37 矜持



 女は翠雨すいうと名乗った。彼女の勧めもあり、水泥はある程度の回復が見込めるまで母子の世話になる事にした。馬はすっかり希希しぃしぃに懐き、下手をすれば水泥に顔をそむける始末だった。

 親子は人里離れた山奥で二人だけの静かな暮らしを送っていた。かつて穀物は山のふもとにあるささやかな畑で作り得ていたらしいが、十分な水が確保できなくなってからはほとんど世話をしていないらしい。主な食事は山でとれる果実や山菜、川でとれる魚などでまかなっているのだという。魚は入念に内臓を洗い、干して焼けばなんとか食べられるのだそうだ。そして、それらをまずは室内の奥にしつらえられた祭壇に上げる。

 翠雨がぜんに盛ったそれを、手伝うつもりの希希が引っつかみ、危なげに走りだす。翠雨が「歩く!」と止めるが間に合わず、すでに駆けきって祭壇の上にがちゃりと置かれた。幸い中身がこぼれる事もなく、うまくやったのを褒められるべきとほほふくらませる希希と、顔をしかめ悪態をく翠雨の様子が、なるほど子供らしく、また親らしいと水泥は笑んだ。


せきぎょく様にだよ!」


 知らぬはずの五邑ごゆうい事を教えてやろう、というつもりだったのだろう。誇らしげにしぃしぃが振り返りながらそう教えたのを、最初翠雨は険しい顔で止めようとした。が、微笑みうなずく水泥の顔を見て、小さく溜息を零すと彼女も笑んだ。

「あまり大きな声では言えないけどね。わたしら臨赤りんしゃくなんだよ。赤玉様を信仰している、ひとつの宗派というか、ね」

 水泥は「そうでしたか」と、ふわり笑って場をおさめる。

 翠雨の作法を真似て覚えたらしい希希のおまいりを、さらに水泥が真似る。それを見て親子が笑う。水泥も重ねて笑った。

 笑えばそれだけ空気はゆるむ。

 ゆるめば相手のふところに入りやすい。



 笑うのが得意だった。

 それが、これまでどれほど水泥の身を助けてきた事か。それがやはり、この場面でも生きる。



 ただれた顔でも表情は作る事が出来る。声音に警戒をいだかせぬのは、喉の操作でまかなえる。

 生き伸びるためなら方便だろうといとわぬ、という程の気概あってのものでもない。ただ合理であったから手管てくだろうした。それだけだった。それでも、時折すまなさをおぼえることはある。

 己には心がないなと、そう思うからだ。

 言葉や態度であらわして見せるほどに、水泥は他人や衆に興味も関心も執着もない。だからこそ余計に、笑う。

 そんな水泥の内心も知らず、翠雨は疲れた微苦笑を浮かべる。

「わたしらは本当に貧しくてね、やはりどうしても心のり所に赤玉様を求めてしまう。早く我々のところへお帰りいただけるように、こうしてわずかばかりだけど供え物をして、御帰還をお祈りしているんだよ」

 水泥は神妙な面持ちをして深くうなずいて見せた。


 臨赤の事は、紅江こうこうからも聞き及んでいた。その多くは廂軍しょうぐんの中に潜み、赤玉帰還をたくらむ一派なのだという。信仰を含めた武力集団である事だけは確かだが、その詳細はようとして知れない。彼女等は恐らくその内の、純粋な信仰の部分のみに関わっているのだろう。

 禁軍黄師とは異なり、廂軍はより民に近い立場にある。崩れ行く国に対する不満が、かつての信仰穏やかな時代への回帰願望をともない、その勢力を拡大させているのだという。無理からぬ話だと水泥も思う。

 臨赤についての知識がある者は、せんざん内でも未だ数が少ない。仙山せんざんはまつろわぬ民と浅からぬかかわりがあるが、臨赤もまたまつろわぬ民と関りがある。しかし仙山と臨赤の間に直接のつながりはなく、彼等がどれ程の規模の集なのか、何を主目的としてつどっているのか、その内容について水泥は深く知り得ていなかった。

 紅江こうこうの口から最初に臨赤の名を聞いてより、すでに七年近くが経過している。水泥自身、臨赤について然程多くの事を知っているわけではないが、それでも麻硝ましょうからは、臨赤について周囲に漏らすなと言われていた。恐らくは、高臼こううす側との取り決めがあったのだろう。

 いまなお巷間こうかんに臨赤の名は流布していない。

 水泥は心の内でのみ、いただきに君臨する大師長に対し、静かなえんを燃やす。端的に言って、あれだけは死ねとずっと思っている。

 水泥は静かに希希と翠雨に微笑みかけた。

「本当に、早くお帰り下さるといいね。そして国が落ち着くと良いね」

 希希ははじけるように笑った。

「うん。そうしたら父ちゃん出稼ぎから帰ってくるんだ」

 その言葉にかすかな違和を覚えるも、水泥が理由に思い至ったのは後日の事だった。



「――御一交は、確か出稼ぎに行ってらっしゃるんですよね。……あの、不躾ぶしつけかもしれませんが、あとお一人は?」

 水泥の何の気なしをよそおった問いかけに、縄をっていた翠雨はその手を止めて顔を上げた。透明に澄んだ白い瞳にきらと一条が光る。その奥に多くの言葉をたたえながらも、語らずに押し留めているのが分かる。そんな眼だった。

