36 重湯
*
「――あ、お母ちゃん、起きたよ!」
「ああ、あんた、やっと気が付いた。急に無理をしちゃいかんよ」
前掛けで手を
女の右手がぬっと伸ばされ水泥の視界を横切った。つられて眼を向ければ、枕元に水差しがある。女はそれを取り上げると、
「オレ、裏で水
扉を開けて駆け出した少年の背に、母親が声を投げかける。
「気を付けるんだよ! 口に入らないようにね!」
その言葉が届いているのだかいないのだか、母親は苦笑して「子供ってのはどうしてこうなんだかねぇ」と首を横に振った。
「あの、ここは?」
水泥が問うと、女は眉間を険しくしながら笑い、水泥から空になった椀を受け取る。
「ここは
水泥はこくりと頷くと、辺りを見回した。
「全く、あの子が見つけてなかったら、あんた崖から落ちたまま死んでたとこだよ。髪色から察するに、あんた
女の言葉で思い出した。自分は間もなく
「あの、馬と……刀は?」
女は申し訳なさそうに寝台の下へ視線を向ける。
「気の毒だけどねぇ、刀は折れていたよ。子供が触るといけないから、この下にしまわせてもらってある。馬は裏に繋いである。
「――よかった」
ほぅと溜息を吐く。
「あの、助けてくださってありがとうございます。ぼくはどれぐらい眠っていましたか?」
「そうだね。今が
思いも寄らぬ言葉に水泥は思わず息を呑んだ。そして血の気が引く。
「そんなに……」
本来であれば卯月の頭には瀛洲に到着していたはずだった。それだけの時間が過ぎていたのであれば、
「脚が折れていたからね。一応手当はしてあるけれど――
見れば右足に添え木がされ布が巻かれている。言われて成程、熱を持った痛みがそこにある。そこで少し頭を冷やした。もし璋璞が既に
「その、あんた、失礼かもしれないけれど顔の傷は」
女の遠慮がちな問いに、水泥は薄く笑む。
「ああ、これは生まれつきのものなので」
「そうかい。――うん、そうだね。痛めているようではなかったから、とくに手は触れていないから」
女が
「随分ご迷惑だったでしょう」
「そんなことは気にするもんじゃないよ。あんただって、怪我人が倒れていたら放っておかないだろう?」
気の抜けていたところにそう問われて、つい、それはどうだろうか、と
自分は、
そんな内心が、もしかしたら表情に出ていたのかも知れない。
「――まあ、綺麗ごとばかり言えたもんでもないけどね」
ぽつり
「今回は見つけたのが子供だから。――悪い振る舞いは見せられないだろう」
ああ、そうか。――親だから、か。
理解して、水泥は「ほぅ」と吐息を
「では、ぼくは運がよかった」
「ほんとそうだよ。あんた強運だ。生きてるんだから」
女は、
「ああでも、急ぎの道中で崖から落ちるのは、そもそも運がよくなかったのか」
水泥が苦笑して見せながら言うと、女は難しい顔をして「いや。そうとも言えないかも知れないよ」と小声で呟いた。
「急ぎの道中と言ったね?」
「ええ、はい」
「――あんたがどこの者で、どういう理由で
「禁軍の、ですか」
「ああ。街道も封鎖されて、余程裏道に詳しい者じゃないと他の州には抜けられない状態になっているんだ。監視の目は厳しくなる一方だし、土地を
弟州が禁軍掌握下にある事は、無論承知している。その封鎖やら監視やらが水泥を無事に抜けさせるために配されていた事も。更に言うならば、どうやら己は一月半もの間、完全なる消息不明に
これは、思った以上の大事になっているやも知れぬ。
水泥が難しい顔をしていると、女の目が微かに曇った。
「――この国は、もう
水泥は言葉を選べずに、黙った。それに気付いたのか、女が無理に笑って立ち上がる。
「さぁて、
水泥が答えあぐねている内に女は立ち上がると
「あの――お二人の分は」
女は困ったように笑って見せた。
「――この山奥にまでは、
がつん、と背後から頭を殴られたような気がした。水泥は黙って
「気にするんじゃないよ。わたしらは食わなくても死なない。でも、あんた達はそうじゃないだろう?」
「じゃあ、水も……」
「ああそれだけはなんとかね。出稼ぎに行っている
女は笑うと「さあ、温かいうちに食べなさい」と
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