54 昼餉


         *


「ご無礼いたします」


 鍛冶場かじばの裏手、大甕おおがめに張った水を使って頭上から冷水をかぶったばかりのすいどろは、背後から届いた女の声に面食らって振り向いた。


 途端――ざん、と山が吠えた。


 吹きさらしの山藤やまふじに、音高く青嵐せいらんが叩きつけられる。白と薄紫の花弁が惜しげもなく散らされ、水泥の視界をおおう。あまりの突風にくらみ、同時に髪も乱れる。

 ようよう風が落ち着いてから、水泥はひとつ咳払いをした。不格好にも顔面にばさりとかかった黒い蓬髪ほうはつを掻き揚げて、そこに確かに一人の女性がいるのを視認する。それがまぎれもなく、先日自分の足を洗ってくれた人だと気付き、思わず狼狽ろうばいした。

 山間やまあいの白百合。そう心象した事を思い出す。その立ち姿は、やはり真っ直ぐで率直だった。

 女性はその手にとうの籠をたずさえていた。見覚えのある若草色の前垂れが、今日もよく似合っていた。


昼餉ひるげをお持ちしました」


 はじめて耳にした彼女の声は、思っていたよりもか細く、またかすれていた。あまり大声を上げるのを好まないのが、そのしゃべり方からもみ取れる。

 気配までもが清廉せいれんなのだ。全てが静かな女だった。

 そこで何故か――悪い事をしているような気になった。

 何故と言って、理由は思い当たらない。ふと、彼女と視線が合わぬ事に気付いた。

 見上げられぬ限り、水泥は大抵の人と視線が合わぬが、彼女は更に伏し目がちに、一途に、地に散った花弁を見つめている。

 そこで、己があまりにも彼女を凝視している事を自覚し、加えて、今の自身のなりにようよう思い至った。

 犢鼻褌とうさぎひとつのほぼ全裸。

 上裸じょうらだけでも人目にさらすべきではないが、ふんどしが腰にべっとりと貼り付き形が浮き出している。


 ――ああ、これは、いかん。


 平気の平左を装いつつ、彼女から背を向け、近場に投げ捨てておいた短褐たんかつを拾い上げ羽織はおった。次いで、共に取り上げた手ぬぐいを頭からかぶる。

 何処どこ彼処かしこも見られたくなかった。明らかに表情に出ているだろう羞恥しゅうちを気取られたくなかった。


 女性に対してこんな思いを抱くのは、全くはじめての事だった。


 脚は出たまま、短褐たんかつも前は締めずに開けたまま。なので、身体は斜めにし、顔だけを彼女に向けて微笑んだ。なるべく常のような笑顔を心掛けたが、うまく出来ている自信はなかった。

「すみません、お見苦しい物を」

 第一声でそう発すると、彼女はようやく視線を水泥へと向けた。


「みぐるしい、とは」


 そう問い返されるとは思わなかったので、返答にきゅうした。それで思わず、

「――ただれていますので」

 と、普段は理由にしないあざの事を引き合いに出した。

 彼女の右眉が、ぴくりと一瞬動く。

「それは、お顔の事ですか」

 水泥は、敢えて笑みを深くした。

「はい。若い女性の目で見て楽しいものではないでしょう」

 しかし彼女は――藤籠を下げた右手首を、もう一方の手でゆっくりさすりながら、ちいさく溜息をこぼした。



「――肌のただれとは、それほどまでに人目をはばからなくてはならないものでしょうか」

 


 なおも言い募る彼女に、水泥は更に笑った。

 笑うしかなかった。

 彼女自身は、然程さほどの意図を含めたつもりはなかったかも知れない。しかし、その唇から発せられた、ささやくような小さな言葉によって、水泥の胸底に刻まれた古い傷は、確かにやさしく撫でられたのだ。

 浴びせかけられる嫌悪の視線が、平気だった事などない。苦しくなかったわけでもない。辛くなかったわけでは決してないのだ。彼女は、それは隠すべきものではないと、あなたは悪くないのだと、そうはっきり言っている。幼い自分のこらえていた涙が、ほろりと何処かで零れ落ちたような気がした。

 手ぬぐいで乱雑に髪をぬぐうふりで、顔を彼女の目から隠す。

 隠したかったのか、己が。恥じているのか。

 ――何を?

