38 叩扉


 その夜の事だった。

 微かな叩扉こうひの音に、すいどろの眠りは破られた。

 むくりと起き上がり、耳をそばだて気配を探る。これは表の扉を外から叩いた音だ。

 水泥は奥の間の寝台を一人で借り受けている。母子は居間の片隅の小さな臥床がしょう――本来これがしぃしぃの寝台らしい――を使っている。つまり水泥は母子に助けられて以来ずっとすいと交の寝床ねどこを部屋ごと専有していたわけだ。そうと知って、一度使用を遠慮しようとしたのだが、体を早く治したいならちゃんと休むべきだと母子に説得され今に至っている。

 と、扉の向こう、つまり居間で「ぎしり」ときしむ音がした。息遣いと動作音から、翠雨すいうが臥床を抜け扉へ向かったのだと分かる。


 ぎぃ、と、開扉音がした。


 深夜に近いのは間違いない。こんな刻限にこんな山奥の家を訪ねる者がそうそうあるとは思われなかった。そしてこんな夜中のおとないに翠雨が躊躇ちゅうちょなく応じたならば、この訪問者こそ正しくこの寝台の主なのではなかろうか。

 思い至った水泥は、釈明をせねばと寝台から降りた。ぼそぼそと声が聞こえてくる。扉に歩み寄り把手に手をかけようと腕を持ち上げた。


「――危険はなかったのか」

「はい。お人柄も穏やかで、おかしな方ではないと」

「お前が言うならそうなんだろうな」


 低いが、まだ若いだろう声は男のものだった。やはり交の帰還かと扉を開けようと把手とってに手を掛けようとした時だった。



「――しかし猊下げいか、」



 思わず水泥はびくりと後退あとずさった。拍子に把手とってに手が掛かり思いの外大きな物音を立ててしまう。まずいと分かっていたが逃げ出す事も身動きする事も出来なかった。

 猊下と尊称される者など、水泥には一人しか思いつけない。その尊称を使う者も一人しか知らない。

 ――璋璞しょうはくが猊下と呼ぶのはげつ如艶じょえんその人だけだ。

 がちゃりと扉が開かれる。

 その先に、一人の男が立ち、彼の後ろには翠雨がまさかといった顔で口元を抑えていた。

「あんた、起きてたのかい?」

「のようだな」

 鋭い眼差しの男が水泥の顔を見上げてから、にやりと笑んだ。

 水泥は、そこに直面した人物が、先に連想したものとは異なっていたことで、思わず弛緩しかんした。

 男は全身を薄緑色の布で出来た外套がいとうで覆っている。頭部もその例に漏れない。そして、

「お前もまた――山のような大男だな」

 と、呆れたように鼻で笑うが、言葉に悪意はにじまない。水泥も思わず毒気まで抜かれる。つい「はあ」と気のない声をらした。

 それにしても、威圧と軽妙さが混在する不思議な心象を与える男だった。背丈は――※ 尺五寸の水泥と比べるから悪いのだが――左程大きくはない。ないが、その存在自体に重量感があると言えば良いのか、一目見れば思わず振り返らずにはいられなくなるような求心力めいたものがあった。

 派手ではないが、美丈夫と言って言えなくもない。一重の目元は切れ長で彫りが深く、眉との距離がごく狭い。その目がわずかばかり細められる。

「ところで、名は?」

 水泥は一つ大きく息を吸い込むと腹をくくった。

「――蔡水麒さいすいきと申します。通り名は、すいどろと」

 男は頭に被っていた布覆い付きの帽子を外した。形のいい頭蓋骨とうがいこつに伸びた髪は五分刈り程度の長さしかないが、明らかにその色は黒い。そして鋭い茶の色をしたまなこ。薄ら寒くなるほどに白い肌だが、明らかに姮娥こうがの民のそれではない。つまりこの男は。

