55 筍、蛤、瓜、果実


         *


 ぬくみの増す季節は、海から山から畑から、滋養じようゆたかな食物しょくもつの恵みが得られる。


「ほらあった」


 そらが青いはずのえいしゅうも、夜明け前の天は白い。

 竹林の中、喜色満面、誇らしげにきよ香がゆびさす地面を見ても、暗すぎてどこがどうだかすいどろにはさっぱり分からない。だが、彼女が長細いくわを地面に差し込み「えいや」とてこの原理で掘り起こした先に、成程、見るからに瑞々しいタケノコがにょきりと姿を現した。


「もうたけのこの季節もおわりね。今年もおいしかったなぁ」

 

 きよ香は笑いながら、額の汗を手の甲でぬぐう。すると、そこに一筋泥が尾を引いた。思わず顔をそむけて吹き出すと、彼女はきょとんとそのを丸くする。それがまた無作為むさくいで、いとけなく美しかった。

 竹林を一条の陽光がつらぬく。光源の在処ありかに釣られて、水泥は東の水平線へと目を向けた。今度こそ本当に夜明けだ。ざあと風がささを揺らし、地上が色彩を取り戻してゆく。

 また、新たな一日が生まれるのだ。

 二人、眼を細めて日の光を肌の上に受け止めた。



 邑長邸からは水泥の下へ手伝いの下女が毎日寄越よこされている。鍛冶場かじばこもり切りの水泥を案じた夫妻が手配し、世話を焼いてくれているのだ。そして例の一件以来、きよ香が来る頻度ひんどが増えた。ような気がする。

 もしかしたら、水泥が他の下女を認識していないだけなのかも知れぬ。実際、誰の名も覚えておらず、また顔も見分けがつかない。

「おはようございます」

「こんにちは」

「こんばんは」

 その一声いっせいだけで背筋が伸びるのは、戸口のむしろを白い手で押しやる姿と笑顔に胸がつまるのは、どうしても、きよ香一人だけだった。


 刀を打つという極限の集中の中、彼女だけが、水泥の心をこじあけ意識を自身に向けさせる事に成功していた。


 きよ香は、とにかく食べ物の話をよくする。

 美味い物を作る事と、食う事。そのための食材を集める事、育てる事。その全てが好きなのだと笑って言った。

「脚がこうだからあまり動かないせいもあって、すっかり肉付きが良くなってしまったけど、美味しかったご飯のおかげだから、仕方ないわよね」

 言いながら、自らの二の腕をつまんで見せるのが、なんとも満足げで水泥はまた笑う。

 きよ香といる時、水泥はしんから笑っている。そんな自分に気付くのに、そう時間はかからなかった。

 飯運びと、洗濯と、手伝ってもらうことは然程さほど多くはないのだが、きよ香は水泥の隙間時間を見つけては、食材の収穫に連れ出した。出会いの時の硬さや声の小ささが嘘のように、きよ香はほがらかに語り、またよく笑った。


 ある日、突然炭と鍋を持ち出して、きよ香は「浜にいく」と鍛冶場かじばの戸口で言い放った。


 干潮の刻限に合わせて泥の浜をゆき、突然くんの裾をまくりあげてしゃがみ込む。既に一度水泥には見せた脚である。目前にさらすのに、もう抵抗すら覚えなくなったらしい。水泥の方は未だにどぎまぎするというのに。

 ただれがあろうが、白くなめらかな曲線の脚に思わず目は奪われる。男に対するあまりの警戒心のなさに、それでいいのかと水泥のほうが困惑する。

 そんなこちらの内心などつゆ知らず、きよ香は右手につかんだ熊手を泥の内にさくりと刺し入れる。そして自らの手前に掻きよせる。掻いたところに水が湧く。その水の中に左手を差し入れて、注意深く目当ての感触を探す。右手、左手、右手、左手。交互に泥を掻き続ける。

