30 潮時


 ゆうの要請に従い、南辰なんしん八重やえは座敷を離れた。兄弟の話は思うより早くに片が付いたが、座敷から出て来た長鳴ながなきの表情は、見た事もないような暗さに沈んでいた。

「長鳴……」

 駆け寄った八重を見下ろす長鳴の表情は悲痛そのものだった。いつものようにその手をとろうと八重が手を伸ばすと、びくりとねるように強張こわばる。戸惑う八重を前に、長鳴は視線をらしながら「すまない」と小さくびた。



 熊掌の指示で、四人は祠へと向かった。真夜中の事である。足元は只管ひたすら覚束おぼつかない。八重は、自分の斜め前をゆく長鳴の背中をただ見ていた。恐る恐るその袖を掴むと、長鳴はわずか振り返り、ぐっと強く八重の手を握った。その手は、いつもより熱をはらみ汗ばんでいた。

 見慣れた道を行くと、やがて不死石しなずのいし礎石そせきに左右を護られた石段が現れる。その手前でふいに立ち止まった熊掌が三人へ向けて振り返った。


 闇の中、微かな明かりに照らされた熊掌の頬が、濡れて見えた。


 八重と長鳴に向かい熊掌が告げる。

「長鳴。今から八重を連れて祠裏しりの堂へ入れ。どうするのか夜明けまでに二人で決めろ。場合によっては邑から逃走する事も許す」

「「熊掌⁉」」

 重なった八重と南辰の叫びに、熊掌は小さな苦笑を浮かべた。

 熊掌と長鳴の視線が結ばれる。常にない、逼迫ひっぱくした声で長鳴がつぶやく。

「――本当に、兄上が向かわれるおつもりなんですね」

「ああ。僕が行く。――お前達に与えてやれる時間は考える分も含めて今夜だけだ。長鳴、腹をくくれ。夜明けまで僕達はここで待つ。出ないと決めたならば沙璋璞さしょうはくが立ち去るまで動くな」

 八重の手が万力まんりきごとき強さで握られた。あまりの強さに顔を上げるが、長鳴は視線も向けずに八重の手を引いて石段をのぼり始めた。

「ちょっと、長鳴?」

 問い質すも、長鳴はもういらえない。

 ただ、その広く高い背中を見つめて、八重は長鳴の斜め後ろをついていく。

 硬く握りしめた手が、その熱が、焦燥が、あらゆるものが綯い交ぜになって、闇の底に溶けて行った。



 ゆっくりと二人の背中が石段をのぼってゆく。それを見送る熊掌のかたわらで、南辰は硬い顔をしていた。

「どうなさるおつもりですか、長」

 二人の背中を見詰める熊掌の目が、微笑むように細められる。何か、遠く懐かしいものを見送る様に。



「――昔、こうやって俺の命を救おうとしてくれた男がいまして」



 南辰がわずかばかり息を呑む。

「それは、まさか悟堂ごどうの事か」

 熊掌はふわりと流し目を送り微笑んだ。

「あれが上手く作用するのかは出たとこ勝負だと。分かった上で俺も奴の賭けに乗ったんだから始末に負えん。――南辰。これは大博打だ。勝てば白玉はくぎょくの継承構造を根底から破壊できる。しくじれば待っているのは、五邑の破滅だ」

「熊掌、お前まさか」

「蓬莱の仕込みには恐れ入る。さすがに予測が付かなかった」

「本当に、やる気か」

 ああ、と首肯する。

「元よりそのつもりで動いてきたんだ」

「――かじには?」

 南辰の声は硬い。

「熊掌。こうするつもりだと、あいつには伝えてあったのか? あいつは承知の上なのか?」

 熊掌は微かにうつむいた。

「いや。紫炎しえんには言っていない」

「本当にそれでいいのか?」

「いいんです」

「お前がよくとも、梶火は納得できんだろうが。せめて使いを飛ばすなり……」

「不要です」

「熊掌」

「選択が変わらない以上、知らせたところで意味はない。かえってあれの動揺を誘い、成る策も成らなくなってしまう。言ったでしょう、これは博打だと。負ける可能性があるものにあいつは同意しない。だからこれは、俺の我儘わがままです」