五邑ごゆうの方、ですか」

 男は油断のない眼差しのまま、ゆっくりと首を縦に振った。

「俺は紫炎しえんという。臨赤りんしゃくという集の首魁しゅかいだ。出身はえいしゅう。――通り名は、かじと」


         *


 希希しぃしぃがよく眠っているのを、眼を細めて確認したかじという男は、外套を脱ぎながら卓子たくしはさんで水泥の前に座した。脱いだ外套を翠雨すいうが受け取ろうとしたが、それには及ばないと手をかざして断り、適当に自身が座する椅子の背に掛けたところが、猊下げいかと呼ばれる立場の割に気取りが無くて、すいどろには好感が持てた。苦笑しながら翠雨すいう手燭てしょくに明かりを灯すと、室内が微かに明るくなった。

 椅子の上で梶火が脚と腕を組む。表情は微笑んでいるのだが、無意識になのか、どこかしらどうしても不適な空気を醸す。



「それで、さいというならば蓬莱ほうらいだな?」



 単刀直入な断定に水泥は苦笑う。

「――ご存知なのですね」

「お前も臨赤りんしゃくと聞いて大きく反応はしなかった。ある程度事情に通じているという事だろう」

「ご想像ほどではないかも知れませんが」

「まあいいさ。邑から出ているという時点で何も知らないという事はないだろうからな。蓬莱ほうらいが爆散したことは」

「知っています。ぼくが火薬を仕掛けましたので」

 梶火と翠雨すいうが息を呑む。

「――お前が、か」

「そういった手筈になっていましたので」


 七日目の夜。保食うけもちの下へ沙璋璞さしょうはくを行かせた後に、水泥が仕込んでいた仕事というのがまさしくこれだった。


 まずはとにかく禁軍に酒を振る舞った。最終日となる七日目の夜は彼等の羽目を外すのは常の事だ。ただ、そこに多少薬を混ぜた。とてもよく効く物を。

 他の兵はすぐに酔いつぶれてくれたが、沙璋璞は矢鱈やたら滅法めっぽう酒が強かった。いくら飲ませてもいつまでも眠らなかった。だから保食がいつも使う度数の高い酒に薬を倍に混ぜて飲ませた。正直に言って、沙璋璞がいつまでも邑長邸にいるのが邪魔だったのである。前日に保食が色々と言い訳を言っていたので、折角だから送り込んでみた。

 璋璞を保食のやしきへ押し込んでから、直ぐに仕込みに掛かった。

 後々蓬莱へ舞い戻ってくるであろう璋璞の隊の者を、こう一人で相手取るのは多少骨が折れるだろう。そう判断し、家毎に一戸程度なら楽に吹き飛ばせる程度の火薬袋を配した。一旦邑内に入り込んだが最期、外から襲い来た者達を一匹たりとて逃がす事が無いよう、外周から内に向かって時間差で爆発させられるように導線を配置したと説明したら、浩宇が珍しく顔を引きらせていたように思う。



 ――お前はやるとなったら本当に容赦がないね。



 呆れたように呟くその言葉に、水泥はきょとんとしてから、ああ確かにそうかも知れないと思った。そしてそれが誰の影響によるものであったのかに思い至り、ふうわりと笑って見せた。それがさらに浩宇の顔を引き攣らせた。この時ばかりは、笑った場面が悪かったらしい。

 仕掛けが済んでから、とりあえずそのまま放っておくのもなんだなと思い、保食邸に戻った。二人の結末は随分としまりのないものになってしまったが、水泥としてもあれが落としどころだったろうと思っている。

 保食、という娘に対して自分が抱く感情に名前を付ける事は水泥には難しかった。情愛ではあったろうが、所謂いわゆる恋情れんじょうでない事は確かだった。妹、というものがいればこんな感覚なのだろうかと想像してみたりもしたが、恐らくは実際の身内のそれ程は近くなく、さりとて他人程遠くもない。

 口幅くちはばったい事を承知で言葉にするならば、やはり守ってやりたいと思う程度には大切な子だった、と言う辺りだろう。

 生まれた瞬間から、重い物を背負わされていた娘だった。後に自ら仙山せんざんに志願し、更にその荷を増やし、その手を自ら汚していった。敢えてそうしている事が水泥にはよく分かった。そうして自らを追い詰めなければ、荷の重さに耐えかねて後退あとずさってしまうだろう事がよく分かっていたのだ。

