39 命は望んでこの世に生を受けない



 水泥すいどろの説明を粗方あらかた聞き終えると、「ううむ」と梶火かじほは難しい顔をして笑った。


「――あの野郎、本当にやる時はやるというか、加減を知らんと言うか……」


 共通の知人の為人ひととなりを思い浮かべながら、男二人苦笑を禁じえない。

「彼が前言を撤回したところを、ぼくは見た事がありません」

「ああ……だろうな。厭になるくらいよく分かる」

「その代わり、それが悪手でもそのまま進んでしまいますから、まずければ必ず失敗して大敗します」

「……それも目に浮かぶようだ」

「そうして失敗してきたという話をいくつも聞きましたし、実際ぼくもそれに加担してきました。――かなり大きな瑕疵かしも、あちらこちらに残している」

「あいつは……」

 覚えがあるのか、額を手で押さえた梶火に、水泥はふふと笑った。


「それでも、かれて止まないのです」


 その言葉に、梶火は額にかざした手の下で、大きくぱちりとまばたきをした。

「迷いなく、拳を握りしめて、激しい逆流の中を先へ先へと進んでいく。あの姿に心おどらぬ男はいないでしょう。間違いなく、あれは理想の具現の一種です」

 その発言にすいが、ふ、と口元に拳をよせて笑った。

「まるで、猊下に付いて回る儀傅ぎふのようじゃないか」

 思わず零れ出た言葉だったらしい、翠雨が「ああ」と笑みを深くした。

「わたしのこうです」

 梶火が苦笑してざり、と自身の頭を両手で撫で上げた。

「俺はそんな大層なもんじゃねぇよ。元はと言えば臨赤りんしゃくに勧誘してきたのは儀傅ぎふの方だぜ」

「内側に入れたいと思ったからでしょう。私が儀傅でもそうしましたよ」

「そろそろやめてくれ。められ慣れてねぇんだから。ケツがかゆくなる」

 肩をすくめ一しきり苦笑してから、ふ、と梶火は、やや柔らかい表情を水泥に向けた。

しぃしぃ何処どこへ移すのかと、さっき聞いていたな」

「ええ。それは、安全な場所へ移すという事ですよね」

 思いの外真剣な水泥の声音に、梶火がお、と片眉を上げた。

「気になるのはそこか」

「子供の安全は最大の懸念事項でしょう」

 水泥は密かに、膝の上に乗せていた両の手を拳に握りしめた。

「ぼくも、姮娥こうがの子を育ててきましたが、寿命が違えどやはり幼くいとけない者には守られていてほしいものです。そういう国であってほしい」

 やや沈黙があってから、梶火は組んでいた脚を解くと姿勢を正した。

「どうも何か腹に一物を抱えたようなところがあったが、今の言葉は本音だな。――改めて貴殿を信じよう。蔡水麒さいすいき殿」

「ありがとうございます」

せんの問いに対しては、安心してくれていいと答えておく。安全な場所というのであれば、あれ自身がいる場がこの世で最も安全だと言っていい」

「どういう意味ですか」

「臨赤としては、何よりも希希をうしなうわけには行かないんでな」

 梶火は立ち上がると、居間の片隅の臥床がしょうに近付き、そこで眠る幼子おさなごの頭をゆっくりと撫でた。

「これは――どういった訳か姮娥こうがであるのに二交の親の間に生まれた。それは聞いたか」

「はい」

 梶火の手が希希の頭に触れたまま、その動きを止めた。



「希希は、あのげつじょえんを上回る程に強力な囲いを構築するという極めて稀有けうな能力を持って生まれついている」



「――囲い、をですか」

年端としはが行かないから量は経験させていないが、一つあたりの守りの強度は歴代にるいを見ないそうだ」

 水泥すいどろ翠雨すいうに視線を向けると、厳しい顔で首肯した。

「歴代といっても、知られる限り州をおおえるほどの囲いを構築できた者は三人しか存在しないそうですが。月如げつじょえんりょ南方なんぽう、それからこの王希希」

 囲いはその大きさに比例して強度が弱まる。複数の州を丸ごと囲いきれるじょえんの技は確かに他に類を見ないが、その分守りは弱い。りょなにがしの力量は詳しくは知られていないという。比してこの希希の構築するものは、その内側に置く者を完璧に術者の主観で選別する事ができた。つまり中に入れたくない、入れるべきではないと希希が判断したものは何があろうが絶対に囲いの内へ侵入する事ができないのだ、と梶火は語る。

