32 うちの事ちゃんと攫いにきてくれるんやろ?



長鳴ながなき

 おのが名を呼んだ八重やえ声音こわねの小ささに、長鳴は苦痛に染まったかぶりをふった。

「いやちがう。……違う、嘘だ。俺は」

 ぐぅ、と長鳴の喉が苦痛の音を鳴らした。分かっている。口にした言葉が全て反吐へどのようだった。自分が吐き出した欺瞞ぎまんは自分が一番よく分かる。

「――俺はっ、時間があっても、きっと君に他の誰かを選ばせたりなんかしなかったっ」

 吐き出される言葉には、本音であるからこその血が滲んだ。

 そうだ。選ばせてやる気があるなら、石段を上がる前にどうにかした。他でもない自分が問答無用でここまで引っ張ってきた。選ばせるつもりなんか最初からなかったのだ。

 長鳴の口のから、苦痛交じりの失笑が漏れる。

「今の俺は、どれ程君から浅ましくみにくく見えているんだろうな――俺は、俺がここまで情けなく汚い真似まねが選べるなんて思わなかった……自分で自分を殺したいぐらいだよ。こんな醜態しゅうたいを君の前にさらすために、俺は君のそばに居続けたわけじゃない」

 互いの息が鼻先に触れるほどの距離で、長鳴は告解を続ける。

 ほとほとと、落涙する事を止められなかった。

方丈ほうじょうには表立っては刃向はむかえない。あれは五邑ごゆうの皮を被った月皇の権力の源そのものだ。そんな事をしたらこれまで兄上が苦渋をめても耐え続けた事が水泡に帰してしまう。あ、兄上がっ……どんな目にあってきたのか……それがどれだけ凄惨せいさんな事だったかなんて……梶火の様子を見てればいくら俺でも聞かされなくてもわかったさ! それでも兄上は何一つ投げ出さなかった! 逃げなかった! だから俺も逃げてはいけない事は分かってる! だけどおれはっ……」

 うつむいた長鳴の肩が奮える。



「兄上の策がたおれたら、どちらを選んでいても必ず君を失う事になるっ……! それが厭で厭で仕方がないんだ!」



 爪が食い込むほどに強く握り締められて、震える右の拳。その手首を、長鳴は自身の左手で締め上げる。

 厭だ。

 厭で厭でたまらなかった。

 何よりも守りたいものを守れず、いつかそれがくびきつながれるだろう明日を、ただ待つ事しか出来ない。ただただ無力な己を痛感するしかない。ずっと、そんな煮えたぎるような日々だった。己の不甲斐なさから眼をらすかの如く、毒の調合に全ての心血をそそいだ。それで贖罪しょくざいになるはずもないのに、他に出来る事がなかった。

 自分は、兄の受け続けた被虐を看過かんかし、更には毒も丸投げにして兄の手一つだけを汚させ続けた。その結果として、方丈が瓦解して八重が奪われずに済む事を――兄が方丈の男を皆殺しにしてくれる事を、心のどこかで期待していた。

 全て、兄一人だけに重荷を負わせた。

 その上更に今、その兄が八重の肩代わりを申し出た事に、この上ない安堵を覚えている。

 最悪だ。性根から腐り果てている。

 床に額を打ち付けて、長鳴は歯を食いしばりながら慟哭どうこくした。



「八重、君が自分で選んで。器になるか、それとも方丈に送り込まれるか。器になる方がマシだというなら今からでもいい、下へ降りよう。今ならまだ間に合う。――否やなら、事実がばれてしまう危険を含んでもただ妻だと言い張るか、それとも今、俺に手折られる覚悟があるかどうか――頼む。答えを、出してくれ。考える時間は恐らく今夜いっぱいだけだ。だが本当に明日の朝まで奴等が到着しないという保証はない。奴らが是が非でも君を器に選ぼうというなら直ぐに追ってくるだろう。そしてここが見つかったら、もう君は自分で選択する事もできなくなる」



「長鳴」

 震える青年の肩を、八重は静かに見下ろした。

 こんな逼迫ひっぱくした状況であるというのに、八重は不思議と冷静だった。

 長鳴は少年時代とまるで変わらないようでもあり、初めて知る青年のようにも感じられた。懐かしく、遠く、掴みどころがなく、世界が閉じられているような心地がした。ふっと、笑みがれる。



「――あんたは、昔っからほんまに泣き虫やな」



 小さな白い手が、そっと静かに長鳴の肩を抱いた。伏した身体を覆うように。そっと真綿で包み込むように。

「うちは、ずっとあんたの背中か泣き顔ばっかり見てきた気ぃするわ」

 長鳴が顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになったその顔を、八重は袖で拭った。

「八重」

「うちはな、白玉のために器になるんはやぶさかやないんや。でもな、方丈ほうじょうは厭や。ほんで、姮娥こうがの連中に利用されるために切り刻まれるんは絶対厭や。――せやけど、あんたとの事を、こんな済し崩しにしてしまうんは、もっともっと厭や」

 ぱしり、と長鳴の頬を両手で挟む。

「あんた自身はどうやねん。うちのこと嫁さんにしたいんか?」

「――したいよ。できるなら」

あざむくとか、そういう理由ちゃうな?」

「当たり前だろう⁉」

「ほな、全部終わるまで待ってて。約束したやん、うちらの代で全部終わらせるんやって。熊掌の事やから、只で犠牲になる気はないはずや。絶対なんか考えがある」

「だけど、もし本当の事が知られたら」

「そん時はそういう運命や。うちは、ずるっこの一抜けたなんかしたない」

「八重」

「うちはな、あんたの事だけは、信じてるんや」

 八重は、ふわりと、触れるだけの口付けを長鳴にして、今にも泣きださんばかりの笑顔を浮かべた。

「万一……万が一、方丈にられるような事になっても、あんた、いつか必ず、うちの事ちゃんとさらいにきてくれるんやろ?」

 長鳴は、歯噛みをしてから、力の限り八重の身体を抱き締めた。

「――ああ、約束する」



 夜明けとともに下山した二人は、固く手を結んでいた。二人が出した結論を、熊掌ゆうひ南辰なんしんも敢えて聞こうとはしなかった。

 熊掌は二人に邑長邸で待つよう告げると、南辰なんしんに視線を向けた。



「行きましょう。もう逃げ隠れは終わりだ」



 ほがらかな微笑みは、朝日に照らされて尚の事美しかった。それが、長鳴ながなき八重やえには苦しかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る