28 祓詞



 思わず浩宇こううは息を飲み、顔を後ろに向けた。

 そこにいた保食うけもちは、ただ静かにうつむいていた。とても綺麗な顔で。

「保食それは」

「お前は悪くないなんて言わないでよね。それをあんたが決めないで」

 低く静かに発せられた声に、浩宇は唇を引き結ぶと、再び前を向いた。

「――そうだね。罪悪感は個人のものだ」

「あんたも、あたしを生かすためにその手を汚してくれた。だからあたしもこの手が汚れる事をいとわない。――ちゃんとあたしを指名してくれてありがとう」

「どういたしましてって言っておけばいいかな」

「だって、これはあんたからの信頼ってことでしょ」


 浩宇は――笑った。

 ああ、これで十分だ。報われた。

 ちゃんと、保食には自分の真意が伝わっていた。

 保食が一方的に護られる事を嫌うのは、自身が正当に評価されていないと感じるからだ。それは保食からすれば侮辱だろう。浩宇もそう思っていた。だから、一切の手加減をすることなく、この場に臨む者として彼女を指名した。そして彼女はそれを真っ直ぐに受け止めてくれた。


 もう、悔いはない。


「あんまり難しく考えないで。これは僕の我儘わがままなんだからさ、そんな風に自分のせいだなんて思わなくていい。僕だけじゃないよ。水麒すいきくぐいもだ。全部、僕達が自分で選んでやってる事なんだから」

「ほんとあんたたち勝手すぎなのよ。――うんと子供の頃、あんたと馬鹿な事するの、楽しかった」

「うん。僕もだ」

「大きくなったら浩宇のお嫁さんになりたいってあたしが言った時に、今生では無理だから来世でねって言ってきたの、あんたこそ覚えてる?」

「うん。覚えてるよ」

「あたしは生まれ変われそうにないから――忘れてくれていいわ」

「それは厭だよ。思い出くらいは持って行かせてよ」

 く、っと、浩宇の背後から喉を鳴らす微かな音がした。



「――あんた、ほんとに馬鹿ね」



 ああ、と、浩宇の表情が微かに歪んだ。

 やっぱり、言ってしまえば良かったな。



 君が何より大切だったって。



 保食は、右手の人差し指と中指をそろえ、刀身を上から下までゆっくりとなぞる。



「掛けまくも畏き

 伊弉冉大神

 伊弉諾大神に種魂与へ給ひて

 黄泉戸大神の隔て給へれど

 禊ぎ祓へ給ひし時に

 生り坐せる祓戸の大神等

 諸々の禍事罪穢有らむをば

 祓へ給ひ清め給へと

 白すこと聞こし召せと

 恐み恐み白す」



 月桃より教えられたはらえことばとなえ終えると、保食は嗚咽おえつを飲み込んでその言葉を口にした。



「是にある――『環』成りませり」



 浩宇の頭頂から背中が羽化の如く左右に割れ、内からずるりと頭蓋骨とうがいこつ脊椎せきついが僅かな血肉を道連れに抜け出た。

 肉の身は、柱たる骨を失い、べしゃりと地にう。ほうとう天之尾羽張あめのおはばりを支えとした骨だけが、静かにその中空に屹立きつりつしていた。それはやがて薄く淡く発光すると、からん、と音を立てて石床の上に落ちた。そうして――中空には刀身だけが浮いて残った。

 保食は震えながら石の上に膝を突くと、その白い環とそれに連なる鎖を拾い上げた。がたがたと震える手で感じたそれは、思いの外軽く、そして温かかった。

 胸に強く抱き留めてから、一旦石の台の上に乗せると、保食は立ち上がり再び天之尾羽張あめのおはばりを手に取った。荒い呼吸の中、ゆっくりと三方へと歩み寄る。『かんばせ』をいましめている『環』に刀身を添わせると、再びはらえことばを口にし、こう続けた。



「是にある『環』に黄泉よみどの大神おおかみへだてを取り払いて、そのあらみたまに新たなる肉のにえたてまつる」



 かしゃ、と、音がした。

 三方の上の『かんばせ』を取り巻いていたが――外れていた。

 続いて、かしゃかしゃかしゃと音が続く。に連なる鎖の一つ一つが外れ、それが縦に重なり合ってゆく。暗闇の果てに薄く隠れていた鎖も徐々に姿を現し、それはやがて、先程までの中空に屹立していた浩宇の骨と類するような変幻を為した。地に落ちていた浩宇の肉がふわりと立ち上がる、その割れた背中側から、つい今しがたまで『顔』を戒めていた『環』であった物が、静かにゆっくりと侵入していった。ずるずるとうごめく蛇のように肉の内に骨が収納されてゆく様に、保食はたまらず嘔吐おうとした。

 吐き出せるだけのものを吐き出した後、そこに立ち尽くした姿に再び目を向けると、うつむき加減に自身の両掌を見下ろす浩宇の姿があった。

 しかし保食は既に知っている。これはもう浩宇ではない。これは浩宇の抜け殻をまとった別の生き物なのだ。

 男は――ふいに顔を上げると、くるりと保食の方へ顔を向けた。そこにあったのは確かに浩宇の顔であったが、その眼つきも表情も彼とは何もかもが違っていた。強く激しく猛々しく、しかし腹の底では一分の狂いも乱れも赦さない、慎重すぎる程の警戒心を抱えた事が分かる――そんな男が、そこにいた。


「――貴様が、俺を呼び起こしたのだな」

 

 声が――声が違っていた。保食は黙ったまま男の顔をただじっと見詰めた。

石上麻呂足いそのかみのまろたりと、阿部御主人あべのみうしは既に黄泉よみがえっておろう。彼奴きゃつ等がいる場へ俺を運べ」

 有無を言わさぬ圧力をはらんだ言葉に、保食は小さくうなずく事しかできなかった。むらの入り口には、彼を迎える為の馬と黄師こうしの中隊が待機している。

 保食は項垂れながら、浩宇だった『かん』と、解き放たれた『かんばせ』を腕に拾い上げて、ぐっと眉間を険しくしてから男へと顔を向けた。



「これより瓊高臼にこううす山へお連れいたします。――葛城かつらぎ様」







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