 「あ」、とその眼が耀かがやき、笑顔で振り返る。指先にまんで持ち上げたものは、はまぐりと言う名の、貝、というものだそうだ。黒みがかった表面が、つやと陽光に光る。

 こちらも終わりの季節だといいながら、にこにこと立て続けにざるの中へ放り込んでゆく。これも本当に食うらしい。どうやってかは想像も付かなかった。見たところは随分とかたそうだが、火を通せばやわらかくなるものだろうかと、いぶかしみながらも収穫に付き合う。

 水泥も、きよ香にならって泥の上にかがみ込む。身動ぎするたびに、素足がずぶりと泥中でいちゅうにめりこむ。足指の間に泥が潜り込む。きよ香を真似て泥を掻くが、中々彼女のようには上手くいかない。

「ああ、つかれた」

 言いながら、立ち上がったきよ香が腰を伸ばす。途端――「あ」と、声を発してその上体がかしぐ。水泥は慌てて腰を浮かし、熊手を放り投げきよ香へ腕を差し伸べるが、自身の足も泥にとられて、二人諸共背中から倒れこむ。

 ばしゃん、と、盛大な音と海水がねあがった。

 二人、思わず顔を見合わせる。

 水泥の腕は、辛うじてきよ香の背中を抱え込んだが、海水と泥に全身がまみれるのは避けられなかった。干潟ひがたで二人、びしょぬれで、泥まみれで、もつれあって、海水はまろくぬるい。


 青天のしたはじけるように笑った。


 吹っ切ってしまえば、もう恥じるようなものでもなく、下着だけの身形みなりで二人は浜に上がった。

 きよ香はにこにこと炭で火をおこす。かまどは適当な大きさの石を適当に組んで作ったものだ。随分と手慣れている。藤籠の中に忍ばせていたのは酒だ。鍋に十粒ほどのはまぐりを放り込み、酒をぐるりと回しかける。

 まさか、それがぱくりと割れて、中からあんな白い内臓のようなものが出てくるなどとは思わない。「えええ」と顔を引きらせながら及び腰になる水泥に、きよ香は悪戯いたずらな顔で笑った。

 小皿に一粒を取り上げ、ふぅふぅと息をふきかけつつ、中身を指先でほじくりだす。茶と緑の入り混じった瞳を細めながら、「だまされたと思って食べてみて。おいしいから」という。

 それから、

「見た目が恐かったら、目を閉じててもいいのよ?」

 と、揶揄からかうように言うので、遠慮なく眼を閉じ口を開けて見せると、「ふふっ」と甘い笑い声と共に、口中に熱く塩味の効いた柔らかい物が差し入れられた。

 はじめて味わう貝は、なるほど旨味の塊だった。



 めしゃぶった白い指先にも、塩味が残っていた。



 女性の笑顔というのは、こんなにまぶしい物だったろうか。

 笑い声とは、ここまで甘く柔らかく響くものだったか。

 ある日は野に連れ出され、散策中に口の中へ果実の乾物を放り込まれる。内緒だとこっそり懐から取り出した紙包みに焼き菓子が入っている。ある日は、もいだばかりだという瓜を目の前でばかりと半分に割って見せる。それを二人で分け合い、食べる。汁で汚れた水泥の口元を、きよ香は指先でぬぐった。

 それから、屈託なくほがらかに笑いながら、ただれた水泥のあざを、ついでのようにさりげなく、そしてやさしく、手の甲で撫でて行くのだ。

 その温かさに、どれほど泣きたくなったろう。

 水泥の前では、きよ香はずっと楽しそうだった。



 だから、その早朝に見かけた彼女が、凍り付いたような顔をしていたのに面食らったのだ。



 完全には眠りから覚めやらぬ中、顔を洗おうと鍛冶場から出た先に、こちらへ向かってくるきよ香の姿を坂下に見つけた。

 その時、彼女は他の邑人とすれ違っていた。

 男三人と女が一人。いずれも彼女を白眼視はくがんしするか、ひどにらみ付けていた。何か言葉を発するでも、手出しをするでもないが、明らかな敵意を向けていた。

 きよ香は、只管ひたすらに無表情を装っていた。その姿に水泥の背筋も凍る。

 彼女の氷のような眼差しの中に、己との類似を見出したからだ。



 それは確かに、他人に対する明確な拒絶だった。



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