44 代わりに託す


 その言葉で、長鳴ながなき八重やえの表情もぐっと硬いものに変わった。

もう殿は、全てご承知の上ですか」

「はい。方丈ほうじょうは――落ちました」

 その言葉が意味する事を、長鳴は瞬時に理解し、伏せたまぶたわずか天を仰ぐと、深い溜息を吐いた。

「そう、ですか」

 八重は、険しい表情のまま李毛を見た。

ゆうは、無事なんやな? じょえん――猊下には、何もされてへんのやな?」

 李毛は、鋭い眼差しのままこくりと首肯して見せた。

「如艶もまた落ちました。現在は鸞成皃らんせいぼう閣下の玉座奪取が成立致しております。近く国中に触れが回るかと」

 長鳴の喉が「ひゅっ」と音を立てる。

「なん、ですと」

沙璋璞さしょうはくも共に捕縛ほばく。五百年前のせきはくの置き換えという暴挙によって白朝より簒奪さんだつせし玉座を正しき血に返還する、というのが閣下のお言葉となります」

「――ん?」

 八重が眉間に皺を寄せた。

「待って、返還って何? その大将軍さんは、自分が玉座に着くんとちゃうの?」

「仮預かりのおつもりですね」

「え? え? では、誰を玉座にお着けになるのですか?」



「それは無論、先の白皇の遺児に」



 がたん! と椅子を引っ繰り返して八重が立ち上がった。

「うっっそやん⁉」

「八重」

 さすがの動揺に落ち着くようさとす格好をとってはいるが、長鳴自身の動揺も大きい。

「そんな――そんな都合よく動く? それ、食国おすくにさんの事やろ?」

「そうですね。現在帝壼宮には白浪より使者がつかわされておりまして、近くお迎えする運びとなるはずです」

 流石に言葉を失い、八重は呆然と立ち尽くす。気持ちは長鳴も同じ――否、それ以上だったかも知れぬ。

 熊掌が八重の代わりとなった時には、もうこれで誰の命の保証もできないと、長鳴自身も死を覚悟した程だった。しかしこれは想定外が過ぎる。

「――ほんまに、なんなん、その大将軍さんは」

「ああ、そうでした。閣下から口頭で伝言を預かっております」

 李毛が晴れやかに笑って長鳴に視線を向けた。

蓬莱ほうらいが来たら、熊掌の代わりに託す、と」



「――……と言われてもなぁ」

 ひとちる長鳴のかたわらで、ざざん、ざざん、と波が打ち寄せる。

 「西の端」の浜を行く長鳴ながなきの前髪を、いその風がなぶる。今思い出しても、もうとのやり取りは、やはり現実味が欠けて感じられる。

 もうえいしゅうってから、彼が残した最後の言葉を何度も思い出した。「蓬莱ほうらいが来たら、熊掌の代わりに託す」。それ自体は何も難しい言葉ではない。しかし、どうしても長鳴ながなきには意図が分からなかった。あれは何かの比喩だったのだろうか? それにしては具体的に蓬莱と兄の名を出している。これは、これから何かが起こるという事なのか?

 わからない。

 しかし、大将軍が白玉はくぎょくの継承を絶つつもりらしいのはほぼ確定だ。兄との関係も良好と受け取れる。少なくとも李毛はそう語っていた。更には次の皇帝としておすくにを帝壼宮へ迎え入れるのだという。


 長鳴の背筋は寒くなる。

 出来過ぎているのだ、あまりにも全てが。


 ここまで此方こちらに都合が良いように動くのは、むしいや布石ふせきとしか思えない。

 己が穿うがって見過ぎなのかも知れぬ。現に八重やえは「ああよかった」と、もう少し楽観的に受け止めている。

 しかし、これまで自分達が辿たどってきた道のおぞましさを思えば、疑うなと言う方が難しい。


 溜息が出た。


 「西の端」の断崖沿いに海岸へ向かうと、やがて長鳴は見慣れたあの穿うがあなへと至った。

 穿ち孔はかなり以前にかじに破壊してもらい、長鳴も通過できるようになっていた。しかし変わらずここを越えて先へ行こうと言う邑人はいない。八重でさえも、だ。今では邑でこの先の存在を知る者は自分一人だけになってしまった。

