29 はじめから


          *


 熊掌ゆうひの元に自警団の者がけ込んできたのはの刻の事だった。



 熊掌がえいしゅう帰邑きゆうしてから既に七日が経過している。

 帝壼宮ていこんきゅうからむらへ戻れば、そのまま三月みつきほどは姮娥こうがから余分な干渉を受ける事なく瀛洲で静かに過ごす事が出来る。これまではずっとそうして、僅かな休息を得て精神を立てなおしてきた。

 しかし白浪はくろうが動き、その手の内に悟堂ごどうがあると分かった今、熊掌がのうのうとしていられるはずもない。その為、帰邑前に帝壼宮へ帰宮申請を出してきた。

 本来であれば入宮手続きとして、えいしゅうの駐屯師団にこちらから申し出、宮城からの許可を得るという流れがとられる。帝壼宮ていこんきゅうえいしゅうを移動するには片道で一月は掛かる。申し出て許可を得て使者が戻るまでの間に次の移動予定期となってしまうのだ。形式張って見えるが、その目的の一部に兵の交代と伝令が含まれているため、敢えて改定が加わる事はなく今日にまで至っている。


 しかし、今回に限ってはそんな手順を踏んでいる場合ではない。


 故に、宮城を出立する間際、邑へ帰投し引き継ぎが終わり次第直ぐに帝壼宮ていこんきゅうへ参内したい旨許可を願い出てきた。出願が出立間際だったため許可が間に合わぬまま帰邑したが、すぐに返答が来ると思っていた。しかし、帰邑より七日が過ぎた現在でもまだ沙汰が降りない。

 白浪の使者で宮中が乱れているからだというのは分かる。しかしそれでも遅い。熊掌の脳裏からは片時も悟堂の事が離れない。

 焦燥で肌が焼ける思いだった。

 現在の朝の状況を南辰なんしんと共有した結果、矢張り熊掌は早急に宮城へ戻り策を実行に移すのが最善であると言う事になった。最早もはや後退はその算段にない。長鳴ながなきの了解も得た。

 南辰らは手筈通りに、邑人を瀛洲の外へ脱出させる段に入る。これは明らかなる朝廷に対する叛意はんいである。邑に手が及ぶ事も十二分にあり得た。その最大限の回避の為に逃走するのである。


 ――あとは、その時を何時とするかだ。


 やはり、熊掌が帝壼宮ていこんきゅうに入った後が妥当だが、距離がある以上状況が変遷する可能性を考慮し、長鳴と南辰の判断で実行に移すと言う事で、見解を一致させた。そして、この時かじは既に邑から出ている。彼の働き如何いかんが今後の邑の生死を分ける事になるのだ。


 やっとここまできた、という思いが熊掌にはある。

 あまりに長い歳月だった。


 立場上熊掌は自由に動けない。邑に戦力を持ちたくとも自身では何一つ行動できない。動かせない。そんな熊掌に代わり、手足となって大きくおぎなったのが梶火だった。

 四日前の丑の刻。外部に繋がるあの隧道から常の如く静かに発つ梶火の背中を熊掌一人で見送った。言葉は最早必要ない。ただ、結んだ視線と一度の首肯。これ以上に相互の関係を認めるものはなかった。

 疑いなく、背後を預けられるただ一人の存在。

 熊掌にとっての梶火も、梶火にとっての熊掌も、間違いなくそうだった。互いに、自らの手では成しえない、持ち切れない荷を相手に預け、相手の荷を背負った。

 しかし、この時両者の胸中にあった物は恐らく大きく異なる。

 両者とも、これで終わりだという認識は同じだった。

 梶火は、これで熊掌がこれまでのくびきから解き放たれると予感していた。対して熊掌は――これが恐らく今生の別れとなるだろうと認識していた。

 終焉しゅうえんの為の嚆矢こうし。しかしその辿り着く場所として見た場所がまるで違う。

 熊掌はそこに乖離かいりがある事を理解していたし、梶火は理解していなかった。だからこそ離れる事ができたのだとも言えよう。

 隧道の果てに梶火の背が消えたのを見送ると、熊掌は静かに瞼を伏せた。



 八年。

 時は満ちたのだ。



 ――じじ、と灯火が隙間風に揺れる。亥の刻である。

 邑長邸にてつどうのは、ゆう南辰なんしん長鳴ながなき八重やえの四人だ。

 各々顔を見合わせ、そのまなこの内に覚悟の整いを見出す。

 粗方あらかたの事を確認し終えると、南辰は黙ってうなずいてから「後の事は安心して任せなさい」と熊掌に微笑んだ。

 邑においてはこの八年、この叔父の助力がなくば何一つまともに機能させる事はできなかったろう。熊掌は「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 と、南辰が小さく息を吐いた。

「南辰?」

 怪訝な顔をして彼を見ると、南辰はやや苦い笑みをこぼした。

「――恨まれているだろうな」

 熊掌は、静かに唇を引き結んだ。

 一瞬躊躇ためらった。そこには長鳴ながなき八重やえも同席していたからだ。しかし、今ここで話をにごす事は正しいとは思われなかった。すっと息を吸い込む。

「――そうではない、とは言えませんが」

「私の一存でお前達を引き剥がした。いつかびねば、と思っていた」

「邑を第一に考えれば、そうなるでしょう。仕方がなかったとは言いませんし、貴方を憎まなかったと言えば嘘になる」

 一瞬間を置いてから熊掌は「――紫炎しえんの為にも、貴方への憎悪は否定したくない」と続けた。

 八重が何の事か分からないといった顔で熊掌達を見る。答えは見いだせず長鳴に視線を向ける。長鳴は――眉間に皺を寄せてから、小さく首を横にふっていた。「あとで」と小さく付け加えていた。

