満面、誇らしげにきよ香が
「もう
きよ香は笑いながら、額の汗を手の甲でぬぐう。すると、そこに一筋泥が尾を引いた。思わず顔を
竹林を一条の陽光が
また、新たな一日が生まれるのだ。
二人、眼を細めて日の光を肌の上に受け止めた。
邑長邸からは水泥の下へ手伝いの下女が毎日
もしかしたら、水泥が他の下女を認識していないだけなのかも知れぬ。実際、誰の名も覚えておらず、また顔も見分けがつかない。
「おはようございます」
「こんにちは」
「こんばんは」
その
刀を打つという極限の集中の中、彼女だけが、水泥の心をこじあけ意識を自身に向けさせる事に成功していた。
きよ香は、とにかく食べ物の話をよくする。
美味い物を作る事と、食う事。そのための食材を集める事、育てる事。その全てが好きなのだと笑って言った。
「脚がこうだからあまり動かないせいもあって、すっかり肉付きが良くなってしまったけど、美味しかったご飯のおかげだから、仕方ないわよね」
言いながら、自らの二の腕をつまんで見せるのが、なんとも満足げで水泥はまた笑う。
きよ香といる時、水泥は
飯運びと、洗濯と、手伝ってもらうことは
ある日、突然炭と鍋を持ち出して、きよ香は「浜にいく」と
干潮の刻限に合わせて泥の浜をゆき、突然
そんなこちらの内心など
「あ」、とその眼が
こちらも終わりの季節だといいながら、にこにこと立て続けに
水泥も、きよ香に
「ああ、つかれた」
言いながら、立ち上がったきよ香が腰を伸ばす。途端――「あ」と、声を発してその上体が
ばしゃん、と、盛大な音と海水が
二人、思わず顔を見合わせる。
水泥の腕は、辛うじてきよ香の背中を抱え込んだが、海水と泥に全身が
青天の
吹っ切ってしまえば、もう恥じるようなものでもなく、下着だけの
きよ香はにこにこと炭で火を
まさか、それがぱくりと割れて、中からあんな白い内臓のようなものが出てくるなどとは思わない。「えええ」と顔を引き
小皿に一粒を取り上げ、ふぅふぅと息をふきかけつつ、中身を指先でほじくりだす。茶と緑の入り混じった瞳を細めながら、「
それから、
「見た目が恐かったら、目を閉じててもいいのよ?」
と、
はじめて味わう貝は、なるほど旨味の塊だった。
女性の笑顔というのは、こんなにまぶしい物だったろうか。
笑い声とは、ここまで甘く柔らかく響くものだったか。
ある日は野に連れ出され、散策中に口の中へ果実の乾物を放り込まれる。内緒だとこっそり懐から取り出した紙包みに焼き菓子が入っている。ある日は、もいだばかりだという瓜を目の前でばかりと半分に割って見せる。それを二人で分け合い、食べる。汁で汚れた水泥の口元を、きよ香は指先で
それから、屈託なく
その温かさに、どれほど泣きたくなったろう。
水泥の前では、きよ香はずっと楽しそうだった。
だから、その早朝に見かけた彼女が、凍り付いたような顔をしていたのに面食らったのだ。
完全には眠りから覚めやらぬ中、顔を洗おうと鍛冶場から出た先に、こちらへ向かってくるきよ香の姿を坂下に見つけた。
その時、彼女は他の邑人とすれ違っていた。
男三人と女が一人。
きよ香は、
彼女の氷のような眼差しの中に、己との類似を見出したからだ。
それは確かに、他人に対する明確な拒絶だった。
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