 わからなくて、また笑った。

「人が人の容姿をどう受けとるものか、それはよくは分かりませんが、ぼくは、この顔でよく人を驚かせますので」



「わたしもただれていますが」



 はっきりとした声音でそういうと、彼女は足元に藤籠をおき、ばさり、と、若草色の前垂れと共に、薄黄色のくんももまでまくり上げた。

「っ」

 思わず水泥は息を詰める。

 本来白くきめの細かい肌なのだろう。肉付きのよい女の両脚には、引きただれた広範囲の火傷の痕があった。

「わたしは、見苦しいですか」

 一言一言、はっきりと区切る様に言う彼女のおもてには、明らかに朱の色が走っている。羞恥を耐えての事と思い至り、水泥は「は」と吐息を漏らした。

 なにをやらせているのだ、こんな若い女性に。

「――すみません」

 としか言えず、それを受けて彼女も「いえ」とまくり上げたものを下ろした。



 暫時ざんじ、いたたまれない空気が満ちる。



 ――と、ぴーひょろろろ、と、山のどこかで呑気な鳥の音がした。二人同時に音の主の影を求めて顔を上げる。それで、視線があった。

 

 見つめ合う。瞬く時すら、同時だった。

 

 彼女が再び視線をらしたのを機に、水泥はようやくほっと溜息交じりに微笑めた。

「では、女性の前で裸をさらしていたことをお詫びしましょうかね」

「不要です。ここは漁師のむら。男の身体なんて、いくらも見慣れています」

 というわりに、視線は水泥の身体かららしたままなのが、なんともいじらしかった。

 こほ、と彼女はひとつ咳払いをし、ゆっくり体を曲げて藤籠を取り上げた。

「そろそろ、鍛冶場の中へおじゃましてもよろしいですか? 昼餉が冷めます」

 ああ、そう言えば、最初から彼女はそう言っていた。

「はい。ありがとうございます。散らかしていますがどうぞ」

 軽く首肯して見せると、彼女は水泥のかたわらに近寄り、ついと見上げてきた。保食うけもちよりも、余程よほど小柄こがらだ。肩もなだらかで薄い。それでいて全体はふっくらとやわらかそうなのだ。肉付きがいいというよりは、輪郭を淡くするほどに肌の色が白いのだろう。だから百合を連想したのだ。

 そして、その瞳の色が、薄茶に緑を散らしたものなのを、その時はじめて知った。

 二人並び、ゆっくりと鍛冶場の表へ向かう。


 さわさわと、なにか落ち着かなく浮き足立ったものが水泥の両肩を撫でている。うれしいような、なんとなく歯がゆいような、不思議な心地がした。


「今日は何をいただけるのでしょうか」

 素知らぬ振りで問いながら手を伸ばすと、意を汲んだ彼女は水泥の手に藤籠を預けた。

「麦飯、たくあん、石蓴あおさ醤油じょうゆえ。大根とお魚の煮つけから汁を落として油で焼いたもの。それから、水抜きしたお豆腐と、乾燥ししにくをもどしたのを、ネギと豆醤まめびしおえたもの」

「それはまた、ずいぶんとご馳走ちそうだ」

 手元の藤籠の中を目を丸くして覗き込む水泥を見て、彼女はようやく、満足そうに小首をかしげて笑った。


「でしょう? おおごちそうは温かいうちに食べなくちゃ。一番良い時をみすみすのがす人生なんてだめよ。それを当たり前にしていたら、しあわせが逃げてしまうわ」


 その笑顔があまりに屈託くったくのないもので、水泥の喉元がぐっと詰まる。それを誤魔化すかのように、つとめてやわらかく微笑んだ。

「申し遅れました。蔡水麒さいすいきと申します」

 彼女もまた、小首をかしげて微笑んだ。



蔓斑つるまだらきよ香です」








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青嵐――新緑のころのやや強い風。初夏の風。

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