31 言葉選ばんで


 一瞬の間をおいて、八重やえはゆっくりとまばたいた。

 口の中が、一瞬で乾いたのが分かる。

 長鳴ながなきの発した言葉の内容はあまりに受け入れがたく、八重は自身の耳の方を疑った。しかし、反芻はんすうした後も鼓膜がひろったその音の意味は変わらない。

 意味は理解されたが、心が受け取れない。

「な、え、なに」

 長鳴ながなきの口元も苦く歪む。

「正確には、外見上は女だが、女の具も男の具もともなっていないんだそうだ。兄上が生まれてすぐ、父が、祠で煙を上げるに際して兄上の髪を持って行って白玉に触れさせ確かめた、らしい。髪色が変わらなかったから、男として育てた」

「それは」

「僕も長く知らなかった事だ。父は――父がどういったつもりでそうしたのか、正確な意図は僕にも分からない。南辰から聞いた事だけど、父は子供の時からこのむらの存在理由も、歴代の長が背負わされてきたものも理解していたらしい。おすくに達の事も当然知っていた。――だから、もしかしたら僕達にはだ分かっていない事情からそう判断してやった事なのかも知れないけど――」

 言葉にせずとも、その先に含み置く言葉は分かる。八重と長鳴の間に、怒りとも悲しみとも付かぬものが去来する。東馬とうまの思いが理解できぬではないからこそ、その暴挙に虚脱した。それが赦されるなら、皆がそうしたかったはずだ。知らぬままに奪われた者達がいた事実が重くし掛かる。故に、八重には、思いは分かる、とは言えなかった。先に打ち明けられていた長鳴も無論そうだった。

 ――そしてそれは、何よりも誰よりも、当のゆう本人にとって受け入れ難いものだったろう。八重は歯噛みした。彼の時折見せる暗い眼差しの意味が、今ようやく理解できた気がした。

「兄上は、父上の事を卑怯だと言ったよ。その選択は欺瞞ぎまんだと父上本人にも投げたらしい。……本当に、あの人らしいよね。芯から率直で出来ている。だからこそ承服できなかったんだ。歴代の器の犠牲をあざむき、自分ばかりが守られて、君を犠牲にするなんて」

 長鳴のまなうらに先程座敷で対峙した熊掌の姿が黄泉よみがえる。熊掌の姿勢は正しく、乱れなど髪一筋すらなかったが、微笑の内にめられた怒りと意志は強固かつ重かった。

 一つ深く吸い込み、吐き捨てるように、ささやきのような小声で告げた。



「兄上は、自分が帝壼宮ていこんきゅうへ行くと言っている」



 ひっ、と八重の喉が鳴った。

「それは、うちの代わりにってこと?」

「うん」

「熊掌が、そう言うたん? 自分が器の継承者になるって?」

「そうだよ。さっき、間違いなくそう言われた」

 予想だにしなかった言葉に八重の全身が震える。確かに、熊掌の布は微小ながらも『色変わり』してはいたが、歴代の事を思えば最上級に等しい黒を維持していた。だが。

「でも、それでもうちの方が」

「そう。君の方が器としてはより適格だよ。布を比べられたら、間違いなく黄師こうしは君を器に選ぶと思う。僕が黄師でもそうするよ」

「ていうか、熊掌はもう死屍散華持ってないんちゃうん」

「――……。」

「熊掌が継承したとしたら、ににぎ? とかいうのが顕現けんげんするやろなって、この前ゆうてたやん」

 長鳴は、そこから再び逡巡しゅんじゅんに入った。八重の肩をつかむ手に力がめられる。


 堂の内にも外にも沈黙が満ちている。


 事は何時でも突然に動く。本当の意味で人は、熟考して選ぶ時間など与えられないものなのかも知れない。何を選んでも必ず後悔は残るのだろう。本当に望む事が、決してその選択の先に繋がっていないと知っていても選ばざるを得ない時がある。

 ならば、せめてこの手で線を引こう。

 長鳴は、顔を上げた。

「――器にされる娘には、明文化されてはいないが、生娘である事が求められているのは知っているね」

「――それは、聞いとる」

 長鳴は目元を大きく見張って、見返す八重の眼を受け止める。その眼は痛々しい程に赤く充血していた。

「あれは、本当は正確ではないんだ。本当は、白玉の器の切り分けは、未通の身体でなければできないからなんだ」

「――――――そんな、あほな」

「ああ。阿呆の極みだ! 俺だってそう思うさ‼」

 初めて聞く長鳴の絶叫に、八重は息を呑んだ。

「だけど、それで器を回避したのが千鶴だ。――その結果として、方丈に子産みの為に獲られたわけだけどね」

 八重は、じわりと眉間に皺を刻んだ。膝の上においた手を握りしめる。長鳴の言葉の意味が理解できない程子供ではなかった。

「なあ長鳴、熊掌は――もしかして」

 長鳴は、長い逡巡の上、その言葉を紡いだ。



「兄上は、分割されない。されない事を前提として、自身で白玉を継承し、瓊瓊杵ににぎ破砕牙はさいがを――神の力を自身の力として手に入れ、朝廷をあざむく事で弓を引くおつもりだ。あの人は、自分の代で全てを終わらせると決めているんだ」



 暫時、沈黙が続いた。肌に刺さる程の沈黙があるとすれば正しくこれを指すだろう。

 八重は大きく息を吸い込み、そして吐きながら言った。

「――そんで、あんたは、いや、熊掌は、うちにどうしろって言うてんの……?」

「俺のさいだと言ってあざむけと。とにかくお前を逃がすようにと」

 長鳴は、八重の肩から手を外すと、拳を握りしめ自身の膝に叩きつけた。

「――なあ、長鳴」

 長鳴は俯いたまま沈黙を守った。

「あのな、うちがまどろっこしいのん嫌いなんは、あんたが一番知っとるはずやろ」

「――ああ」


「言葉選ばんで。……それは、うちらで既成事実を作れって意味やな?」


 がん! と長鳴は自身の膝を殴った。

「決めるのは君だって言ってやりたいよ。もし八重が器になる方を選ぶというなら、それを尊重すべきなんだろう……と思う。もっと時間が赦したなら、せめて君の意に沿う男を見繕みつくろってやれた、そうするべきだった! 分かってるよ‼」

 それは、紛れもなく、八重の問いに対する肯定だった。





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