 熊掌と南辰、二人の視線が絡む。

「でも、貴方が自分自身の都合の為にそうしたわけではないのはよく分かっているから、酷いですよね。恨みようがない。何より、貴方に邑がいた犠牲も大きい」

 熊掌は静かに苦笑した。

「我々は、なんと不自由な生まれに落ちたのでしょうね」

「ああ、本当にそうだな」

 南辰も苦笑して見せる。


 叩扉の音が聞こえたのは、正にその時だった。


「なんだ? こんな時刻に」

 南辰が怪訝な顔で膝を立てかけた時に、下男が障子越しに声を発した。

「夜分に申し訳ありません」

「どうした」

「自警団の者が……」

 熊掌と南辰は眉間を険しくして互いの顔を見合う。南辰が「通しなさい」と告げると、間もなく血相を変えた三雲みくもが駆け込んできた。

 梶火の不在時には彼に変わり自警団を取りまとめている男だ。彼が監視の黄師から受け取ったという書状を差し出すと、南辰は立ち上がってそれを受け取り、そのまま熊掌に手渡した。

 受け取った熊掌が書を広げ一べつする。南辰は、その表情が瞠目どうもくで歪むのを見た。


「どうした」

「――璋璞しょうはくが、ここに向かってきている」


 南辰がびくりと肩を震わせる。

「馬鹿な……右将軍が何故に」

 書に目を落としたままだった熊掌の口元が笑みに歪む。我知らず書の両端を握り潰していた。

蓬莱ほうらいの民が一部仙山せんざんくみしていた事が明らかになり、一旦はその身柄を捕らえ帝壼宮ていこんきゅうへ移送していた器の娘も将軍を倒して逃走したとの事――だそうだ」

 南辰は思わず立ち上がった。

「――待て、器の娘とは藤之ふじの保食うけもちの事か? それが右将軍を倒しただと? あの猛将を? 一介の娘が? いや、そもそもあれは病弱だという話ではなかったのか?」

たばかりであったようです。実際は仙山でも一、二を争う剣豪であると」

 熊掌は、額を抑えながら正座していた脚を崩すと、膝を立ててから笑った。

「――蓬莱め……! やってくれる」

 前髪をぐしゃりと握り潰しながら、熊掌はぎりと歯噛みした。そしてその視線を部屋の片隅へ向けた。

「ついては――八重やえおう方丈ほうじょうに連れて参られる、と」

 そこには、立ち上がりかけた長鳴と、胸の前で両手を固く握りしめ、青褪めた八重がいた。

 八重の唇が震えながら問う。

「――行けば、直ぐにでも継承になるんやろうか」

 熊掌は首を横に振った。

「否、それはないだろう。現在の器が問題なく機能している今、無理に引き継ぐ理由もないからな。――必要なのは次代継承が可能な娘を監視下に置き体制を護る事。藤之保食が逃げた今、表立っては継承できる人間がお前しかいないんだ」

「――せやな。そういう事、やな」

 ふ、と無理に笑いながら、八重は自身の手を膝の上に下ろした。長鳴が隣からその手を握りしめる。二人の視線が絡む。

 覚悟は出来ていたはずだった。――しかし、こうも唐突に訪れるとは思わない。八重の手の震えは、止まらない。

「あ、兄上、なんとか、何とかならないものでしょうか」

 見開かれた弟の眼に、熊掌の表情も自然険しくなる。

「無理だな。藤之保食が璋璞しょうはくを単独で打ち破れる程の強さを持っているというならば、間違いなく不死石しなずのいしの安置をまぬかれている。そんな強者と比較すれば、御しやすい八重を選ぶに決まっている。ましてや本人が姿を消しているんだ。――ただでさえ、八重は『色変わり』皆無という稀有けうな生まれであり、えいしゅうは八重を次期器とする事を誓約している。自ずと結論は出ている」

 熊掌の非情な言葉に、八重の身が、がくりと前に崩れた。長鳴がその肩を引き寄せる。弟の悲痛な眼差しが遣る瀬無く遠くをにらみ付けるのを、熊掌もまた見守るしかない。

 早馬とはいえ、恐らく通常より急ぎこちらへ移動しているはずの本隊がそれ程後れを取るとは思えない。ならば璋璞しょうはくえいしゅうへ着くのは恐らく一晩おいて明日が限度だろう。

 熊掌は、大きく息を吸い込みながら固く目をつむる。

 分かっている。手立てならばあるのだ。はじめから。


 はじめから、そうするつもりだったんだ。


 強く息を吐き出すと同時にまぶたを開いた。

「長鳴」

 低く重い兄の声に、びくりと顔上げ目を向けた。

「――はい」

「一つだけ考えがある」

「は」

「南辰、八重。長鳴と二人で話がしたい。しばらく座を空けてくれないか」




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