37 矜持
女は
親子は人里離れた山奥で二人だけの静かな暮らしを送っていた。かつて穀物は山の
翠雨が
「
知らぬはずの
「あまり大きな声では言えないけどね。わたしら
水泥は「そうでしたか」と、ふわり笑って場を
翠雨の作法を真似て覚えたらしい希希のお
笑えばそれだけ空気はゆるむ。
ゆるめば相手の
笑うのが得意だった。
それが、これまでどれほど水泥の身を助けてきた事か。それがやはり、この場面でも生きる。
生き伸びるためなら方便だろうと
己には心がないなと、そう思うからだ。
言葉や態度であらわして見せるほどに、水泥は他人や衆に興味も関心も執着もない。だからこそ余計に、笑う。
そんな水泥の内心も知らず、翠雨は疲れた微苦笑を浮かべる。
「わたしらは本当に貧しくてね、やはりどうしても心の
水泥は神妙な面持ちをして深く
臨赤の事は、
禁軍黄師とは異なり、廂軍はより民に近い立場にある。崩れ行く国に対する不満が、かつての信仰穏やかな時代への回帰願望を
臨赤についての知識がある者は、
水泥は心の内でのみ、
水泥は静かに希希と翠雨に微笑みかけた。
「本当に、早くお帰り下さるといいね。そして国が落ち着くと良いね」
希希は
「うん。そうしたら父ちゃん出稼ぎから帰ってくるんだ」
その言葉にかすかな違和を覚えるも、水泥が理由に思い至ったのは後日の事だった。
「――御一交は、確か出稼ぎに行ってらっしゃるんですよね。……あの、
水泥の何の気なしを
この時、水泥もまた
母子の好意に甘えて水泥は脚の回復を待っていた。目覚めてからすでに一週間が過ぎている。
翠雨が後れ毛を耳に掛ける。日に焼けても白い頬をその傍から髪が
「――そういえば、あんた達は親が二人で子を
「はい。
翠雨はついと視線を希希の方へ向けた。
「あの子はね――二交の子なんだよ」
再びの風が吹き抜け、水泥と翠雨の髪を乱してゆく。
水泥はゆっくりと瞬きをして、縄を綯っていた手を膝の上に下ろした。
「
翠雨は苦しい顔をして
「だから希希は戸籍に載せられない。あんたは
「それは――ご苦労なさいましたね」
ふっと翠雨は笑った。
「やだねぇ。月の民じゃないと思うからなのか、あんたの人柄なのか、ついついこんな余計な事までどんどん話しちまう。あんた、罪な人だよ。わたしも話す人間があの子以外いないから口が回ってしまう」
「わかります。昔からよく言われます」
ふふ、と再び翠雨は笑ってから、遠くで駆けながら手を振る希希に手を振り返した。
「国もだけどさ、恐らく民自体も、あんた達がきて交わる事で変わってきたんじゃないかな。かつてはそうだと思われていたものがどんどんそうじゃなくなっていく。わたしの体もそうなんだろう。時の流れは戻せない。変わっちまったものは取り戻せない。だけど、完全に
女の
「――
綯い上げた縄を籠に落とすと、次の
「あんた達も、わたしは学がないから難しい事は分からないけれど、故郷に帰れと言われても帰れやしないだろう?」
「――ええ。もうそれがどんな場所だったかを知る者は生きてはいませんから」
――ごく一部を除いては、という言葉を水泥は飲み込んだ。
「寿命が短いという事は、そういう事になるんだよね。あの子は月朝になってからの生まれだけれど、わたしは、白朝は良い時代だった、なんて事だけは言わないようにしてるんだ。見も知らぬ昔が良かったなんて言われてもさ、困るだろう? 子供からすれば。じゃあなんで悪くなっちまったんだ、って問われたら、答えようがありゃしない」
「ふぅ」と吐息を零しつつ、翠雨は瞼を伏せる。
「――勿論、良いばかりじゃなかった時代なんだろうさ。自分がこんな立場になったから思い知ったとも言えるがね。実際、知らないというのは恐ろしい事だよ。良かったと押し付ける事も、悪くなかったと嘘を
水泥は首肯する。
「そうですね。それはとても恐ろしい事だ」
「だから、あの時代に回帰する事が素晴らしいとだけは何があってもわたしは言えない。過去に執着したところで、わたしらは過去へ向かって生きていくわけじゃない。それは、これからわたしら以上に長い時を生きなきゃいけない子供等に対しての
「――分かります。ぼく達も、この国で生きてゆくしかないから。確かに、全てが始まる前の故郷に救いを求めるこころが微かにはあります。だけど僕達はここで生まれて、ここで生きてきた。ただほんの少しだけ、少しだけでいいから、統治者に、大切な人が苦しまないでいい国に
「同じだね」
「ええ。同じだと思います」
「それがこんなにも難しく
「人が人である以上、個々人の思想が否定されない以上、
虫を追う希希を見詰めながら、水泥は静かに立ち上がる。
「だからこそ、人は対話を重ねるのではないでしょうか。噛み合わないままでも、諦めずに」
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