 つ、と翠雨がその場から離れた。奥の寝室へと姿を消す。その背を見送ってから、梶火は再び自身の頭部をざらりと撫で上げた。

「希希を本拠地に入れて、それを囲いで守らせる。そうすれば中にいる者は何があろうが守られる。――これから間もなく、全土を巻き込んだいくさがおきる。そうなる前に、助かりたいと望む者だけでも中に入れておきたい」

「それは臨赤りんしゃくに限らずという事ですか?」

 そう問うと、意外な事を言われた、と言わんばかりに、梶火が眉間に皺を寄せた。



「当たり前だろう? 何をもってその選別の根拠にするんだ?」



 水泥は僅かに言葉に詰まった。

「なあ蔡殿。俺が思うに、命は望んでこの世に生を受けない。望むものを望むように、事前に附帯ふたいされて生まれてくる事なんか絶対にない。それが可能だったならば、この世はもっと生きやすい場だったはずだ」

 武骨で傷だらけの男の手が、ゆっくりと希希の髪を撫でる。

「はじまりが不自由で理不尽なものであるからこそ、生まれた後のこの世にとどまりたいと願うならば、その思いくらいは叶えられてしかるべきじゃないか? 俺はそう考える。そしてその選別の根拠に、立場や生まれや信条などは考慮したくない。――甘いと思われるかも知れんが、俺自身が人様に誇れるような人間じゃないからな。できる最大限を尽くしたい」

 ああ、と水泥は胸を熱くした。この人は、やはり八咫やあたの歩いてきた道にいた人間なのだと、強く実感した。

 八咫は彼一人で彼になった訳ではなかったのだ。

 あれは、その周りにいたあらゆる人々をその幹の一部としてり合わせた巨木の先端なのだ。世とは、独りの勇者が切り開くものではない。人の歩み行く道とは、数多あまたの支流があってこそ大海に至る河なのだ。

 もし自分もその一部足り得たのなら、これ程幸福で幸運な事はない。



 そうあれれば、この世に確かな証となるものを残せた一助として、胸を張って死んで行ける。

 


 と、梶火がにわかに希希から手を離して水泥に身体を向けた。

「蔡殿。急な申し出をするが、俺達は今から危坐きざに向かう。道中に鬼射きいる県を通過するが、お前も共に来るか」

「それは、えいしゅうまで同行して下さるということでしょうか」

「そうだ。てい州内の通過は臨赤りんしゃくの手の物が及んでいる道がある。危坐は元より臨赤の内だ。難のない行程を約束できる」

「危坐が――そうでしたか」

「どうされる」

「ぜひともお願いしたいと思います。ぼくももうこれ以上は遅滞できませんので、助かります」

「脚の状態は」

 水泥は、少しだけ口元を笑ませた。

「問題ありません」

「では、出るか」

「はい。お世話になります」

「翠雨も、いいな」

「はい」

 いらえがして、水泥が寝室の方へ目を向けると、そこには白銀の鎧をまとい、大矛を左手にした翠雨が立っていた。やや気恥ずかし気に水泥に笑って見せる。

「昔取った杵柄きねづかですが。まだ錆びついてはおりませんので」

「何を言う。妣國ははのくにの民との実戦経験がある元白朝禁軍少将なんて貴重な戦力を遊ばせておく気はないぞ、俺は」

「猊下はわたし共を買いかぶり過ぎなのです」

「期待している。儀傅ももうそこで待っている。というか、すまん、久しぶりの再会だというのに、待たせすぎたな」

 梶火が視線で水泥を呼ぶ。従い共に表に出て、水泥は言葉を失った。

 見慣れた前庭を埋め尽くすようにして、凡そ百の兵が小屋の外に待機していた。

 梶火が声を上げると、兵の一人が一団から駆けてきた。兜を慌てて外しながら梶火が開けた戸をくぐる。男は慌てて臥床に駆け寄ると、ひざまずいてそこで眠る子供の顔を覗き込み、泣き笑いに顔を歪めた。そこへ翠雨が隣に同じく膝を折る。男は何度もうなずいて見せながら翠雨の肩をぐっと一度強く抱き寄せた。

 起こされた希希が眼をこすりながら寝台から起き上がると、そこには顔をくしゃくしゃにした儀傅ぎふがいた。「父ちゃんだぁ」と夢現ゆめうつつの中、半泣きになった希希がその首にかじりつく。その背中を翠雨がゆっくりとさする。久しぶりなのであろう親子の対面に、水泥の胸は強く打たれた。

 そこに見るしぃしぃの泣き顔に、やはり豊来ほうらいの面影が重なった。





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