36 重湯


         *


「――あ、お母ちゃん、起きたよ!」


 ひどく重いまぶたをようやっとの思いで開くと、目の前に子供の顔があった。白髪に白眼。一瞬豊来ほうらいかと思ったが、よく見ると違う。息を吸い込もうとして全身に激痛が走り、水泥はぐっとうめいた。

 両眼りょうがんしばたたいてから、何とかくびだけをめぐらせ、ようやく己が寝台の上にいる事を把握はあくする。


「ああ、あんた、やっと気が付いた。急に無理をしちゃいかんよ」


 前掛けで手をぬぐいながらぱたぱたと駆けてきた女に、子供が「お母ちゃん、起きた!」と同じ報告を繰り返す。「うん、教えてくれてありがとう」と、微笑み返す女の方も、やはり白髪に白眼、そして白肌だ。

 女の右手がぬっと伸ばされ水泥の視界を横切った。つられて眼を向ければ、枕元に水差しがある。女はそれを取り上げると、わんに水をいで「体を起こせるかい? 水は飲めそうかい?」と問いかけてきた。全身の骨肉がぎしぎしと音を立てたが、何とか身体を起こす。椀を受け取り一口嚥下えんげすると、途端に喉の渇きを覚えた。中身を干すと、ようやく人心地が付いた。

「オレ、裏で水んでくる!」

 扉を開けて駆け出した少年の背に、母親が声を投げかける。

「気を付けるんだよ! 口に入らないようにね!」

 その言葉が届いているのだかいないのだか、母親は苦笑して「子供ってのはどうしてこうなんだかねぇ」と首を横に振った。

「あの、ここは?」

 水泥が問うと、女は眉間を険しくしながら笑い、水泥から空になった椀を受け取る。

「ここは螺栖らすの奥地だ。てい州の東、といって分かるかね?」

 水泥はこくりと頷くと、辺りを見回した。五邑ごゆうとは違う家内のしつらえ、自身が横たえられていた寝台の特徴と母子の容姿から、姮娥こうがの農村地帯の家屋の内にいると判じた。

「全く、あの子が見つけてなかったら、あんた崖から落ちたまま死んでたとこだよ。髪色から察するに、あんた五邑ごゆうだろ? 五邑の民は怪我は治らないし寿命は短いしで大変だって言うじゃないか。気を付けなきゃいかんよ、ほんとに」

 女の言葉で思い出した。自分は間もなくえいしゅうに至るという時に馬が脚を踏み外したせいで崖の下に落ちたのだ。

「あの、馬と……刀は?」

 女は申し訳なさそうに寝台の下へ視線を向ける。

「気の毒だけどねぇ、刀は折れていたよ。子供が触るといけないから、この下にしまわせてもらってある。馬は裏に繋いである。希希しぃしぃが世話をしたから状態はいいはずだよ」

「――よかった」

 ほぅと溜息を吐く。えいしゅうまで間もなくと言えど、馬があるとないとではその道中の難は段違いになる。使っていたのは姮娥こうがの馬で、民と同様に不死である。崖落ちによる死亡は心配していなかったが、手綱を離しているので逃げられていた可能性はあった。刀は現地で打ち直せばいい。鍛冶屋がある事が前提になるが、ないはずはないだろう。

「あの、助けてくださってありがとうございます。ぼくはどれぐらい眠っていましたか?」

「そうだね。今が卯月うづきの末だから、一月半近くじゃないかねぇ」

 思いも寄らぬ言葉に水泥は思わず息を呑んだ。そして血の気が引く。

「そんなに……」

 本来であれば卯月の頭には瀛洲に到着していたはずだった。それだけの時間が過ぎていたのであれば、沙璋璞さしょうはくは既に瀛洲に到着してしまっているだろう。

「脚が折れていたからね。一応手当はしてあるけれど――五邑ごゆうの怪我がどれほどでなおるものか、わたしにはよくわからないからね」

 見れば右足に添え木がされ布が巻かれている。言われて成程、熱を持った痛みがそこにある。そこで少し頭を冷やした。もし璋璞が既に八重やえおうを連れて帝壼宮ていこんきゅうへ向かっていたとしても、手筈は変わらない。瀛洲に余計な心的負担は掛けてしまったかも知れないが、自分があちらで『かん』を外すという最大任務に変わりはない。寧ろ首の骨を折っていなくてよかったと安堵すべき場面だろう。