 穴をくぐり抜けて川をさかのぼると、もうかなり古く崩れた、ありあわせの木の枝などでこしらえた小さな小屋が姿を現した。小屋と言っても人間が満足に体を納められるようなものではない。長鳴がいつくばって入り、ようやく中で座れる程度の小さな物置だ。

 その中には幾つもの壺が並べられている。そして表には汚い字でその中に何が入っているのかが書き付けられていた。

 それが八咫やあた食国おすくにの手によるものだと知るまでには幾分時間が掛かった。八咫は恐らく、父である八俣やまた薬壺やっこに書きつけられていた文字を読めぬままに記号のごとあつかって書き付けておいたのだろう。

 邑長邸で八俣が仕事をする時、長鳴は決まってその様子を物陰から盗み見ていた。八俣はいつもそんな長鳴に気付き、ふっと笑って自分のそばへ呼び寄せてくれた。

 調合の細かな妙を手解きしながら、八俣はあれこれと長鳴に語った。



「人にでけて自分にでけへんものがある事を恥じたらあかんで。自分にでける事を一生懸命にやったらええんや」



 こくりと小さく頷いた自分の頭をなでながら、「ええ子や」と八俣は笑った。頭に乗せられた手が大きくて暖かくて、長鳴はなぜか泣きたくなった。八重の中には、時折彼の面影が見え隠れする事がある。

 八咫が八俣から、こういったように事細かな指導を受けていたとは考え難い。つまり彼は父の仕事を盗み見て関心があるものだけを拾い上げて勝手にモノにしていったのだろう。実に彼らしいと長鳴は笑った。

 籠に幾つかの壺をつめると、大き過ぎる上背を持て余しながら、なんとか長鳴は物置小屋から這い出した。そして顔を上げて――一気に血の気が引いた。



 そこに、一人の男が立っていた。



 男は、かつてここで出会った男と同じぐらいの年嵩としかさに見えた。

 長鳴に引けを取らぬ上背に、右頭部から頬にかけて赤黒いれがある。

 男は、ふうわりと微笑むと、微かに小首を傾げて見せた。

「――あれ、それ、もう知られていたんだね」

 男は笑いながら、その場ですっと片膝を突いた。威圧感や敵意がない事を示したのだろう。

「こんにちは」

 ゆったりとした微笑みと声に、長鳴の警戒と毒気が消えてゆくのがわかる。

「貴方は、どなたですか? 見たところ、えいしゅうの方とお見受けしているのですが」

「――僕は、瀛洲邑長代理の長鳴ちょうめいと申します」

 ぱっと、男の目が明るく輝いた気がした。

「ああ、じゃあ君が長鳴くんだね。熊掌と梶火の弟さん。お話は色々うかがっています」

 兄二人の名がするっと男の口からこぼれ出て、長鳴は思わず頭を上げた。それが小屋の戸口に当たり、がつんと鈍い音が辺りに響いた。

「ああ、大丈夫かい?」

 長鳴は後頭部を抑えながら、涙目になりつつようやくといった態でその場で立ち上がった。それに合わせて男も立ち上がる。やはり目線が合う。

「はい――お見苦しい真似を。あの、あなたは?」

「はじめまして。僕は蔡水麒さいすいき蓬莱ほうらいの邑長の傍系のものになります。本日は八咫やあたからの伝言を持って参りました。それとお願い事も。――ちょっと、予定より大きく遅れてしまいましたが」

 長鳴の胸が、どくりと大きな音を立てた。


 ――蓬莱が来たら、熊掌の代わりに託す。


 これがそうか。自分はこの男のおとないをたくされたのだ。そう直感した。


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