 彼女は、何よりも自分自身から逃げる事をいとうていた。そんな背中を間近でずっと見てきた。その肩に手をおいて支えてやりたい。そしてその為になら己の手を汚しても構わない。そう思わせるものが保食には確かにあったし、その結果彼女の周りには幾人もの男達が群がる事になった。客観的に見れば、自分もその中の一人に数えられるのであろう事は若干じゃっかんいやだったけれども。

 しかし、まあ今更他人の目などはどうでもよい。

 当然、手を汚す覚悟を決めているのは自分だけではないし、命を賭する事を覚悟した者もまた己だけではない。

 一つゆっくりと瞬きをすると、水泥は僅かに眼を眇めて梶火を見据えた。

蓬莱ほうらいの、このたびの詳しい経緯いきさつはお聞き及びでしょうか」

「禁軍右将軍の隊の一部がそれで全員死んだ事ぐらいまではな。どうやった」

「火薬に死屍しし散華さんげを混ぜました。殺傷力は浅かったでしょうが足止めにはなります。多くのとどめを刺したのは邑長です」

蔡浩宇さいこううがやったというのか」

「はい。半散華はんさんげとうも持たせましたので」

「もたせた、というのか。お前が」

「はい。あれを満足なしつで打てるのは、ぼくだけですので」

 ふっと梶火はふてぶてしく笑った。

「よく分かった。聞かせてくれて感謝する。俺達も時間がないから手短に話を済ませたい。これから翠雨すいう希希しぃしぃを別の場に移さなければならん」

 水泥が顔を上げると翠雨がこくりと小さく頷いた。

「申し訳ないけれどね、今夜起きないようであれば、あんたには黙って出ていくつもりだったんだよ」

 梶火の隣に立つと、翠雨は手にしていた手拭いを卓子の上にそっと置いた。

翠雨すいうはこれから俺達と共に妣國ははのくにへ向かう」

「は、はのくにへ、ですか」

 思わず声が裏返った。

「ああ。本来であれば先月の内に二人を動かしていた。それがお前という人間を拾ったというので多少期間を融通した。本当ならば一刻も猶予はなかったんだがな。命を捨て置けないと希希が言うから、仕方なく。お前は運が良かった」

 事も無げに言い放つ梶火だが、聞かされる水泥にとっては想定の埒外らちがいぎる。

「あの、彼女が妣國へ向かうと言うなら、希希は……」

「希希はこれから臨赤の本拠地へ移動する」

「それは何処どこに」

「聞いて答えると思うか?」

 わらいながらも鋭い眼差しで水泥の目を射る梶火に、水泥もふうわりと微笑みながら、逸らさぬ眼差しでそれを向け止めた。



「ぼくが間もなくこの世から消え去ると聞いても?」



 その発言で、梶火と翠雨の目の色が変わった。それを見届け、水泥は「ああ」と吐息を零した。微笑みを深め、かぶりを横に振った。

「いえ、失礼しました。単なる好奇心です。この世へのもない未練に、小さな手土産が欲しくなっただけです」

 梶火が脚を組みなおした。

「――お前、蓬莱からてい州の東端まで来たという事は、目的地はこの先だな」

 聡い男は話が早くていいと、水泥は更に眼を細めて笑った。

えいしゅうで何をする気だ」

 水泥はうつむき加減にふふ、と声に出して笑ってから、す、とその表情から笑みを消した。



「――白玉はくぎょくを解放しに」



 梶火ががたんと椅子を鳴らす。隣で翠雨がやや険しい顔で「猊下」と呼ぶ。

「まさか、お前、にえになるために瀛洲へ向かっているのか」

「ご存知でしたか」

 水泥は、笑った。贄の事を知っているのならば、この梶火という人物は恐らく――。

「――旧知の者達が、かつてその為に邑を出ている」

 正解だ。水泥は敢えて意外そうな顔をして見せた。

「まさか、八咫やあたの事をご存知なのですか」

「お前、つまりは仙山せんざんだな」

 そこまで知っているならば間違いない。この梶火という人物は、八咫が後を託した仲間だ。



「ぼくは、贄の任に合わせて、八咫の言葉を伝えにゆくのです。――これは、彼の遺言と言って差しさわりないでしょう」




***


※ 六尺五寸(197cm)


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