「その、あんた、失礼かもしれないけれど顔の傷は」

 女の遠慮がちな問いに、水泥は薄く笑む。

「ああ、これは生まれつきのものなので」

「そうかい。――うん、そうだね。痛めているようではなかったから、とくに手は触れていないから」

 女がすそを直しながら改めて椅子に座りなおしたのを見て、水泥は再び「本当にありがとうございます」と繰り返した。

「随分ご迷惑だったでしょう」

「そんなことは気にするもんじゃないよ。あんただって、怪我人が倒れていたら放っておかないだろう?」

 気の抜けていたところにそう問われて、つい、それはどうだろうか、ともくしてしまった。

 自分は、があれば、目の前で人が死にかけていても捨て置くかも知れぬ。根本的に本性ほんせいが合理をたっとぶ上にすいどろは一兵だ。しゅうに深い執着もないが、責務に対していい加減であってよいとは考えない。為すべきがあれば見捨てるだろう。

 そんな内心が、もしかしたら表情に出ていたのかも知れない。あるいは、本来笑顔で「そうですね」と即答すべきところを、わずかばかり遅れたからかも知れぬ。女は視線を自身の膝の上で組んだ手に落とした。

「――まあ、綺麗ごとばかり言えたもんでもないけどね」

 ぽつりこぼされた言葉は、口元に薄い笑みを含む。



「今回は見つけたのが子供だから。――悪い振る舞いは見せられないだろう」



 ああ、そうか。――親だから、か。

 理解して、水泥は「ほぅ」と吐息をこぼし笑った。わかったつもりで、やはり己はわかっていない。

「では、ぼくは運がよかった」

「ほんとそうだよ。あんた強運だ。生きてるんだから」

 女は、悪戯いたずら上目遣うわめづかいで目を細め笑んだ。声音もつとめて明るくしている。そうすることで、この場に生じたかすかなこごりを払拭ふっしょくする。女の気使いの意図がありがたかった。

「ああでも、急ぎの道中で崖から落ちるのは、そもそも運がよくなかったのか」

 水泥が苦笑して見せながら言うと、女は難しい顔をして「いや。そうとも言えないかも知れないよ」と小声で呟いた。

「急ぎの道中と言ったね?」

「ええ、はい」

「――あんたがどこの者で、どういう理由でむらから出ているのかまでは聞かないけれど……このてい州の州城、名をせいかい城と言うんだが、そこが完全に禁軍の掌握下に入ってしまってね」

「禁軍の、ですか」

「ああ。街道も封鎖されて、余程裏道に詳しい者じゃないと他の州には抜けられない状態になっているんだ。監視の目は厳しくなる一方だし、土地をてた連中も行き場がなくなって、各地の県城の外門周りにたむろしているらしい。そんな中であんたみたいな五邑ごゆうがうろうろしていたら危険だよ。このところみんな殺気立っているからね。まあ無理もないが。あんた、身動きが取れなかったからこそ今無事で済んでるんだ」

 弟州が禁軍掌握下にある事は、無論承知している。その封鎖やら監視やらが水泥を無事に抜けさせるために配されていた事も。更に言うならば、どうやら己は一月半もの間、完全なる消息不明におちいっている。――間違いなく、血眼ちまなこになって探されているだろう。


 これは、思った以上の大事になっているやも知れぬ。


 水泥が難しい顔をしていると、女の目が微かに曇った。

「――この国は、もうかたむいているどころか、転がり墜ち始めているんだ」

 水泥は言葉を選べずに、黙った。それに気付いたのか、女が無理に笑って立ち上がる。

「さぁて、重湯おもゆか何かを用意してあげようかね。といっても、もうかめの底に雑穀が少しくらいしかないのだけど」

 水泥が答えあぐねている内に女は立ち上がるとくりやに立った。見れば本当にわずかしか残りがないものを全てさらってくれている。かき集めたものを水から土鍋で煮立てる。ややあってわんに盛られたそれをさじと共に差し出されると、水泥は困惑して彼女の顔を見た。

「あの――お二人の分は」

 女は困ったように笑って見せた。


「――この山奥にまでは、不死石しなずのいしは供給が追い付かなくてね。穀物を育てるための水まで清めてはいられなくて。わたしらはもう口に入れられないんだよ」


 がつん、と背後から頭を殴られたような気がした。水泥は黙ってうつむく。椀の中に浮いた僅かな穀物が揺れた。

「気にするんじゃないよ。わたしらは食わなくても死なない。でも、あんた達はそうじゃないだろう?」

「じゃあ、水も……」

「ああそれだけはなんとかね。出稼ぎに行っているこうが手に入れてきてくれたものがあるから」

 女は笑うと「さあ、温かいうちに食べなさい」とうながした。水泥が匙ですくい、口に運んだそれは、懐かしく薄甘い味がした。


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