43 甘い


 最後に二人で話をすると言い、かじすいどろは隊列から離れた。

 断崖絶壁のかたわら、二人、静かにえいしゅうを見下ろす。

 


 初めて目にする海と瀛洲に、水泥は言葉を失う。

 それは大海を見下ろすのと同じ事だった。

 


 瀛洲は、まるで巨大な鳥のようだった。その両翼を広げてうずくまり、大海を胸で受け止めるようにいだいている。

 打ち寄せる波頭はとうは荒々しく、断崖絶壁は猛々しい。波のとどろきが自身の身の内にまで響き渡るようで、心の臓がぎゅっと縮む気さえした。


「美しいむらですね」

「ああ。俺の全てがここにつまってる」


 小声で梶火がそうつぶやく。その瞳に浮かんだ色が、あまりに暖かく優しかったから、つい水泥は「どなたか、大切な方がいらっしゃる?」と、不用意なことを口に出してしまった。

 しかし、梶火は少しだけ苦しそうに微笑むに留めた。それで水泥もそれ以上問う事をよした。

 その瞳の色には覚えがあった。ただし、水泥の知る瞳の色の方は白かったし、若干じゃっかん常軌じょうきいっしていたが。ふいに思い出した右将軍の事を、水泥はやはり馬鹿だと思った。

 馬鹿になれるほど、誰かを思える心が少しだけうらやましかった。


「水麒」

「はい」

「聞いた策の通りに運んでいれば、八重やえは既に帝壼宮ていこんきゅうにいて、今頃は八咫やあたと再会しているはずなんだな?」

「ええ」

「で、瀛洲えいしゅうはそれをまだ知らないと」

「はい。それを璋璞隊に先んじてお伝えする事がぼくの任の一つでしたが、事故でこんな事に。しかし、結果的に変わりはしないでしょう。白玉の継承は完全に絶たれます」

 梶火が微か俯いて、聞き取れないくらいの小声で呟いた。

「……なら、瓊瓊杵にしろなんにしろ、せいが白玉に獲られる事はないってことだな」

「? 何か仰いましたか?」

「いや、何でもない。なるべく急いでそれを邑長に伝えてやってくれ。もしかしたら既に長も帝壼宮ていこんきゅうに向かっていて行き違いになるかも知れんが。その場合は長鳴ながなきという男に。俺の弟だ」

「分かりました。確かに伝えます」

 にっと笑うと、梶火は馬の手綱を引いた。

「では、俺も行く」

「はい、本当にありがとうございました」

 僅か、梶火は名残惜しそうに、確かめるようにゆっくりとうなずいた。

「武運を、祈るよ」

 水泥は、ぐっと詰まりそうになるのを堪えて、同じく頷く。

「ぼくは、出会った境遇が違ったら、あなたの下に付きたかった気がする」

 ははっと梶火は笑った。

めても何も出んぞ」

「本心です」

 水泥の目をみて、梶火は苦笑した。

「ありがとう。嬉しいよ」

 馬上から見下ろす梶火と、見上げる水泥。互いにこれが最期の時になると理解していた。梶火の眼が、微かに真剣な色を浮かべる。

「水麒」

「はい」


「――臨赤りんしゃくしん州にある」


 あ、と水泥は眼を大きく見開いた。

「もし、お前がどうしても必要だと判断したなら、または望んだなら、この知を使え。囲いに入れていいかどうかの判断は希希しぃしぃがするが、国の未来の為に自らを捧げる覚悟を持ったお前には、このくらいの餞別せんべつは与えられて然るべきだ。結果の全責任は俺がとる」

 思わず涙が浮かびそうになり、水泥は眼を閉じて首を振った。

「――あなたは、本当に甘い」

 梶火は幸せそうに笑った。そして、少しだけ苦しそうにした。



「知っている。俺は、俺に与えられたこの人生は、幸運だった」



「梶火、そろそろ」

 やや離れた場所から儀傅ぎふが声をかける。その隣にはすいが並ぶ。彼等に応えるように梶火は左手を上げると、今度こそこれで最後だと晴れやかな笑みを浮かべた。

「ではな。互いに死出の旅路だ。再会は来世かも知れんが、その時は共に祝おうな」

「はい。あなたこそ、どうかご武運を」

 梶火の左の拳と、水泥の右の拳が打ち合わされる。



 水泥は崖の上から彼等が天に飛ぶのを見送った。海の彼方へと駆け去ってゆく二十の騎影と三十の飛翔を見送り、ああ、あれは妣國ははのくにの民も混ざっていたのかと知る。

 臨赤とは、それを取りまとめる人物の心そのままに、境界を踏み越えて行く集なのだと分かった。そして、自分の中にもやはりあった、五邑ごゆう仙山せんざん以外のあらゆる集に対する壁を思い知り、自身の狭量さを解した。