 熊掌は静かに南辰の目を見た。

「俺達にとっては賭けでも、あの二人には違う」

 闇に沈む山の上には、宝石の粉を散らせた夜が浮かんでいた。

「俺達には見られなかった明日を、あの二人には見せてやりたい」


          *


 堂内は薄暗く静かだった。常から見慣れた場所であるのに、まるで見知らぬ場所のように思えて八重やえは一つ胴震いした。

 闇に目を慣らそうと八重が眼をらしていると、背後でかんぬきが掛かる音がした。びくりとして振り返る。

長鳴ながなき――?」

 八重が振り返ると、閂に手を掛けたままの姿勢で、長鳴は肩を落としていた。


 どれ程待っても、長鳴からいらえが返らない。

 その事に、不安がそろそろと湧く。


 静かだった。あまりに静かで、薄闇が肌にしっとりとまとわりつくような気さえする。さわりとした寒気が走り、八重は思わず自身の両腕を抱いた。たたずんだまま身動みじろぎしようとしない長鳴の背中を、じっと見つめる。


 ――ああ、この背中は、いつの間にこんなに広くなったのだろうか。


 唐突に、今更に、そんな事に気付く。

 とても長い間、彼の事を自分の気まぐれや我儘わがままに突き合わせてきた自覚が八重にはあった。その多くはきたるべき未来への恐れを払拭ふっしょくする為に、敢えて振り回したものだった。

 あの夜、何も知らずにいた八重が黄師こうし隊長に食って掛かったのを身体を張って止め、庇い守ってくれた日から、彼はずっと、兄の代わりに側に付き添ってくれた。そうだ。あの日の少年は少年のままではなかった。日々い育ち、邑長の弟として為すべきことを為し、恥ずべき事など一切ない青年になった。今まで、その変化に気付かないふりをしてきた。それ程までに近くで、当然のようにこの背中に守らせてきた。

 微かに唇を引き結ぶと、八重は唇を開いた。

「なぁ長鳴。熊掌の話、なんやったん?」

「――……。」

 長鳴は微動だにしない。いらえも――返らない。

 八重の唇から吐息がれた。己に向けての失笑だったかもしれない。邑長邸で兄弟二人だけで話すと熊掌から退出をうながされた時に、微かな希望のようなものを見た気がした。何かしらの逃げ道を熊掌が考えついてくれたのではと――そんな都合のいい事を思い描いてしまった。馬鹿だ。あれだけ好き勝手に詭弁きべんろうしてきて、明日へ負債を繰り延べておいて、今更あらがおうなどとは。


 片腹痛いわな。


 愈々いよいよ時が来た、という事だ。

「なあ長鳴。もう、ここが潮時や」

 長鳴が呆然とした相貌そうぼうで振り返る。その下がり眉の情けなさに――八重は笑った。

「やっとこっちみた」

「八重」

「流石にうちにもわかるわ。梶火にも熊掌にも感謝しとる。ここまできたらもうどうしようもないわな。――本当に、長い間ありがとうございました」

 八重が膝を折り深く頭を下げると、長鳴は息を呑んだ。

「八重……やめてくれ。顔を上げてくれ」

「この顔とも間もなく泣き別れや。使えるうちに下げさせて。特にあんたには、この七年――いや、もう八年か。ずっとべったり世話焼かせてしもた。ほんまに堪忍やで。うち、我儘ばっかりやった。ほんまは厭やったろうに。ごめんな」

「そんなことは……っ」

 悲痛な顔をした長鳴と、達観の笑みを浮かべた八重と、あまりに二人の表情は違い過ぎた。

 ぐ、と長鳴の眉間に深い皺が刻まれた。それは、腹を決めた者の顔だった。

 二人には、十二分に考えるだけの時間も、結論を先延ばしにする猶予も最早残されてはいないのだ。

 長鳴は八重の元へゆっくりと歩み寄ると、自身も彼女の前に膝を突き、そっと八重の双肩に手を置いた。

「八重、大事な話がある」

「話?」

「時間がないから、順を追って説明する。嘘は吐かないから、疑わずに飲み込んで欲しい」

 前髪から落ちた汗が目に入り、長鳴はまたたいた。どくどくと、喉元を厭な動悸が支配している。背筋が凍えてでもいるかのようだ。長鳴は震えていた。恐ろしさでもあり慟哭でもあるものを、八重の肩に置いた掌の下に必死で抑え込もうとしていた。



「兄上は――男じゃない」



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