30 潮時
「長鳴……」
駆け寄った八重を見下ろす長鳴の表情は悲痛そのものだった。いつものようにその手をとろうと八重が手を伸ばすと、びくりと
熊掌の指示で、四人は祠へと向かった。真夜中の事である。足元は
見慣れた道を行くと、やがて
闇の中、微かな明かりに照らされた熊掌の頬が、濡れて見えた。
八重と長鳴に向かい熊掌が告げる。
「長鳴。今から八重を連れて
「「熊掌⁉」」
重なった八重と南辰の叫びに、熊掌は小さな苦笑を浮かべた。
熊掌と長鳴の視線が結ばれる。常にない、
「――本当に、兄上が向かわれるおつもりなんですね」
「ああ。僕が行く。――お前達に与えてやれる時間は考える分も含めて今夜だけだ。長鳴、腹を
八重の手が
「ちょっと、長鳴?」
問い質すも、長鳴はもう
ただ、その広く高い背中を見つめて、八重は長鳴の斜め後ろをついていく。
硬く握りしめた手が、その熱が、焦燥が、あらゆるものが綯い交ぜになって、闇の底に溶けて行った。
ゆっくりと二人の背中が石段を
「どうなさるおつもりですか、長」
二人の背中を見詰める熊掌の目が、微笑むように細められる。何か、遠く懐かしいものを見送る様に。
「――昔、こうやって俺の命を救おうとしてくれた男がいまして」
南辰がわずかばかり息を呑む。
「それは、まさか
熊掌はふわりと流し目を送り微笑んだ。
「あれが上手く作用するのかは出たとこ勝負だと。分かった上で俺も奴の賭けに乗ったんだから始末に負えん。――南辰。これは大博打だ。勝てば
「熊掌、お前まさか」
「蓬莱の仕込みには恐れ入る。さすがに予測が付かなかった」
「本当に、やる気か」
ああ、と首肯する。
「元よりそのつもりで動いてきたんだ」
「――
南辰の声は硬い。
「熊掌。こうするつもりだと、あいつには伝えてあったのか? あいつは承知の上なのか?」
熊掌は微かに
「いや。
「本当にそれでいいのか?」
「いいんです」
「お前がよくとも、梶火は納得できんだろうが。せめて使いを飛ばすなり……」
「不要です」
「熊掌」
「選択が変わらない以上、知らせたところで意味はない。
熊掌は静かに南辰の目を見た。
「俺達にとっては賭けでも、あの二人には違う」
闇に沈む山の上には、宝石の粉を散らせた夜が浮かんでいた。
「俺達には見られなかった明日を、あの二人には見せてやりたい」
*
堂内は薄暗く静かだった。常から見慣れた場所であるのに、まるで見知らぬ場所のように思えて
闇に目を慣らそうと八重が眼を
「
八重が振り返ると、閂に手を掛けたままの姿勢で、長鳴は肩を落としていた。
どれ程待っても、長鳴から
その事に、不安がそろそろと湧く。
静かだった。あまりに静かで、薄闇が肌にしっとりと
――ああ、この背中は、いつの間にこんなに広くなったのだろうか。
唐突に、今更に、そんな事に気付く。
とても長い間、彼の事を自分の気まぐれや
あの夜、何も知らずにいた八重が
微かに唇を引き結ぶと、八重は唇を開いた。
「なぁ長鳴。熊掌の話、なんやったん?」
「――……。」
長鳴は微動だにしない。
八重の唇から吐息が
片腹痛いわな。
「なあ長鳴。もう、ここが潮時や」
長鳴が呆然とした
「やっとこっちみた」
「八重」
「流石にうちにもわかるわ。梶火にも熊掌にも感謝しとる。ここまできたらもうどうしようもないわな。――本当に、長い間ありがとうございました」
八重が膝を折り深く頭を下げると、長鳴は息を呑んだ。
「八重……やめてくれ。顔を上げてくれ」
「この顔とも間もなく泣き別れや。使えるうちに下げさせて。特にあんたには、この七年――いや、もう八年か。ずっとべったり世話焼かせてしもた。ほんまに堪忍やで。うち、我儘ばっかりやった。ほんまは厭やったろうに。ごめんな」
「そんなことは……っ」
悲痛な顔をした長鳴と、達観の笑みを浮かべた八重と、あまりに二人の表情は違い過ぎた。
ぐ、と長鳴の眉間に深い皺が刻まれた。それは、腹を決めた者の顔だった。
二人には、十二分に考えるだけの時間も、結論を先延ばしにする猶予も最早残されてはいないのだ。
長鳴は八重の元へゆっくりと歩み寄ると、自身も彼女の前に膝を突き、そっと八重の双肩に手を置いた。
「八重、大事な話がある」
「話?」
「時間がないから、順を追って説明する。嘘は吐かないから、疑わずに飲み込んで欲しい」
前髪から落ちた汗が目に入り、長鳴は
「兄上は――男じゃない」
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