38 叩扉
その夜の事だった。
微かな
むくりと起き上がり、耳をそばだて気配を探る。これは表の扉を外から叩いた音だ。
水泥は奥の間の寝台を一人で借り受けている。母子は居間の片隅の小さな
と、扉の向こう、つまり居間で「ぎしり」と
ぎぃ、と、開扉音がした。
深夜に近いのは間違いない。こんな刻限にこんな山奥の家を訪ねる者がそうそうあるとは思われなかった。そしてこんな夜中の
思い至った水泥は、釈明をせねばと寝台から降りた。ぼそぼそと声が聞こえてくる。扉に歩み寄り把手に手をかけようと腕を持ち上げた。
「――危険はなかったのか」
「はい。お人柄も穏やかで、おかしな方ではないと」
「お前が言うならそうなんだろうな」
低いが、まだ若いだろう声は男のものだった。やはり交の帰還かと扉を開けようと
「――しかし
思わず水泥はびくりと
猊下と尊称される者など、水泥には一人しか思いつけない。その尊称を使う者も一人しか知らない。
――
がちゃりと扉が開かれる。
その先に、一人の男が立ち、彼の後ろには翠雨がまさかといった顔で口元を抑えていた。
「あんた、起きてたのかい?」
「のようだな」
鋭い眼差しの男が水泥の顔を見上げてから、にやりと笑んだ。
水泥は、そこに直面した人物が、先に連想したものとは異なっていたことで、思わず
男は全身を薄緑色の布で出来た
「お前もまた――山のような大男だな」
と、呆れたように鼻で笑うが、言葉に悪意は
それにしても、威圧と軽妙さが混在する不思議な心象を与える男だった。背丈は――
派手ではないが、美丈夫と言って言えなくもない。一重の目元は切れ長で彫りが深く、眉との距離がごく狭い。その目が
「ところで、名は?」
水泥は一つ大きく息を吸い込むと腹を
「――
男は頭に被っていた布覆い付きの帽子を外した。形のいい
「
男は油断のない眼差しのまま、ゆっくりと首を縦に振った。
「俺は
*
椅子の上で梶火が脚と腕を組む。表情は微笑んでいるのだが、無意識になのか、どこかしらどうしても不適な空気を醸す。
「それで、
単刀直入な断定に水泥は苦笑う。
「――ご存知なのですね」
「お前も
「ご想像ほどではないかも知れませんが」
「まあいいさ。邑から出ているという時点で何も知らないという事はないだろうからな。
「知っています。ぼくが火薬を仕掛けましたので」
梶火と
「――お前が、か」
「そういった手筈になっていましたので」
七日目の夜。
まずはとにかく禁軍に酒を振る舞った。最終日となる七日目の夜は彼等の羽目を外すのは常の事だ。ただ、そこに多少薬を混ぜた。とてもよく効く物を。
他の兵はすぐに酔い
璋璞を保食の
後々蓬莱へ舞い戻ってくるであろう璋璞の隊の者を、
――お前はやるとなったら本当に容赦がないね。
呆れたように呟くその言葉に、水泥はきょとんとしてから、ああ確かにそうかも知れないと思った。そしてそれが誰の影響によるものであったのかに思い至り、ふうわりと笑って見せた。それがさらに浩宇の顔を引き攣らせた。この時ばかりは、笑った場面が悪かったらしい。
仕掛けが済んでから、とりあえずそのまま放っておくのもなんだなと思い、保食邸に戻った。二人の結末は随分としまりのないものになってしまったが、水泥としてもあれが落としどころだったろうと思っている。
保食、という娘に対して自分が抱く感情に名前を付ける事は水泥には難しかった。情愛ではあったろうが、
生まれた瞬間から、重い物を背負わされていた娘だった。後に自ら
彼女は、何よりも自分自身から逃げる事を
しかし、まあ今更他人の目などはどうでもよい。
当然、手を汚す覚悟を決めているのは自分だけではないし、命を賭する事を覚悟した者もまた己だけではない。
一つゆっくりと瞬きをすると、水泥は僅かに眼を眇めて梶火を見据えた。
「
「禁軍右将軍の隊の一部がそれで全員死んだ事ぐらいまではな。どうやった」
「火薬に
「
「はい。
「もたせた、というのか。お前が」
「はい。あれを満足な
ふっと梶火はふてぶてしく笑った。
「よく分かった。聞かせてくれて感謝する。俺達も時間がないから手短に話を済ませたい。これから
水泥が顔を上げると翠雨がこくりと小さく頷いた。
「申し訳ないけれどね、今夜起きないようであれば、あんたには黙って出ていくつもりだったんだよ」
梶火の隣に立つと、翠雨は手にしていた手拭いを卓子の上にそっと置いた。
「
「は、はのくにへ、ですか」
思わず声が裏返った。
「ああ。本来であれば先月の内に二人を動かしていた。それがお前という人間を拾ったというので多少期間を融通した。本当ならば一刻も猶予はなかったんだがな。命を捨て置けないと希希が言うから、仕方なく。お前は運が良かった」
事も無げに言い放つ梶火だが、聞かされる水泥にとっては想定の
「あの、彼女が妣國へ向かうと言うなら、希希は……」
「希希はこれから臨赤の本拠地へ移動する」
「それは
「聞いて答えると思うか?」
「ぼくが間もなくこの世から消え去ると聞いても?」
その発言で、梶火と翠雨の目の色が変わった。それを見届け、水泥は「ああ」と吐息を零した。微笑みを深め、
「いえ、失礼しました。単なる好奇心です。この世への
梶火が脚を組みなおした。
「――お前、蓬莱から
聡い男は話が早くていいと、水泥は更に眼を細めて笑った。
「
水泥は
「――
梶火ががたんと椅子を鳴らす。隣で翠雨がやや険しい顔で「猊下」と呼ぶ。
「まさか、お前、
「ご存知でしたか」
水泥は、笑った。贄の事を知っているのならば、この梶火という人物は恐らく――。
「――旧知の者達が、かつてその為に邑を出ている」
正解だ。水泥は敢えて意外そうな顔をして見せた。
「まさか、
「お前、つまりは
そこまで知っているならば間違いない。この梶火という人物は、八咫が後を託した仲間だ。
「ぼくは、贄の任に合わせて、八咫の言葉を伝えにゆくのです。――これは、彼の遺言と言って差しさわりないでしょう」
***
※ 六尺五寸(197cm)
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