 この時、水泥もまたなわいを手伝っていた。粗末な小屋の外、二人並んで椅子に腰かけ、前庭の草原くさはらを駆ける希希の姿を見守る。ほがらかに笑う子供の健やかな様を見ていると、水泥はとても救われた気持ちになった。ともすれば自身が持っていた目的すら記憶から薄くなりかねない程に穏やかな優しい日々だった。

 母子の好意に甘えて水泥は脚の回復を待っていた。目覚めてからすでに一週間が過ぎている。

 翠雨が後れ毛を耳に掛ける。日に焼けても白い頬をその傍から髪がなぶる。風が強いのだ。

「――そういえば、あんた達は親が二人で子をせるんだったね」

「はい。五邑ごゆうの大半は両性がなく、ゆうかに分かれますので」

 翠雨はついと視線を希希の方へ向けた。


「あの子はね――二交の子なんだよ」


 再びの風が吹き抜け、水泥と翠雨の髪を乱してゆく。

 水泥はゆっくりと瞬きをして、縄を綯っていた手を膝の上に下ろした。

三交さんこうじゃないという事ですか」

 翠雨は苦しい顔をしてうなずいた。

「だから希希は戸籍に載せられない。あんたは五邑ごゆうだからわからないかも知れないが、なら二交なのは匂いで分かるから市井しせいでは育てられない。それで、交と二人話し合ってこの山に入る事にしたんだ。こうしてここに隠れ棲んでるのは、そういう理由からなんだよ」

「それは――ご苦労なさいましたね」

 ふっと翠雨は笑った。

「やだねぇ。月の民じゃないと思うからなのか、あんたの人柄なのか、ついついこんな余計な事までどんどん話しちまう。あんた、罪な人だよ。わたしも話す人間があの子以外いないから口が回ってしまう」

「わかります。昔からよく言われます」

 ふふ、と再び翠雨は笑ってから、遠くで駆けながら手を振る希希に手を振り返した。

「国もだけどさ、恐らく民自体も、あんた達がきて交わる事で変わってきたんじゃないかな。かつてはそうだと思われていたものがどんどんそうじゃなくなっていく。わたしの体もそうなんだろう。時の流れは戻せない。変わっちまったものは取り戻せない。だけど、完全にうしなったわけじゃないものならば、また取り戻して新しく始められるはずなんだ」

 女の眼差まなざしは、遥か遠くを見ている。決して絶望だけではない色で。



「――臨赤りんしゃくは、過去を取り戻すためにあるんじゃない。明日へ歩いて行くために赤玉様を取り戻そうとしているんだよ」



 綯い上げた縄を籠に落とすと、次のわらを手元に引き寄せる。

「あんた達も、わたしは学がないから難しい事は分からないけれど、故郷に帰れと言われても帰れやしないだろう?」

「――ええ。もうそれがどんな場所だったかを知る者は生きてはいませんから」

 ――ごく一部を除いては、という言葉を水泥は飲み込んだ。

「寿命が短いという事は、そういう事になるんだよね。あの子は月朝になってからの生まれだけれど、わたしは、白朝は良い時代だった、なんて事だけは言わないようにしてるんだ。見も知らぬ昔が良かったなんて言われてもさ、困るだろう? 子供からすれば。じゃあなんで悪くなっちまったんだ、って問われたら、答えようがありゃしない」

 「ふぅ」と吐息を零しつつ、翠雨は瞼を伏せる。

「――勿論、良いばかりじゃなかった時代なんだろうさ。自分がこんな立場になったから思い知ったとも言えるがね。実際、知らないというのは恐ろしい事だよ。良かったと押し付ける事も、悪くなかったと嘘をく事も、何が真実か思い込ませるのは我々親の胸算用一つってことになっちまう」

 水泥は首肯する。

「そうですね。それはとても恐ろしい事だ」

「だから、あの時代に回帰する事が素晴らしいとだけは何があってもわたしは言えない。過去に執着したところで、わたしらは過去へ向かって生きていくわけじゃない。それは、これからわたしら以上に長い時を生きなきゃいけない子供等に対しての欺瞞ぎまんになっちまう気がしてねぇ。子に対して誠実であろうと努めるのは、親としての矜持きょうじがあるが故だ。今を見据みすえてここで生きる。その為にあの子の命と心を支えるものを、せめて取り戻したい。ただその一心なんだよ」

「――分かります。ぼく達も、この国で生きてゆくしかないから。確かに、全てが始まる前の故郷に救いを求めるこころが微かにはあります。だけど僕達はここで生まれて、ここで生きてきた。ただほんの少しだけ、少しだけでいいから、統治者に、大切な人が苦しまないでいい国にかじを切ってほしい。ただそれだけなんです」

「同じだね」

「ええ。同じだと思います」

「それがこんなにも難しくみ合わないものかねぇ」

「人が人である以上、個々人の思想が否定されない以上、軋轢あつれきまぬかれ得ません」

 虫を追う希希を見詰めながら、水泥は静かに立ち上がる。

「だからこそ、人は対話を重ねるのではないでしょうか。噛み合わないままでも、諦めずに」




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