 あらゆる者に対して平等であろうとする事は難しい。そしてそれを軽々と飛び越えて行く、八咫やあたかじのような人柄にやはり水泥は強く心惹かれた。


 自身はそうはあれないからこそ、更に。


         *


 時は皐月さつきも末。

 長鳴ながなきは一人、「西の端」に訪れていた。手にはとうを編んで作られたかごたずさえている。

 卯月うづきの初頭に熊掌ゆうひ帝壼宮ていこんきゅうへ連れて行かれて以来、えいしゅうには不気味な程の静けさが満ちていた。

 あれ以来、八重やえ長鳴ながなきは大きな沙汰さたを下される訳でもなく、ただむらの中に放置されたままとなっており、それが一層の事不気味だった。

 やがて帝壼宮ていこんきゅうから文が届いた。差出人は禁軍大将軍とあり、その文字はひどく読み難かった。聞けば大将軍という人は盲目なのだという。そんな人物がわざわざ直筆で文を送ってきた。しかもその内容が。



「瀛洲邑長夫妻末永く息災で」



 思いも寄らぬ文言に、長鳴と八重は顔を見合わせ言葉を失った。本当に、その一文が全てだった。

 文を届けた人物は禁軍の所属である事と、大将軍の直属の麾下きかである事、並びに名をもうと言うと二人に告げた。長く瀛洲の中に踏み込む姮娥こうがの民はなかったのだが、彼は躊躇ためらいなく東の涯を越えて瀛洲の地に踏み込んできた。

 黄師が持ち込む荷の受け渡し場所として、東の入り口の端に新たに設けられたやしきは、今では黄師こうしと瀛洲側との接見の場としても機能していた。李毛を迎えたのも正しくその邸の内であった。

 李毛を出向かえたのは長鳴と八重やえの二人である。受け取った文に目を通した二人がその内容と、躊躇のない来邑に困惑していると、李毛は拱手しながら笑った。

らんりょうから、薬を分けて頂きました。私は死屍しし散華さんげに害されません」

 「ああ」と、長鳴は声を上げた。

「あの、兄とは」

「ありがたい事に懇意にさせて頂いております。帝壼宮ていこんきゅうでは彼の護衛を務めさせて頂いて参りました。此度こたびは大将軍閣下並びに蘇藍龍より指名を頂戴し、小職が任を拝命致しました」

「そう、でしたか」

 しばし呆気に取られて後、「あの」と長鳴がおずおずと尋ねる。

「お体の具合は、如何程でしょうか」

 李毛はからりとした笑い声を聞かせた。

「お陰様を持ちまして、何物にもおびやかされずに過ごしております。数を多めに分けて頂いておりますので、こうして長旅でも水にわずらわされなくなりました」

「それは――本当に良かったです」

 長鳴は薬効が確かであった事に安堵した。

「いえ、確認は何度も致しましたが、実際に服用頂いている方のご意見が聞けることが何よりも実証になりますので」

「本当に、一同感謝致しております」

 李毛は、改めて深く深く頭を垂れた。

「――ところで」

 隣で難しい顔をして文を広げていた八重が、やはり難しい顔のまま李毛に問う。

「一体、この禁軍大将軍とかいうお人は、何を考えとるんや」

「そうだね。ちょっと、僕にもわからないな」

 二人の言葉に、李毛は声もなく笑った。

「だって、こんなん、こんなん、ありえへんやろ……。器にできる娘が減ったんやで? 三人しかおらんはずの? いくら熊掌が行ったからって、こんなんで済ませるわけないやない。頭おかしい人なん……?」

 予想外が過ぎる展開に、八重は混乱が頂点に達していた。暴言を吐く事でしか心を落ち着かせる手立てを持たなかったらしい。終に李毛は噴き出した。

「いや、失礼。おっしゃり至極最もです」

 そこで八重がはっとして顔を青くする。

「待って、これ不敬罪とかになる?」

「いえ、大丈夫でしょう。お笑いになられるとは思いますが」

「あの、ちなみに今、帝壼宮で兄は」

 長鳴が問うと、そこで、突如李毛の表情が真剣味を帯びた。


「蘇藍龍は――為すべきを為しているとお考え下さい」





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