53 馬鹿



 浩宇こううが腕に抱いていたのは、赤ん坊とは思えないくらいにはっきりとした視線でこちらの事を見返してくる、兎に角目の綺麗な赤子だった。女児だったその子は、あぶあぶとよく分からない言葉で、何とか自身の事を主張しようとしていた。

 浩宇の腕から手渡され、すいどろは――おおいに戸惑った。恐らく首が座ったばかりの彼女をおっかなびっくり抱きかかえると、彼女は不快そうに手足一杯に暴れた。それで慌ててしっかりと抱き留めた。

 母親だと説明されたのは、蓬莱ほうらいでも力自慢の女で、夫はあったが子はなかった。この女が産んだ子ではない事はすぐに分かったが、恐らく浩宇達は水泥が知っていた事を知らない。

 外から来た娘なのだ。この赤子は。

 最初は違う名前で呼ばれていたが、間もなく新たに女の家の藤之ふじのの姓と、保食うけもちという名を与えられた。

 水泥の日々は、保食の子守りと、面倒見のいい鍛治屋の親父の仕事場に入り浸る事が全てとなっていった。保食はどんどんと大きく健やかに育ち、息を呑むほどに美しくなっていった。何よりも、その視線の強さで人の心を掴むらしく、邑中の少年達や、それに限らず年長の者達ですらその成長を楽しみにしていた。

 幼い彼女に向けられるべきではない言葉を、水泥も多く耳にした。

 まだ意味が分からぬと思ってか、そもそも幼子に対する配慮を持たぬ、はばかり知らずの魯鈍感ろどんかんが多かったと言う事か。彼女に直接投げられるもの、遠巻きにしてひそひそとやるもの、どちらにせよ、直截ちょくさいなものも随分と多かった。

 

 やはり下郎げろうが多かったと言うことだろう。

 彼女が女になる日が待ち遠しい。そう公言する者が後を絶たなかったのである。


 浩宇が手を打ったのは、保食が四歳に満たない頃の事である。それ以上を待つのは危険と判断しての事だった。保食が『色変わり』しない事がおおやけにされた。いや、最初から分かっていた事実をむらで明らかにしただけ、という方が本当の所だったろう。保食は、つぐひめとして白玉の祠を裏に持つ邸に住まわされる事になった。

 それでも保食の子守りから水泥が外される事はなかった。自分一人だけが、浩宇にも、藤之のおばにも警戒されずに済んだ。何故だろうと不思議だったが、浩宇から明確に説明を受けた記憶はない。単なる惰性なのかとも思っていたが、結局理由は知れなかった。

 やがて彼女は、推測された通りの美貌の主に育ち、反面その性状は峻烈しゅんれつを極めた。『色変わり』なき娘という事実から遠巻きにしつつも、男共が向ける視線は明白あからさまで、保食がそれに苛立っていた事は間違いなかった。

 彼女が十三ともなると、水泥もその役割は子守りではなく世話役兼護衛となっていた。正直なところ彼女の方が膂力りょりょくがあるので、自分など要らぬのではと思わなくもなかったのだが、やはり体格の大きなものがその前に立ち塞がる事で避けられる余計な難というものは確実にある。

 

 だが、警戒すべき男がむらの外にまであるとは流石に浩宇こううも想定しない。

 

 沙璋璞さしょうはくまさしく想定外の伏兵だった。

 蓬莱においては極めて貴重な『色変わり』なき娘である保食を、その監視の任に当たっていた禁軍右将軍、沙璋璞さしょうはくが気に掛けたのは至極当然の事だった。はじまりはその程度のものだった。しかし、人間は変わる。

 変わったのは璋璞だけではない。保食もそうだ。はじめ、彼の来邑時には酒と薬でふらふらにさせられる事を厭い、彼の事自体を嫌がっていた保食だったが、年齢を重ねて行くにつれ、その心持ちが変わってゆく事が水泥には手に取る様に分かった。

 不快だ厭だと言っていた酒と薬に文句を付けなくなったのは、果たして彼女が何歳の頃からの事だったろうか。

 七日間の滞在から去ってゆく沙璋璞の背中を見送った後、物思いにふける保食の姿をどれ程後ろから見守ってきただろうか。縁側に座して柱に凭れながら小首を傾げる。白く細い首筋におくれ毛が絡む。その首筋に、保食自身の指先が何かを確かめるように這わされる。そしてこぼされる微かな、誰にも気付かれない程に微かな吐息に――周りが気付かぬはずもない。

 沙璋璞が保食に送る、焼けただれたような視線の意味も言わずもがなである。

 水泥が気付く程なのだから、当然保食自身にもその熱は届いていたろう。それを振り払うかのように、彼女は仙山せんざんめいに没頭するようになった。何かから逃げるように、身の内に巣くって止まない熱を追い出そうとするかのように。

 それは沙璋璞から向けられた熱だまりだったのかも知れないし、それを受けて彼女自らが生んだものだったのかも知れない。素知らぬ顔で紳士然として振る舞いながらも視線に籠った熱だけは殺せなかった武人が、老練に見えて腹立たしくも感じたし、いっそ立場から逸脱できぬのが哀れにも思えた。

 日々熟れて行く心と体を目の前にして一指も伸ばせぬのは男として辛かろうが、その肉体を持て余す若い女も相応に辛いものだ。

 数多あまたの男共の目に晒され、その妄念を見極めてきた保食だ。言語化できぬまでも、その違いは手に取る様に分かっていた。抑えが利かぬ程の情欲と、それに相反した自制。危う過ぎる均衡に、ただ汗を拭うだけの指先が、叫び出したいほどの情動を煽る。立場を理解しているから、互いに確かめ合う事すらできない。

 どれ程苦しかったろうか。

 どうせ自分が贄になるのだから、二人とも欲情に任せて相手をたぶらかして、溺れてしまえば良かったのに。今でも、少しそう思っている。

 二人とも、馬鹿なのだ。

 馬鹿だからこそ、水泥には哀れにも愛しくも思えた。

 何度も何度も、二人が密やかに吐息と共にまぶたを伏せるところを見た。

 そして、開かれる。

 その瞬間、見せる視線は、いつも綺麗で真っすぐだった。



 刀の焼き入れをしながら、蒸気に蒸されながら、水泥はじっと左眼をつむっていた。そもそも右眼の視力が弱いので、先に潰れるのなら右からのほうがいいと、焼けた赤い色を見詰めながら思った。

 保食の事は赤子の頃から色褪せず鮮明に記憶しているのに、母の記憶はもう随分と曖昧だ。早くに亡くなってしまった事も一因だろうが、その髪の色や長さや、肌の匂い、どんな着物を着ていたのかすら、もうあやふやとしていて思い出せない。

 ただ、あれだけ侮辱されていたというのに、母自身は、自分達の事をなんら他人に恥じることがなかった。父がどうというのを聞いた記憶はほぼないのだが、一度だけ、こうはっきりと口に出して言ったのをよく覚えている。


「あの人との間に貴方を授かれたことは、わたしの人生最良の幸福だったわ」


 その一言だけで、水泥は母を憐れみ、また心底憎悪する事ができた。




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